先日、あるグループラインに転載テキストが貼られて、
それを見たひとりが、それはデマだと言い出した。
内容自体は、医療現場の困難さと
手洗いマスクの徹底と、
外出をしないこと!という内容だったのだけど。
発信元がだれなのか、とか、
そういった転載の責任について、とか
そんなやりとりを見守っていた。
そしてデマだと主張するその人が、
なにを恐れているのかがわかったとき、
「ああ、それ、こないだ私の中にみつけたやつ。」
と気がついて、なるほどね、と思ったのだ。
パニックを恐れていた。
ある方の発信の中で、自分の中でざわついたもの。
このざわっとした感じはなんだろう。
名前をつけねばと思い、丁寧に探ったら、
それが「パニック」だった。
パニックに陥った時の、あの手がつけられない感じ。
自分のパニックも、人のパニックも同じように怖い。
それは、私の中の恐れとして馴染みのあるものだった。
では、そもそもパニックとはなんなのか。
エネルギーの一点集中とでもいうか。
パニックという言葉には、混乱というイメージがあるが、
むしろ一点に集中していくものすごいエネルギーを感じた。
その一点とは「生きる」ということだ。
それは排他的とも言えるほどの集中力を見せ、
白く円錐形に輝いていた。
ああ、これはかつて、地球ができる前に、
試作としてつくった星が吹っ飛んだ時のあれだわ。
星が一つ粉々に吹っ飛ぶほどの凄まじいエネルギーを、
私たちは内に秘めている。
あーー、そりゃ怖いよねー。
「生きる」に集中した結果「死」に至るわけだもの。
警報がなるのは当然だ。
このエネルギーに酷似したもの、
それがあの核エネルギーですわ。
以前私は、この手に余る凄まじいエネルギーをいかがしたものかと、
どうすることもできず抱きしめていたら、
はじめ禍々しさを孕んだ燃えたぎるエネルギーは、
高速回転したのちエネルギー変換が起こり、
やがて凝縮した小さいけれど莫大なエネルギーを持つ、
まばゆい光の球となった。
さて、ではこれをいかがしたものかと思うや否や、
私はひょいとそれを飲み込んだのだった。
それが自分の中にあることを、重々承知していた。
ある、というだけで、どうするというものではない。
デマだと主張する彼に「パニックが怖いんだね」と言うと、
彼は「そう、まさにそれ。」と言って、
それまでのピリピリした空気は一転した。
転載をした人が、どうもデマだったようだと謝罪し、
和解とあいなった。
デマを主張した彼は、表面上その真偽を気にしていたが、
実際のところは文章から滲み出る
パニックに繋がる危機感を感知していた。
それは、まごうことなき私なのだ。
どうするというものではない。
ただ「怖い」ということを認めてしまえばいいだけだ。
実のところ、認めてしまうと不思議とそれは愛しさに変わる。
もしも拡散される情報があるのなら、
それが不安を煽るものではなく、
希望を見出せるものであるといいなと思う。
そんな折、ある取引先の方がメールにて、
「大変なことになっていますので
お互い無事で乗り越えられますように!」
と、書き添えてくださった。
そこに私は希望という美しい意識を見たよ。
それを見たひとりが、それはデマだと言い出した。
内容自体は、医療現場の困難さと
手洗いマスクの徹底と、
外出をしないこと!という内容だったのだけど。
発信元がだれなのか、とか、
そういった転載の責任について、とか
そんなやりとりを見守っていた。
そしてデマだと主張するその人が、
なにを恐れているのかがわかったとき、
「ああ、それ、こないだ私の中にみつけたやつ。」
と気がついて、なるほどね、と思ったのだ。
パニックを恐れていた。
ある方の発信の中で、自分の中でざわついたもの。
このざわっとした感じはなんだろう。
名前をつけねばと思い、丁寧に探ったら、
それが「パニック」だった。
パニックに陥った時の、あの手がつけられない感じ。
自分のパニックも、人のパニックも同じように怖い。
それは、私の中の恐れとして馴染みのあるものだった。
では、そもそもパニックとはなんなのか。
エネルギーの一点集中とでもいうか。
パニックという言葉には、混乱というイメージがあるが、
むしろ一点に集中していくものすごいエネルギーを感じた。
その一点とは「生きる」ということだ。
それは排他的とも言えるほどの集中力を見せ、
白く円錐形に輝いていた。
ああ、これはかつて、地球ができる前に、
試作としてつくった星が吹っ飛んだ時のあれだわ。
星が一つ粉々に吹っ飛ぶほどの凄まじいエネルギーを、
私たちは内に秘めている。
あーー、そりゃ怖いよねー。
「生きる」に集中した結果「死」に至るわけだもの。
警報がなるのは当然だ。
このエネルギーに酷似したもの、
それがあの核エネルギーですわ。
以前私は、この手に余る凄まじいエネルギーをいかがしたものかと、
どうすることもできず抱きしめていたら、
はじめ禍々しさを孕んだ燃えたぎるエネルギーは、
高速回転したのちエネルギー変換が起こり、
やがて凝縮した小さいけれど莫大なエネルギーを持つ、
まばゆい光の球となった。
さて、ではこれをいかがしたものかと思うや否や、
私はひょいとそれを飲み込んだのだった。
それが自分の中にあることを、重々承知していた。
ある、というだけで、どうするというものではない。
デマだと主張する彼に「パニックが怖いんだね」と言うと、
彼は「そう、まさにそれ。」と言って、
それまでのピリピリした空気は一転した。
転載をした人が、どうもデマだったようだと謝罪し、
和解とあいなった。
デマを主張した彼は、表面上その真偽を気にしていたが、
実際のところは文章から滲み出る
パニックに繋がる危機感を感知していた。
それは、まごうことなき私なのだ。
どうするというものではない。
ただ「怖い」ということを認めてしまえばいいだけだ。
実のところ、認めてしまうと不思議とそれは愛しさに変わる。
もしも拡散される情報があるのなら、
それが不安を煽るものではなく、
希望を見出せるものであるといいなと思う。
そんな折、ある取引先の方がメールにて、
「大変なことになっていますので
お互い無事で乗り越えられますように!」
と、書き添えてくださった。
そこに私は希望という美しい意識を見たよ。