「私」はどう思うか、なのである。


どう思ってもいいのだ。

何を思ってもいいのだ。


誰それのいうことは正しいとか間違ってるとか、
そんなことはどうでもいいのだ。

それは「私」の意識の断片にすぎない。

それを採用しても採用しなくてもいい。



ただ、思うことがそのまま世界をつくるので、
その世界に「私」は責任があると言える。


自分がいる世界の責任は自分にある。

それは会社をもっている感覚にちょっと似ている。


「私」を含む現実の最高責任者は「私」だ。
その責任は誰かに押し付けられるものではない。


ただ、その責任というのは、
謝罪会見にあるような、ああいうものでもない。

静かで厳かなものだ。


それは「思う」という選択によってなされる。


「思う」ことに全責任を持つ。

それを自主独立という。




それが創造主という立ち位置だ。




誰もが「私」の世界の創造主であり、最高責任者である。