これ、この道を始めるときに心するもので、
あらゆるジャッジを外していくことになる。

ジャッジというのは、いい、悪いの判断ね。

これは肉体意識のサバイバルからきてる。
正しくある必要性もここ。


「いい」とされるものを選択し、
「悪い」とされるものを避けることは、
生きるにあたって重要なこと。

例えば

体に悪いものを食べると病気になるから、
体にいいとされるものを食べよう。

→体に悪いものは食べてはいけない。


優しいいい人の方がいいに決まってる。
だから人の気持ちのわかるいい人になろう。

→身勝手な人はだめ。


これらを指針にすることで、社会でうまくやっていける。

ーーーと思っている。

これがサバイバル意識。



ジャッジを外すと、
食べたいものを、食べたいときに食べる。
そして、いつ、どんなときも、自分のしたいようにする。

これね、外したからって逆方向にいくわけじゃなくて、
本当に肉が苦手な人はやっぱり食べないし、
身勝手にしたところで人に迷惑をかけるわけじゃない。


そして「食べたいもの」が本当に体が必要としているものになる、
体が必要としてるものを、知らず知らず食べる。


食べちゃいけないものなんて、ないっす。
やってはいけないことなんて、ひとつもないっすわ。


そしてジャッジをしないということは、
ジャッジすることすらジャッジしない。

思ってはいけないことなんてない。


よくね、
「こんなこと思いたくないのに」ってのがある。

思っていい。
思ったことは思ったこととしてよしとする。


思いたくないのにいいいいいいいいって、
ぐぅぅぅううううって感じ、あんじゃんね。

大嫌いって思った。
こんな感情になりたくないのにいいいい。

そうやって自分の感情を否定すると、
その大嫌いはついてまわる。

大嫌いって思った。

否定しなけりゃ、瞬時に終わる。


まあね、その大嫌いがそもそも何から発祥してるかがわかれば、
案外大好きになったりもするんだけど。


嫌だ。 ってのもあるね。
これはねーーー、私もほんとにてこずった!
嫌なものは嫌なんじゃ!

痛いのは嫌なんじゃーーーーーーって思ってたからね。


あったりまえじゃん。
痛いのは嫌にきまってんじゃん。

そういうどMじゃないわ。

そう思ってたんだけど。


これ、外して外してってやってくと、
ただの「痛い」になる。

いや、痛いのは基本嫌だよ?

でも、痛いのは嫌だから体から痛みをとろうとしたり、
なんとかしてそこから脱出したり、攻略したいと思ったり、
とにかく治したいと思う、そういうのがなくなる。
ここには細かなジャッジがいっぱいあった。


今は自然治癒力にお任せする、って感じかな。


そもそも「痛いのは嫌だー!」となぜ思うかというと、
続くと思ってるからなんだよね。

慢性的な体の痛みは続いてるからこそ
よけいにそう思うもんだけど、
例えば、かすり傷みたいな「治る」とわかってるものなら、
そこまで強く「嫌なんじゃーーー!」とは思わない。

「痛っ」

で終わるじゃん。



ジャッジを外してくと、いろいろ気にならなくなる。
自分のことも、他人のことも。




ああ、そうなんだね。


それで終わる。