引きの視点と言うこともあります。
とにかく、そこからちょっと離れて、
全体を見てそこに何があるか、行われているか、を見る。
これはドラマのネタバレとも言えるかも。
感情的にぐるぐるになったりするとき、
あるいは思考がぐるぐるになるとき、
意識的に一旦そこから離れて眺めます。
そこに何が在るのか。
何が行われているのか。
それを、強引にでも「全部自分なのだ」という認識で見ます。
最終的にそこに落とし込もうと意図します。
例えば、すごく誰かにイライラしたとする。
あの人が変わってくれないと、このイライラは収まらないと思うとする。
あの人のここが間違ってる。
あんなんじゃだめだ、と思ったとする。
ここに、「私は違う」という認識がある。
相手を否定したい気持ちが増幅する。
この状態を「ドラマにハマってる」と言います。
そういうとき、どうやったら相手が自分だと思えるだろう。
私がやってきた手順をご紹介するなら、
1. まずはとにかく、感情の解放。
そのイライラを体いっぱいに溜めて、息と一緒に体から吐き出す。
もう一度息を吸って、今度はすすぐ。
ピカピカでツルツルの気を入れる。
ゆっくり息を吐く。
これでちょっと感情がおさまります。
2. 相手に対して、自分がどう思ってるのかを認識する。
ジャッジを入れません。ただただ、どう思っているか。
私はとにかく書き出しました。箇条書きで。
相手が自分に対して、思っているであろうことを認識する。
これもジャッジを入れずに淡々と書き出す。
感情が激しくても、それをやる。
そこにどんな感情や、正義や、こうあるべき!と思っているかが書き出されます。
そこに見えるもの。
自分が自分に、何を課してきたかが見えます。
自分に対する掟のようなものです。
そして、その掟を守ることで得てきたもの、
あるいは得られると思っているもの、
そんなのが出てきます。
だいたいは、 「承認」 です。
よく頑張ってきたね。
よく守ってきたね。
あなたが正しい。
これを、人から言われたかったのだと、
自分を認めて欲しかったのだと気づきます。
これ、実のところ、誰かじゃあんまり効果がないと言うか。。。。
その承認欲しさにずっとぐるぐるしちゃうんで、
ここにあるぐるぐるを手放そうと、本当に思うなら、
自分が、自分に対して、ほんとーーーーーーーに、
よ く や っ た !!!!!
と、承認しちゃうことです。
これ、自分にしかできません。
自分承認の威力はんぱないです。
そうすると何が起きるかというと、
その正しさを、誰かに証明しなくても平気、ってなります。
そうすると「それじゃだめなんだって!」って
誰かに言う必要がなくなってしまいます。
だって、承認が欲しくて言ってただけだったわけで。。。
そしてその欲しかった承認は、すでに手に入れてるので。。。
その全部を上から、
全ての登場人物を上から見てみる。
あら、
全部私だったわ。
ね。
ひとつ忘れてました。
これは私の場合そうだった、という話ですが。
「正しさ」の証明をしようとしてた私と、
「何が正しいのかわからない」という私がいました。
分からないからこそ、同意を求めたかったのです。
分からないからこそ、教えて欲しかった。
確認したかった。
なので、どうすっ転んでも私は間違えない法則に則り、
私は私の中の正しさを、全面的に認めたのです。
無条件で、私は正しい。
私はこれでいい。
すると、「正しさを教えてくれる人」がいなくなりました。
そして「あなたは間違ってる」と言う人もいなくなりました。
だって、
「あなたがどう言おうと、私はこれでいい」
なんて言われたら、誰も何も言えないじゃんね。
そして何をしても正しい私は、
もう誰にも正しさを教えてもらわなくても大丈夫。
そして「私はこれでいい」と思ったと同時に生まれたのは、
「あなたもあなたでいい」というものでした。
実のところ、だめだと思っていたのは、
「分からない私」だったのです。
「分からない私」に「わかってる私」が教えようとしてただけでした。

私が私を認めれば、終わるドラマだったのです。
とにかく、そこからちょっと離れて、
全体を見てそこに何があるか、行われているか、を見る。
これはドラマのネタバレとも言えるかも。
感情的にぐるぐるになったりするとき、
あるいは思考がぐるぐるになるとき、
意識的に一旦そこから離れて眺めます。
そこに何が在るのか。
何が行われているのか。
それを、強引にでも「全部自分なのだ」という認識で見ます。
最終的にそこに落とし込もうと意図します。
例えば、すごく誰かにイライラしたとする。
あの人が変わってくれないと、このイライラは収まらないと思うとする。
あの人のここが間違ってる。
あんなんじゃだめだ、と思ったとする。
ここに、「私は違う」という認識がある。
相手を否定したい気持ちが増幅する。
この状態を「ドラマにハマってる」と言います。
そういうとき、どうやったら相手が自分だと思えるだろう。
私がやってきた手順をご紹介するなら、
1. まずはとにかく、感情の解放。
そのイライラを体いっぱいに溜めて、息と一緒に体から吐き出す。
もう一度息を吸って、今度はすすぐ。
ピカピカでツルツルの気を入れる。
ゆっくり息を吐く。
これでちょっと感情がおさまります。
2. 相手に対して、自分がどう思ってるのかを認識する。
ジャッジを入れません。ただただ、どう思っているか。
私はとにかく書き出しました。箇条書きで。
相手が自分に対して、思っているであろうことを認識する。
これもジャッジを入れずに淡々と書き出す。
感情が激しくても、それをやる。
そこにどんな感情や、正義や、こうあるべき!と思っているかが書き出されます。
そこに見えるもの。
自分が自分に、何を課してきたかが見えます。
自分に対する掟のようなものです。
そして、その掟を守ることで得てきたもの、
あるいは得られると思っているもの、
そんなのが出てきます。
だいたいは、 「承認」 です。
よく頑張ってきたね。
よく守ってきたね。
あなたが正しい。
これを、人から言われたかったのだと、
自分を認めて欲しかったのだと気づきます。
これ、実のところ、誰かじゃあんまり効果がないと言うか。。。。
その承認欲しさにずっとぐるぐるしちゃうんで、
ここにあるぐるぐるを手放そうと、本当に思うなら、
自分が、自分に対して、ほんとーーーーーーーに、
よ く や っ た !!!!!
と、承認しちゃうことです。
これ、自分にしかできません。
自分承認の威力はんぱないです。
そうすると何が起きるかというと、
その正しさを、誰かに証明しなくても平気、ってなります。
そうすると「それじゃだめなんだって!」って
誰かに言う必要がなくなってしまいます。
だって、承認が欲しくて言ってただけだったわけで。。。
そしてその欲しかった承認は、すでに手に入れてるので。。。
その全部を上から、
全ての登場人物を上から見てみる。
あら、
全部私だったわ。
ね。
ひとつ忘れてました。
これは私の場合そうだった、という話ですが。
「正しさ」の証明をしようとしてた私と、
「何が正しいのかわからない」という私がいました。
分からないからこそ、同意を求めたかったのです。
分からないからこそ、教えて欲しかった。
確認したかった。
なので、どうすっ転んでも私は間違えない法則に則り、
私は私の中の正しさを、全面的に認めたのです。
無条件で、私は正しい。
私はこれでいい。
すると、「正しさを教えてくれる人」がいなくなりました。
そして「あなたは間違ってる」と言う人もいなくなりました。
だって、
「あなたがどう言おうと、私はこれでいい」
なんて言われたら、誰も何も言えないじゃんね。
そして何をしても正しい私は、
もう誰にも正しさを教えてもらわなくても大丈夫。
そして「私はこれでいい」と思ったと同時に生まれたのは、
「あなたもあなたでいい」というものでした。
実のところ、だめだと思っていたのは、
「分からない私」だったのです。
「分からない私」に「わかってる私」が教えようとしてただけでした。

私が私を認めれば、終わるドラマだったのです。