今朝、電話があって、珍しく相手は父だった。

50mほど離れた母屋から。


「ちょっと来てくれんか。なんかおかしいんだ。」
「はいはい。すぐ行くから待ってて。」


倒れてない。本人からだ。
なんだなんだどうしたと、慌てて母屋に向かった。

うん。倒れてない。
どうしたのかと聞いたら、


「死期が近まった気がする。」

「なになに、どしたのさ。」

「心臓の打つのがやけに早いんだ。」

「OK。わかった。お医者さんいこか。
 まってて。着替えてくる。そこに座ってて。」


着替えて戻った頃には症状も落ち着いていた。
心臓は症状が出てる時でないと診断はできないらしいしな。
こういうことも、この先あるだろうよ。
とりあえず病院は先送り。

そういうときの、対処法・可能性なんかを
鍼灸師に聞いといてみるね、と言ったら安心したみたいだ。


死への恐怖というのは、肉体を持つ以上当然備わっている。
例えば、別に死んでもいいと思う私でも、
高いビルの屋上では足がすくむだろう。
車が向かって来たら、避けようとするだろう。
毎日食事をするのもこれに含まれる。
そういうことなのだ。

これは肉体を存続させるという目的のある生命体として当然のサバイバル意識で、
生きることを目的としているので必要なのだ。
魂意識だけだと、平気でビルから飛び降りるからね。怖くないから。
私たちは生きることを選択して生きている。


死に直面した(と思った)父は、当然怖かったろう。
欲しいのは安心感だ。
80も半ばを過ぎ、それはいつやってきてもおかしくない。
最期の最後まで、父の生をそばで支えてあげようと思う。
これは私の「生きることへの敬意」でもある。


ま、100までまだあるしね。


とことんつきあうよ。