いい人になる必要はなく、
同じ比重で悪い人になる必要も無い。
そしてまた、誰もがいい人でも悪い人でもない。

例え殺人を犯したとしても、
殺人を犯した人であるだけで、
いい人でも悪い人でもない。

優しさも、
優しさとしてあるだけで、
善くも悪くもない。

「私」は「私」であることしかできない。


「私」はいい人でも悪い人でもなく
限りなく「私」であるだけのこと。


嫌だな、と思ったとき、
嫌だな、と思った「私」がいるだけで、
嫌だな、と思う事は良い事でも悪いことでもない。

嫌だなと思う自分が嫌だな と思ったとき、以下略。


「それは悪い事だ」と思ったとき、
そう思った自分がいるだけで、
それ自体は善くも悪くもない。

「それ」はどこまでも「それ」でしかない。


禅問答みたいで恐縮ですが、
ジャッジを手放すということは、そういうことなんだと思います。

もちろん、ジャッジを手放す事も、
いい事でも悪い事でもなく、
ただ、手放すだけのことでしかありません。


手放さないといけないのではなく、
葛藤のようなぐるぐるしたものを、終わらせたいと思うとき、
手放すことでしか終わらせる事はできないというだけのことです。

それには「手放すことを選ぶ」というスタンス以外ないのだと思います。

そしてそれは「やめる」という行為によってしか成されないのだと思います。
映画に行くのをやめるように。
洗濯物を干すのをやめるように。
「やめる」という単純な行為に、葛藤がある人はいないと思うのです。
もしあったら、

、、、、

歩き出したら止まれません。
バイバイとふる手をずっと振り続けます。

日常がまわっていきません。