「自分のものだ」という感覚。


例えば私なら、この家は自分ものだと思う。この服は自分ものだと認識してる。


購入したものなどは自分のものだと認識する。

この体も自分ものだという感覚がある。所有しているということだね。



息子は自分のものではない。

彼は自由意思を持った一個人だ。


豆太は私の犬だったけど、私の所有物だとは認識してなかった。豆太も自由意思をもった犬であり、信頼と愛情で結ばれた関係だった。


もし私の所有物に自由意思があるなら、それはもう私のものではない。

このマグカップが旅に出たいと言うなら、私はそれを止めないと思うし、依頼があればできる範囲でサポートすると思う。


でも洗濯機が自由意思をもって「もう洗濯なんてうんざりだ!」と言ったら困る。だってお前洗濯機じゃん…。困るけど、嫌なものはしょうがないから、他のを買うわ。


もし私がすごく気に入ってて、その機種がもう手に入らないとかだとしても、自由意思をもったならそれはもうしょうがない。じゃあどうしたいかを聞くかな。話し合いだね。


じゃあ例えば、相手が人で母のようにこっちの自由意思の察知能力が低くコントロールしたいという場合、それもまたそういう自由意思なのでそう思うのはしょうがない。ただ、その要望に答えるかどうかは私の選択だ。



私が母に愛されてないと思っていたのはこの辺の話で、母にとっての私というのは所有物の感覚に近い。他者との連絡通路が閉じてるために他者に自由意思があるという認識を持ちにくく、、ちょっと例えとしてはアレだけど、洗濯機は洗濯機として機能してくれないと困るでしょ!だって洗濯機なんだから!といった感覚があるのだ。


私は洗濯機じゃないよという説明をしたところで分かりにくいと思うので、要望にたいしては yes no という分かりやすい返答がいいかなと思う。


そして、優秀な洗濯機であれば自慢の種になるし、ステータスとなって自己満足度が高くなるし、愛しているとも思うだろう。

この場合の愛は物質に対するお気に入り度の高さとも言える。


私が母の愛情に条件を感じたのはここだと思う。ペットと勘違いしてるのではと思ったのも、まんざら間違っていなかったようだ。私が猫のようなペットであれば、母には衣食住を保証し、外に出さないなどの危険回避の責任も出てくる。犬にNO!というのと同じ意味で、母は子供たちに罰を与えたのだろう。




聖書の一節に「神は人に自由意思を与えた」とある。



これはそういうことだったかと思った。


沁みるわ。