曹洞宗は他の宗派には見られない「両本山制」を敷いています。この記事では、永平寺と總持寺の成立過程を見ながら、特に後発の總持寺が、なぜ永平寺に匹敵する格式を有するのかについて、その経緯を簡単に説明します。(画像中、敬称略)

 

道元禅師と永平寺

寛元2(1244)年、道元禅師は真実の仏弟子を育てる道場として、越前志比庄に大佛寺(後の永平寺)を開かれ、建長5(1253)年には弟子の孤雲懐弉(こうんえじょう)禅師(1198〜1280)に永平寺の住持を譲られます。

懐弉禅師の弟子、徹通義介(てっつうぎかい)禅師(1219〜1309)は宋へ渡って中国五山(官制の寺格制度)を見学し、懐弉禅師の跡を継いで永平寺三世となると、七堂伽藍を整えるなど、現在の永平寺の基盤を築かれます。

応安5(1372)年、永平寺は後圓融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額を賜り、出世の道場となりました。

元和元(1615)年、徳川幕府が「寺院諸法度」を発令。「日本曹洞の末派は永平寺の家訓を守るべし」という命が下され、曹洞宗の大本山となりました。

 

徹通義介禅師と大乘寺

義介禅師は住職を退くと、永仁元(1293)年に永平寺を去ります。

その背景には、永平寺の四世となった義演禅師らとの間に、修行や永平寺の経営方針などについての見解の違いがあったとも言われます。

やがて加賀の地へ移った義介禅師は、守護職冨樫氏の帰依をうけて、正応2(1289) 年、野々市に大乘寺を開きました。

 

瑩山禅師と永光寺

その義介禅師の門下に、道元禅師とともに「両祖」として並び称される瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師(1268~1325)がおられました。

瑩山禅師が開かれた永光寺は勅願所として隆盛し、また住職を短期間で交代し栄誉を分かち合う輪住制を敷くなど、曹洞宗の地方発展の基礎を作られました。

また、山内に道元禅師の師である如浄禅師・道元禅師・懐弉禅師・義介禅師、そして自らの遺骨や遺品などを埋葬して開山堂とし「五老峰伝灯院」と命名、「この五老峰を守るべき」と遺託して、ご自身の系譜が正統であることを示されました。

 

瑩山禅師と總持寺

元々は諸嶽寺観音堂と称していた能登鳳至郡櫛比村(現在の石川県輪島市門前町)の寺領を、時の寺主である定賢律師が霊夢を感じて、元亨元(1321)年、当時永光寺に住していた瑩山禅師を拝請して譲りました。

瑩山禅師はこれを諸嶽山總持寺と改め、翌年には勅宣を賜り官寺に列せられて、紫衣出世の道場になったと言います。

正中元(1324)年7月には、瑩山禅師は總持寺を弟子の峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師(1275〜1366)に譲り、自らは永光寺に帰って、翌年永光寺も弟子の明峰素哲(めいほうそてつ)禅師(1277~1350)に譲ると、8月15日に亡くなられます。

 

大本山總持寺と門派の伸張

明峰禅師と峨山禅師は、瑩山禅師の「二大弟子」と謳われ、それぞれ寺院経営と弟子の育成に大きな功績を残されました。

特に總持寺は峨山禅師の門下に五哲とも二十五哲とも称された優れた弟子が出て、永光寺に倣った輪住制の下、北前船の交易と共に諸地方に進出。各国の守護や領主層の庇護と帰依を受けて、大寺院の開創や、旧仏教系寺院の改宗、修験関係の遺跡の復興などを通して、教団拡張の確固たる基盤を築きました。最盛時には末寺が一万六千を数えたと言われ、永平寺や永光寺をしのぐ寺勢を誇るようになり、当時困窮していた永平寺の運営を支援するなど、「道元門派」である曹洞宗の中核を為すようになります。

元和元(1615)年の「寺院諸法度」によって、永平寺と共に曹洞宗の大本山に任ぜられました。

明治44(1911)年には、伽藍の消失をきっかけとして鶴見に本山機能を移転させます(能登には祖院として伽藍が復興され、現在も修行道場として残っています)が、中世に北前船で教線を拡げた總持寺が、近代になって、今度は鉄道発祥の地となった横浜を拠点にしたのは、大変興味深い事跡です。

 

永平寺系と總持寺系

実は、中世の曹洞宗には独立した本山が他に4ヶ寺あったと言われます。

しかし「寺院諸法度」の制定によって、永平寺と總持寺以外は本山としての格式を失い、ここに両本山制度が確立します。一方で、永平寺と總持寺の間では、その格式の優劣については議論が絶えなかったと言います。

明治5(1872)年、当時の大蔵省の仲介で話し合いが持たれ、一宗で両本山を奉戴する曹洞宗の体制が確認されたことを受けて、両本山の東京出張所が実質的な宗務機関として発足。これが現在の宗務庁、宗教法人曹洞宗の本部です。

現在、教団の最高位である管長は、両本山の貫主が2年おきに交互で就任します。また曹洞宗の議会は、永平寺系と總持寺系の両会派によって議員数の均衡が図られる「二大政党制」となっています。

そんな中、島根県第二宗務所の管内では、原則として永平寺系と總持寺系を隔てず、両本山の和合と護持を目的とした単一会派「両山会」が議員候補を推戴しています。これは全国的にも珍しいことです。

 

ラーメン屋の暖簾分けみたいな両本山制

これらの経緯について、ざっくりと「ラーメン屋の暖簾分け」に例えたら、もしかしたら分かりやすいかもしれません。

中国で修行して、本場の味を体得した道元禅師。日本に帰って、人里離れた山奥で、客が数人しか入れないカウンターだけの簡素な構えの店を出します。経営者であった道元禅師。でも、お客に「喋るなら、代金はいらないから出て行け」と極度の緊張を強いる頑固な店主。メニューはラーメンの中と大だけ。具もチャーシュー1枚にメンマが2本、ネギが少々。卓上のコショウもない。でも、すべて自家製の麺とスープは、間違いのない本物の味でした。

やがてお店を承継する段階になって、先代のやり方を頑なに守ろうとする一派と、店の構えをもっと整えて、厨房を機能的にしましょう、客席も家族や集団のお客のための座敷を作りましょう、トッピングでチャーシュー増量や半熟煮卵、コショウや追加のタレで味変も自由、これでお客も単価も増やして経営を安定させましょう、という一派の間で見解が分かれて互いに相容れず、結果として後者は独立して新規の店を出します。

更にそこから暖簾分けした瑩山の總持寺では、フランチャイズ制(寺院の建立や改宗)、オーナーの中央研修制度やセントラルキッチン(輪番制)を整備して、飛躍的な全国展開を遂げます。

永平寺から見たら總持寺は、昔辞めた店員が始めた新規店、でも總持寺から見ると、「曹洞宗ラーメン」の味を世に広めたのは自分たちという自負がある。やがて「曹洞宗ラーメン」は永平寺が「元祖」、總持寺が「本家」を名乗り、お互いにその「正当性」を主張するようになります。

でも、お客である信者が求めている味の基本はどちらも、道元禅師が確立した「レシピ」。

グルメサイトの評価は高いけれど、敷居が高い印象の元祖。でも本家との味の違いがわかる人もほぼいないし、何なら本家も問題なく美味しい上に、店内も明るくて入りやすい。

現在では、お客様のためになるならばと、どちらの系列も屋号に「曹洞宗ラーメン」と掲げて良いことにしましょう、という申し合わせが締結された、ということになるでしょうか。

 

ちなみに・・・

当寺は總持寺系の寺院ですが、住職は永平寺で修行しました。

 

 

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5月8日(月)の花まつりに合わせて、今年も愛玩品供養を厳修します。

ご希望の方は、前日までにご供養の品をお持ち込みください。

また8日を含めた数日間、花御堂を設置します。記念品も用意しておりますので、お釈迦さまの誕生を祝いに、ぜひご参拝ください。(画像は昨年の様子です)


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4月17日(月)の午後2時(受付は1時30分)から、春季大般若法要を厳修します。


大般若法要は、近隣のご寺院様にもご参加いただき、その昔玄奘三蔵法師がインドより将来した『大般若経』六百巻を転読して、皆様の家内安全、少病息災、災難消除、諸縁吉祥を祈願する法要です。


今年は、ご参拝の方に限定朱印符を進呈します。


事前連絡の上で、ぜひお参りください。


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令和5年3月19日、観音堂北側にて、とあるお地蔵様の遷座供養を行いました。

このお地蔵様は、元々内馬地区の観音堂の前に安座されていたものです。

観音堂自体は地域の方々が発願されて、昨年場所を路地を挟んだ向かい側の公会堂の敷地に移して再建されました。

内馬観音堂の歴史
観音堂の成立の時代は古く未定で、慶應3年(1868年)の棟札によると江戸時代には既に集会所前以外の場所にあったようです。念仏鉦(かね)には、寛政二年(1790年)戊八月 江戸西村和泉守 雲州意宇郡 上出雲 江村落馬 観 音堂様主内馬谷中 【注釈: 西村和泉守(にしむらいずみのかみ)は鋳物師の銘で 神田鍛冶町において江戸時代より長く続いていた】 と記されています。
集会所前の観音堂は、江戸時代末から明治初期頃に宝満山鉱山関係者により、鉱山開発による潤沢な資金で、旧松江藩のお抱え大工たちを使って高度な技術で作られました。その後、明治22年秋8月21日の棟札によると、一対の十一面観音像と聖観音像が再建されました。 十一面観音像は、おそらく内馬地区民の平安を、 聖観音像は 宝満山鉱山関係者の菩提を弔うために作られたと考えられます。
昭和初期に世界の銅の生産量の増大とともに採算が合わなくなり、 宝満山鉱山が閉山となり鉱山関係者も内馬を去ったことにより、 地区住民に寄託された観音堂を守って百五十年余りが過ぎました。 その間には地区住民による何度かの屋根替え (記録によると昭和7年・昭和17年・昭和29年)を行って、地域の観音堂を守って きたことが棟札に記録されています。内馬地区の往時には、 演芸会、 映画、 花火の打ち上げもあり、近郊からの見物人があったようです。 旧観音堂の座の下には、その当時の面影の機材が三基残っていました。の旧観音堂は、高度な技術で作られたが故に修復には莫大な費用がかかるため、 令和4年に集会所の隣に小さな観音堂を新築して観音様を遷座し、今後も地区住民の平安と宝満山鉱山関係者の菩提を弔っていくこととなりました。(冊子『内馬観音堂 建設事業の歩み』より)


元の敷地に残されたお地蔵様については、その供養主が誰か判然としないため、当山の境内に遷座されることになりました。

ただこのお地蔵様も、少なからず「宝満山」との所縁があるようです。


地区住民のある方は、「宝満山鉱山の関係者の家が火事で焼失し、その犠牲者を弔うために奉祀された、と言い伝えられている」と証言されていました。

また以前、地元のケーブルテレビの番組で、当地を訪れた郷土史家の方は「銅採掘の作業で亡くなられた方を弔ったものではないか」と解説をされていたようです。


何よりも、このお地蔵様の本体そのものは来待石でできていますが、その台座はカラミ石といって、銅の精錬によって溶出された岩石を再成型した石材でできており、独特な赤銅色の混在は、内馬地区が銅山と切っても切れない関係だったことの物証なのです。


今回はその台座ごと遷座させていただき、宝満山鉱山の「記憶装置」として、当山でご供養してまいります。


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願興寺観音講の前会長・岸本文夫様が、2月22日にお亡くなりになられました。

謹んで哀悼の意を表し、寺院護持に格別なるご尽力を賜った生前のご功績に、心から感謝申し上げます。

戒名「千光庵瑞奎昌文居士」。

岸本さんは当地でも有数の旧家に生まれ、旧東出雲町長をつとめるなど、行政の要路において故郷の発展に尽力されました。


退職後、ちょうど古希を迎えられた平成16年から、願興寺観音講の会長を11年つとめられました。

この間、毎月の恒期法要や年2回の札打ち、除夜の鐘といった年間行事を率先垂範されたばかりでなく、平成19年には観音講設立20周年事業、平成23年には観音堂裏の修復などの事業において、長い行政での経験を生かされた組織づくり、硬軟自在の人身掌握術を発揮され、円成に導かれました。


岸本さんは地域の顔役で、世知に長けておられました。

お寺に帰ってまだ間もなかった若かった私に、「地域社会」での暮らし方や人付き合いの機微などを教えていただき、青二歳が三歳くらいになるのを、時には直言も交え、見守ってくださいました。

また酒席がお好きで、お酒を酌み交わすと子のように仲間のように、親しく接してくださいました。

元々「保守的」ともいうべき政治信条からか、私が独身の時には、よく「早く結婚をしなさい」と諭されていました。正直なところ、それをあまり快く思っていない時期もありました。しかし実の両親からはプレッシャーをかけられたことはなかったので(両親なりの配慮があったのだと思いますが)、岸本さんに言われ続けて、結果的にこちらが根負けしたことで、結婚の「必要性」を意識するようになったと思います。


「たまに小言もある、篤い公徳心の名士」は、今となっては尚更得難い人材です。

私にとっては檀信徒としてのお付き合いにのみならず、先生であり、恩人であり、後ろ盾。地域で暮らす安全灯のようでもあり、公民としてあるべき上での鑑でした。

最近、かつて「わしの葬儀はやってごせよ」と言って、「寺の跡取り」として私をその気にさせてくれた年輩の檀信徒の方が次々亡くなり、約束を果たしたとの思いが増えるにつけ、自信が僧侶である根拠が、少しずつ減っているようにも感じています。

岸本さんなら、そんな私に「喝」を入れるかもしれません。私もいつか帰元した時には、岸本さんに「よーやーられました」と言っていただけるよう、日々のつとめを果たさなければと、肝に銘じます。


岸本さん、これまで本当にお世話になりました。観音様のお導きで、奥様とともにご冥福多からんことを祈念します。合掌





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「なぜ曹洞宗は本山が二つあるのですか?」と尋ねられた時の最適解とは、一体なんでしょう。

 

「一水四見」とはよく言ったもので、たとえ同じ事実があったとしても、人はそれぞれの「真実」を通して、見たいもの、なって欲しいものとして解釈し、評価するものです。

 

 

先日、「雲国両山会」設立40周年式典がありました。

 

「雲国両山会」とは、曹洞宗の両大本山、永平寺と總持寺を護持後援するための組織で、島根県東部の宗侶の方々が加盟しています。

実は全国的には永平寺系の祖門会と總持寺系の嶽山会、それぞれ別個に組織され活動するのが「常識」です。

雲国両山会が創立されたの昭和56年当時に、そんな「常識」を覆し、全国的にも珍しい「両本山を等しく護持する」という理想を掲げて組織された諸先輩の意志と英断に、改めて感服するばかりです。

そして更にその思いをより深くしたのが、式典の後に行われた山口正章老師のご講演でした。

 

 

長らく總持寺で奉職されていた山口老師ですが、ご自身のお寺は永平寺のお膝元とも言える福井県越前市にあり、修行も永平寺でされたとのこと。豊かな学識と綿密な修行生活を兼備された当代随一の学僧であり、正に両本山制の「象徴」のようなご老師です。

 

その山口老師から、この度の趣旨に合わせて両本山制の概要と意義についてお話を賜ったわけですが、その中で、従来から永平寺は「曹洞宗の父、如来体、山の高さ」であり、總持寺は「曹洞宗の母、菩薩体、裾野の広がり」であると喩えられてきた、とご教授いただきました。(老師も当日補足されていましたが、かつては通用した父母の喩えも、ジェンダーロールの固定化につながるということで、現代では通用しない可能性大)。

 

この喩えは、正しく「言い得て妙」。史実をオブラートに包みつつ、それぞれの史観をバランスよく昇華しています。

筆者はその一方で、あまりに言葉の外面が整いすぎてはいないか?実際の両本山の関係はもっとゴツゴツとしていたのではなかったか?とも思いました。

 

 

かつて作家の井沢元彦さんとお話しした際、

「曹洞(そうとう)宗は、今でも『騒動(そうどう)宗』なのですか?」

と、尋ねられたことがありました。

「騒動宗」という語句をご存じとは、さすが歴史の表裏を読み解く碩学だと驚いたのに加え、「いいえ、今は違います」とすぐには言えない現実があると思い、私は思わず言い淀んでしまいました。

 

「騒動宗」とは、実際にあった両本山の対立を揶揄する隠語なのです。

 

 

山口老師も仰っておられましたが、両本山制の成立は江戸時代の『寺院諸法度』発布によるもので、それ以前の中世は、両本山制ではなく「多本寺制」でした。各地域に格式の高い本寺が幾つもあり、全国の末派寺院はそのいずれかに所属していました。

当時の資料を見ると、永平寺を「寂円派」、大慈寺を「寒厳派」、大乗寺を「義介派」、永光寺を「瑩山(明峰)派」、總持寺を「峨山派」の本山とみなし、互いに「他山」と称し合ってたことが見て取れます。(正法寺をして「無底派」の本山とはあまり聞こえない。東北本山とは聞くが)

 

江戸幕府は、その政治理念に則って仏教教団を「ピラミッド型」に統治するため、本山としての格式を永平寺と總持寺に集約します。

山口老師はこの点について「徳川家康(江戸幕府)による叡智」と表現されました。

それがもし、東西に分けた浄土真宗への処置と同じだとするなら、筆者の認識とは少し異なります。

 

 

江戸幕府は、まず慶長十七(1612)年に『曹洞宗法度』を公布。その3年後の元和元(1615)年になって『永平寺法度』と『總持寺法度』をそれぞれ公布します。これによって前法が法的根拠を失い、曹洞宗の「両本山制」が成立することになります。

 

なぜ曹洞宗への法度は再公布されたのでしょうか。

 

最初の法度には「末寺は本寺の掟に背いてはならない」という趣旨の一文がありました。当初幕府は本末関係の源泉を永平寺に想定したが、当時の実態は「多本寺体制」だったため、宗門内でハレーションが生じたのではないでしょうか。その善後策として、總持寺に本山格を認めた。

多本寺クラスの寺院の中でも總持寺が突出した格式を有しており、永平寺と拮抗していた。両者の間にはその格式の優位性をめぐる「対立」があり、幕府としては仲介して懐柔する必要もあった。結局は宗門所産の事情で「両本山制」という落とし所に至ったのではないか。

 

 

なぜ永平寺と總持寺は対立したのでしょうか。

 

全ては「三代相論」に端を発するのでしょうが、その後に曹洞宗寺院の大半と本末関係になるなど隆盛を極めた總持寺に対して、永平寺は一時無住になるなど荒廃します。

そんな永平寺に対して、總持寺側は物心に渡って援助をします。それほどに峨祖以下の總持寺門下は、宗祖の道元禅師を慕っていた。

やがて寺勢を盛り返すと、永平寺は祖山としての優位性を主張し始めた。

 

一度没落した本家に、羽振りのいい分家が援助した途端に、本家が威勢を張り出した。一体誰のおかげで持ち直したと思ってるんだ。初代はともかく、本家の当代、なんか気に食わない。

總持寺側の心情を喩えると、そんなところではなかったでしょうか。

 

長く出世道場としてのお互いの優位性を競う中で、やがてはその根本原因すら分からなくなるほど、対立・分断が固着します。

 

「他の宗派は分派したが、曹洞宗が分派せず単一でいるのは素晴らしいこと」とのご意見を聞いたこもありますが、実際の両本山制の成立は、決して宗門和合の象徴ではなく、この間の両山対立の一つの臨界点だった、というのが筆者の認識です。

 

もし山口老師のご指摘が、「分派させず、むしろ単一教団の中で対立状態を保持した方が、教団としての勢いが削がれてコントロールしやすい」という意味を含んでいたのだとしたら、江戸幕府の権謀術数たるや、筆者の拙見など遥かに及ぶものではありません。

 

 

次なる時代の大きな転換期である明治になると、總持寺が独立する機運が高まりますが、当時の関係者の尽力もあってか、なんとか沈静します。

 

明治44年には、伽藍の焼失をきっかけとして總持寺が能登から横浜鶴見に移転します。

 

江戸時代までは海運の先端地だった能登が、明治維新の影響で加速度的に周辺地化とはいえ、本山が御開山以来の寺基を遠方に移すというのは本来あり得ないことで、大胆かつ開明的な總持寺の家風とエネルギーを示す偉大な事績だと思います。(それにしても絶妙なタイミングで火災が…以下、自主規制)

 

 

後発だったはずの總持寺がここまで寺勢を拡大でき、永平寺と拮抗するまでの格式を持ち得たのは、なぜでしょうか。

 

これについてきちんと語るには、紙幅も筆者の知見も無さすぎるので、詳しくはこちらの資料をご参照いただきたいと思います。

筆者としては、峨山紹碩禅師という凄腕のリーダーとその一門の拠点であり、かつ宗門では圧倒的多数派だった。後醍醐天皇から出世道場の綸旨を、永平寺に先んじて受けた。前述の通り当時としては優れた地の利が得られる立地にあった(天領黒島の歴史が証明しています)、という点を挙げておきます。

 

 

兎にも角にも、今はそこまで表立った「騒動」とはなっていないかもしれませんが、今でも両本山が「二大政党制」のようにある種の緊張関係を維持しているのは事実で、宗門およそ800年の歴史のうち700年くらいはそんな状態。そして図らずもそれを証明しているのが、現代での祖門会と嶽山会の存在というわけです。

 

 

身も蓋もない言い方で恐縮ですが、両本山制って「大人の事情」の大河ドラマですね。

 

 

ただし筆者は、「私たちの両山会こそが唯一の真実」「両本山制は不当だから、今すぐ是正すべき」とか新自由主義的なことを言いたいのでは、決してありません。

 

 

文頭の問いかけに戻ると、最近筆者は、両本山制を「ラーメン屋の暖簾分け」に喩えています。

「曹洞宗ラーメン」は、味は間違いないが、店主は気難しいし接客なんて二の次。客も客で「分かってる風」なのが多いし一見さんが入りずらい、知られざる名店。

そこで修行した店主の新規店は、「この味をもっと広めたい」と、マーケティングやコンサルティングを駆使して、ノウハウをマニュアル化し、セントラルキッチンまで作って品質を維持しつつ、全国の店舗で気軽に本店の味が味わえるようなシステムを作って大繁盛した。やがて「本家 曹洞宗ラーメン」と屋号したグループ企業となった。

修行元だった店の方は、方向性の違いから「本家」と一括りにされたくなくて、「元祖」と屋号に加え、客足は伸びないけれど媚びることなく創業の味と精神を守り続けた。

じゃあ、「どっちが曹洞宗ラーメン?」と聞かれたら、「両方」となるわけです。

たとえ元祖が「本家は曹洞宗ラーメンじゃない」と言っても、世間的な認知は「本家以外の曹洞宗ラーメンは知らない」のであり、ホスピタリティも含めて本家に客が訪れる。かといって、元祖の味がなければ、そもそも本家も店を出せなかった。要は相互作用関係なわけです。

 

 

矮小化になるかもしれませんが、両本山って結局は「村社会」のことで、そこには村八分や水利の争いなどが生じるものです。でも人々が安住する「村」をそう簡単になくせるものでしょうか。

両本山に対立があるとしたら、それは情実の相異。そこには両本山での行事や慣習、人々による営みの積み重ねという裏付けがある。

 

 

今でも時々思い出すのが、大学の時の宗教学の講義。おそらく「なぜキリスト教は科学を否定したのか」という命題について、

「顕微鏡で撮った昆虫の複眼を、未開の地の住人に見せて、『これが昆虫の眼だ』と言っても、『(肉眼では)そんな風には見えない。お前は嘘つきだ』と言われるのがオチ」

と講師が説明し、やたらと腑に落ちたことがありました。

 

 

グローバルとローカルの境って、寄せては返す波のようなもの。単一本山制が必然の帰結であるならば、先人たちはそれをとっくに果たし得たはずです。それが如何に難しいかを、歴史が証明しているのではないでしょうか。

いまを生きる私たちは、現実の両本山制による故実を踏襲した日送りをしつつ、心根までは対立や分断に加担しない、「違いながらも和合する」ための姿勢や努力が大切ではないでしょうか。

 

 

両山会に馴染んだ当地の方が全国の場に出て、あまりに明確な両本山の区分けに戸惑い、ともしたら居場所をなくしそうになる、という話を聞いたことがあります。

両山会は理想であり徒花。しかしそれを実現している事実と奇跡。

 

その意味では、長く總持寺で勤められた山口老師が講演中、両本山で異なる袈裟ヒモの処理について、

「みんな(永平寺式で)包み込んでしまっても良い」

と仰ったのは両山会の意義が深まる画期的な知見で、グローカルな宗門の未来を感じさせ、耳目が開かれる思いがしました。

 

 

式典の最後に挨拶をされた佐瀬道淳老師。いつもながらの柔和な佇まいと語り口が印象的でした。

總持寺系の主要な役職を歴任され、両山会の設立にも関与されたであろう佐瀬老師が、数十年前に残された大鉈の如き舌鋒の一文をリンクして、駄文を閉じます。(住職 記)

 

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