昭和初期の佐藤造機全景

 

廉氏、健市氏の年回忌にちなむ

 東出雲町揖屋に本社を置く『三菱マヒンドラ農機株式会社』。その前身『佐藤造機株式会社(旧名、佐藤商会)』では、創業者の佐藤忠次郎氏と2代目の廉(きよし)氏が社長、嗣子の健市氏も副社長を勤め、親子3代で社業を支えました。

内馬地区に残る佐藤忠次郎生家跡

揖屋移転後の佐藤家本宅(佐藤忠次郎記念館) 

 

 郷土の偉人として名を馳せる忠次郎氏に比べて、廉氏や健市氏について語られる機会がだんだんと少なくなってきたように感じる昨今ですが、今年は廉氏の五十回忌、健市氏の三十三回忌に当たります。

 この機会に、在りし日のご両名のお人柄などを偲ぶとともに、かつての『佐藤造機株式会社』(以下、佐藤造機)の栄枯盛衰について振り返りたいと思います。

 

社業の全盛〜廉氏による徳治〜

「夏草の しげきは憎し たのもしし」

 これは生前に俳句に親しんだ佐藤廉氏の句作。会社の全盛から凋落までに深く関わったその人生を踏まえると、より情趣が深まるように感じます。

 廉氏は広瀬町の出身。その人格を見込まれて忠次郎氏の娘婿となり、1944(昭和19)年、忠次郎氏が享年58歳で急逝すると、その跡を継いで取締役社長に就任。終戦によって、戦時統制から民需拡大への転換が図られる中で、新たな時代の舵取りを担うことになります。

 それまでの「強いリーダーの下に集う地方の技術者集団」から、前島長右衛門氏や石倉忠之助氏(健市氏の実父)といった当時の執行役らとの合議協働による「トロイカ体制」を構築。やがて8部門50課2,200人余りの従業員で構成される企業として成熟し、戦後に県内産業の多くが伸び悩む中、全国の農機具メーカーで井関農機と並ぶ最大手として、また当時山陰では唯一の上場企業として、島根が全国に誇る大企業に成長させました。

 その大きな鍵となったのが、『全購連』との提携でした。

 『全購連(全国購買農業共同組合連合会)』は、『農業協同組合(農協)』の購買部門の全国組織で、昭和47年に発足した『全国農業協同組合連合会(全農)』の前身となった団体です。

 戦時統制で休眠状態だった全購連が昭和23年に再発足すると、昭和26年大口の取引を開始。販売と技術の両面で提携して、最盛期は全購連として扱う農機具のおよそ半分、耕耘機に至ってはおよそ70%がサトー製でした。

 「会社の真価は2代目の功績次第」と言います。廉氏には、初代が生み出した財産を守りつつさらに発展させる、「守成」の才能がありました。もしかしたら、忠次郎氏が見込んだのもそういう天賦だったのかもしれません。

忠次郎氏の座右の銘を廉氏が筆者した「佐藤十訓」

 

 そのお人柄も文字通り〝清廉潔白〟な人士で、「怨みに報いるに徳を以てす」を信条とし、中央財界での交流においても多くの信頼を得ます。この時に知遇を得た中に、当時の『三菱重工業株式会社』社長・牧田與一郎氏がいました。サトー製農機のエンジン供給元として両者は提携を深めますが、これが後に佐藤造機が苦境を迎えた際の「救いの一手」になります。

 

 昭和46年、佐藤造機は業績の悪化からの自主再建を断念、会社更生法の適用を申請します。負債総額は190億円、戦後2番目(当時)の大型の経営破綻として国会でも取り上げられ、また一報が流れると一斉に東出雲から街の灯りが消えた、と言われるほどの衝撃をもたらしました。失意のうちに昭和50年、廉さんは死去されました。

 

「時代の歯車」が狂い出す 

 業績悪化にはいろいろな要因や背景が挙げられます。

 まず、国が減反政策に転じたこと。

 戦後、農業技術は向上し米の生産高は拡大しましたが、所得水準が上がり食生活が多様化したことで消費量が落ち、米の在庫が増加していきました。これを受けて政府は、昭和45年ごろから本格的な米の生産調整(減反政策)を開始。それと比例して農機具を買い控える気運が進みます。

 これまで佐藤造機が貢献してきたはずの農業技術の向上が、結果として減反の遠因になったのだとしたら、皮肉という他ありません。

 そして最大の強みだった全購連との提携も、この時点では「アキレス腱」となった、との指摘もあります。

 一つは、全購連からの前渡金への依存が高く、メインバンクとの関係が希薄だったことで思うようなサポートが得られなかったこと。

 また販売ルートを全購連に依存したことで、自社による販売戦略の主体性が損なわれていました。

 社内では中長期的展望として、他社に先駆けてコンバインの開発に成功していました。しかし当時の市場では、後発だった久保田鉄工(現在のクボタ)のバインダーが爆発的に売れていました。

 コンバインは、刈り取りから脱穀まで一貫作業できますが、バインダーは刈り取って束ねるだけで、言わばコンバインでできる工程の一部しかできません。それでも大型で高価なコンバインにはまだ農家も手が出しづらい状況でした。

 そのため全購連はバインダー製造を強く要求。やむを得ず開発が不十分だったバインダーの製造に乗り出します。

 ところが1970年、このバインダーに「結束不良」の欠陥が見つかり、修理に全社あげて対応したことで経営が一気に窮迫しました。(皮肉は重なり、このあと農機具の主力はバインダーからコンバインへと移っていきます。)

 

 機械メーカーとしては優秀でも、特に経営面で高度経済成長後の「時代の歯車」を調整することができなくなっていました。

 

 余談になりますが、現在国内の農機具メーカーの売上高は、1位がクボタ、2位がヤンマー、3位が井関農機。三菱マヒンドラ農機は5位となっています。

 このうち、井関と三菱は創業から農機を作る専門メーカーで、昭和中期までシェアを二分していました。方やクボタとヤンマーは、元々は鋳物や動力(エンジン)の製造メーカー。つまり異業種からの新規参入でしたが、今ではそちらが優勢になっています。

 現代でも、例えばカメラはそれまでの専門メーカーがシェアを落とし、新規参入組の電機メーカー・ソニーやパナソニックが優勢になっているのに似た状況かもしれません。

 

 話を戻しますが、佐藤造機の再建に当たり、その責任母体となったのが牧田氏が率いる三菱重工でした。販売会社として『三菱機器販売会社』が設立され、佐藤造機は生産メーカーとして再出発を図ります

 

 そして管財人として再建計画に尽力したのが、「会社再建の神様」と謳われた実業家の早川種三氏。昵懇だった牧田氏が、強く要請したためでした。

 徹底した合理化を断行した早川氏ですが、同時に社員や企業風土を守る努力を厭わず、従業員への給料の遅配は一切なかったと言います。

 そして全購連が取引を見直す動きがあると聞くと、こう訴えたと言います。

 「現在の佐藤造機は痩せた豚です。それを殺してもロクに肉も取れない。まず太らせる。親豚を太らせて子を産ませるのです。そのためにはエサ(注文)が必要です」。

 この例え話に感心した全購連側も、全面的に再建支援に乗り出します。

 

創業家のあり方〜健市氏のケジメ〜

 実はこの頃、早川氏は、「健市氏を社長に就任させる機会を求めている」と発言しています。

 その健市氏は廉氏の養子となり、「社長の御曹司」として慈育されました。生来の人懐っこさもあって、長じてからも「健ちゃん」と親しみを込めて呼ばれていました。

 佐藤造機に入社して副社長だった昭和46年に会社更生法適用が申請され、健市氏は三菱機器販売に異動します。妻・澄子さんは「無念だったと思うが、それを押し殺してこれ以上周りに迷惑が及ばないよう、佐藤家の人間としてのケジメをつけようとしていた」と振り返っておられます。

 再建計画が進み、昭和54年にこれが完了すると、翌年佐藤造機と三菱機器販売会社が対等合併し、社名を『三菱農機株式会社』に変更します。

 結局健市さんは、早川氏が密かに願った社長職に就くことなく三菱機器を退社、生活の拠点を東京に定めます。その後も「利用してはいけない」との思いから、自身が「佐藤造機創業家の出身」だとを吹聴することはなかったと言います。

 その一方で、こんな話も漏れ伝わっています。

 ある時帰省していた健市氏が『まちの駅 女寅』に立ち寄って名物の「三傑せんべい」(おそらくですが、陣幕久五郎、市川女寅、佐藤忠次郎の「東出雲の三傑」をデザインしたもの)を買って東京に帰って、封を開けると、なぜか「佐藤忠次郎」のせんべいだけが入っていませんでした。健市氏がそのことを当時の町役場に電話して伝えると、役場の担当者の方が慌てて完品のせんべいを郵送したと言います。健市氏の佐藤家への想いが伝わるエピソードです。

 

 先の早川氏による「健市氏を社長に」との発言からも伺えるように、元々再建計画に当たっては、関係者に「佐藤造機と佐藤家を守ろう」という温情がありました。

 実際、佐藤家は社業に関するほとんどの資産を返還しましたが、社業そのものと、佐藤家が揖屋平賀と東京に持っていた私宅は保全されました。

 これには責任母体が三菱重工だったことも影響していると思われます。

 旧財閥の「三菱グループ」には、伝統や創業家を尊重する社風がありました。生き馬の目をぬく産業競争において、先代・廉氏の「怨みに報いるに徳を以てす」とした処世や健市氏の高潔な振る舞いがもたらした因果が、牧田氏や早川氏との巡り合わせではないでしょうか。

 不思議なことに、健市氏の子息である雅洋氏も、同じグループ名を冠した『三菱自動車』に就職。縁故ではなく、実際は数ある候補の中から、偶々自宅近くに販売店があったから、という理由だったそうですが、佐藤家と三菱との縁を感じずにはおれません。

 

今なお続く佐藤造機

 また資本提携などによって協業し、平成27年から変更された社名にもその名を含むインドの財閥系企業『マヒンドラ&マヒンドラ』も、三菱同様伝統を重んじる社風だったことも僥倖でした。

 

 よく「佐藤造機は倒産した」と言われますが、実際には社業が潰えることなく、従業員も継続雇用した上で経営再建が果たされています。後に存続会社として合併した際に佐藤造機の名は表看板から消えますが、その歴史や企業風土が途切れることなく、今でも街全体に「ものづくりの心」が受け継がれていることは、創業家3代のご遺徳とも言えます。

  

 佐藤家の墓所は、現在の本社工場を眼下に見守るような近くの高台にあって、今なお関係者の墓参が絶えません。

 

 往時の佐藤家は、大檀越として宗淵寺の護持に多大な貢献をいただきました。

 かつてお寺の参道前に用水路があり、その上に「極楽橋」と称した橋がかかっていました。これも佐藤廉氏より寄贈されたものでした。

 その後、用水路が地下化されたのに伴って、極楽橋は撤去されましたが、廉氏、健市氏親子の年忌に当たって、そのご遺徳を偲んで再び架橋したいと、現在計画を進めております。

 新しい山門が出来上がる頃には、合わせて極楽橋も再建され、皆様を境内に導き入れてくれると思います。

『極楽橋』再建予定図

(住職 記)

 

 

参考文献 『佐藤造機50年の歩み』
     『地域産業発展史―島根県編―』 公益財団法人 中国地域創造研究センター 編
     『新 島根の群像』 若槻福義 著
     『再建の神様』 江上剛 著
     『交渉力の時代』 藤田忠 著
     『会社再建の神様 早川種三 管財人のもとで』 伊藤益臣 著
     『日本農業機械市場の歴史的展開過程とその分析』 保木本利行 著

 

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6月の中旬、曹洞宗の僧侶向けの人権学習会があり、宗務所人権擁護推進主事を拝命している私が企画と準備をしていました。ところが会期の1週間前にコロナに罹患。軽症ではありましたが、当日の参加を見合わせざるを得なくなりました。

それまで段取りを整えていたので痛恨事でしたが、直前に「丸投げ」したにも関わらず、宗務所役職員のみなさまにご尽力で、大過なく研修会を終えることができました。


研修会のテーマは「戦争と人権」。初日は旧日本海軍大社基地跡地を見学してもらいました。

そして2日目の座学の講師をお願いした駒澤大学名誉教授の石井公成先生から、それまで担当として事前交渉をしていた私宛にと、一冊の本を役職員に託かっていました。

書名は『中江丑吉の人間像―兆民を継ぐもの』


すでに絶版となっていますが、石井先生は古書を20冊ほど購入され、「過去を調べ、現状を冷静に判断する」ための手本になると、若手の研究者などに授与されていたもので、残り2冊となったうちの1冊を、もったいないことにも私にいただける、とのことでした。

結局石井先生から直接受講することは叶いませんでしたが、正に「向かわずして聞くは肝に銘じ魂に銘ず」、とても大きな学びと諭しを授かった気がして、今でも本を手にすると身が引き締まります。


題名から察しがつくように、この本で取り上げられている中江丑吉(1889-1942)は明治の政治家で思想家だった中江兆民の子。

中国学者として人生の多くの時間を過ごした北京の地で、日中開戦から世界大戦までの進行を観察しながら、学識者として知見や、さまざまな客人たちとの交流、自分の生活や北京における環境変化の分析、例えば白菜の値段があがったと聞くと、「北で軍隊が動いているな」と察するなど、世界大戦の趨勢がまだ定まらぬ頃から、世界史の事跡や今の国力の相対評価を踏まえ「狸がのぼせて機関車めがけてぶつかって行くようなもの」と皮肉りつつ、日本やドイツの敗北を予見し、終戦の3年前に亡くなりました。

そして戦時下という非常時でも、「大衆は二つか三つどうしても守ることを決めておいて、あとは(自分から大勢に迎合するかのように)できるだけ普通にやる」と、自身も努めて平時と変わらない日常生活を送り、やがて次のようの言葉を残しました。


「無名の個が、考えようによっては単純無意味な日常生活とまともに取組み、その限られた狭い生活面を過(よ)ぎるあらゆる事象に対して、観察と判断と働きかけを怠らないとき、〈中略〉生活の尋常性を重んずる健康な頭をもった無名の個-自覚した大衆(マッセ)-が、邪悪や迷妄や不合理に対して「精神の自由」を守ることにおいて、いかに微動もしない人間的高貴を具備するに至る」。


父・兆民がそうだったから、とは言いませんが、やはり丑吉も今で言う「リベラル」な気風が強かったことが伺えます。そんな丑吉のことを、憲兵らは「北京の城壁にへばりついて聖戦を白眼視する非国民的なスネモノ」と呼びました。

「虎の威を借る」かのような国家主義に彩られた大勢の中、情報や世相に流されず「芯」を失わない。今で言う「リテラシー」の必要性を強く説いた丑吉の知見と姿勢は、ネット情報のるつぼである現代でも学ぶべきものではないでしょうか。


それは逆説的に、社会生活の中で確固たるリテラシーを発揮し、且つそれを体現することが、いかに困難かを裏付けている、とも言えそうです。


現に戦時中、多くの僧侶が仏教の教えを換骨奪胎し、禅であれば「大死一番、大活現成」といった死生観を、社会恩や皇恩に報いる手段として広めたことが、戦意を保続し、在郷の若者を戦地に送る根拠となりました。丑吉が言うところの「二つ三つの守ること」の分別すらつかない状況だった、と言えます。

かく言う筆者とて、もし戦時中に生まれていたら、「非国民」や「スネモノ」のレッテル貼りを潔しとせず、多くの先人と同じ「過ち」をしていた可能性が高いです。

今の時代に生きる私たちだからこそできる、「過去から学び、過ちを繰り返さない」という誓い。これは過去の否定ではなく「過去を活かす」ことにもつながるはずです。

「社会関係資本」でもあるお寺・僧侶として、多くは社会と足並みを揃えたとしても、そして仮に社会の風向きが変わっても、熱狂や自己拡張から距離を置きながら、「二つ三つの守ること」が何かを弁え、今ある日々の暮らしを丹念に紡ぐことを、心がけたいものです。(住職 記)


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【この記事は、曹洞宗参禅道場の会会報『参禅の道』第78号に住職が寄稿したものの転載です】

(『曹洞宗名鑑』より)



今回紹介するのは、以前ご紹介した川口賢龍老師のご本師である、佐々木珍龍老師です。


その動機は実に他愛なく、賢龍老師の記事を書くに当たってそのお名前を散見し、「〝珍〟が入るお名前は、それこそ珍しいな」と。

それで何の気なしにネット検索をかけたところ、最も上位に上がった情報が、戦時下の台湾布教に尽力した、という内容でした。また執筆された刊行物が実に多く、現在でも図書館や古本屋に数多くの蔵書が確認できました。

賢龍老師が取材前の情報が乏しく、その朴訥としたお人柄から、随身から敬愛を込めて「兀坐する近所の爺さん」と評されたのとは好対照の、「派手に立ち回った」行履のようにも映りますが、本師として幼少期から賢龍老師を真弟子・愛弟子として慈育し、大栄寺誌には「珍龍

和尚の懐の中で育てられた」とありました。

珍龍と賢龍。双頭の「禅龍」の綿密なる師資関係について少しでも明らかにできたら、と思いました。


しかし初めにお断りしておきますが、佐々木老師の行履を辿ることは、必然的に戦時下の政教関係に触れざるを得ず、特に今のこの時期にそれを取り扱うことは、実に難しいものがあります。

自称ノンポリの筆者なりに慎重を期して書いたつもりではありますが、もし内容に問題や不見識があれば、賢明な会員読者諸師よりご指導賜りますと幸甚です。


北海道での「開拓」

一八六六(慶応二)年千葉県生まれ。一八七七(明治十)年に安房郡八束村(現在の南房総市富浦町)青木の光厳寺で竹園龍海師に就いて得度。一八八五(明治十八)年に曹洞宗大学林(現在の駒澤大学)を全科卒業、その後光厳寺に戻って首先住職。一八八九(明治二十二)年に北海道寿都郡寿都町の龍洞院に転住しています。

この北海道の地で、佐々木老師は大いに「開拓精神」を発揮します。

大正五年に刊行された『曹洞宗名鑑』によると、樽岸町の法龍寺、黒松内町の洞参寺、島牧郡島牧村歌島の龍巖寺の他、二ヶ所の説教所を「創設せり」と記載されています。法龍寺様のホームページを拝見すると、法龍寺は龍巖寺とともに開山が龍洞院四世の麒嶽洞麟大和尚、佐々木老師は二世として列せられています。ただ法龍寺様の山号が「耕雲山」、寺号公称が一八九一(明治二十四)年とありますので、寺格取得に当たって主導したのが佐々木老師だったことが伺われます。そして黒松内蕨野の原野七十二町歩を開墾して寺基を潤わせ、公共事業にも多額の寄付をして、官庁から十数回の賞賜を受けました。

一九〇五(明治三十五)年には、現在の寿都高等学校の前身となる寿都実業女学校を創立した他、函館の高龍寺が同市地蔵町で運営していた吉祥女学校の創設にも関与されたようです。『函館市史』によると、当時遅れていた女子教育の不備を補ったのが宗教関係者で、函館はプ

ロテスタント系のキリスト教がその嚆矢となり、仏教系もこれに触発されて女学校の開校に取り組んだ、とあります。国策や社会資本の「不備」を宗教が補填する政教関係は、戦時下での植民地でも同じ構造が散見され、佐々木老師にとっては、この北海道での経験が、後の海外布

教で活きたのかもしれません。


台湾での布教活動

日清戦争が勃発すると、佐々木老師は「従軍布教師」として山東省に渡ります。


そして一八九五(明治二十八)年四月の下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲されると、五月には渡台。最初期において台湾総督府に合流した四名の従軍布教師の一人(曹洞宗は佐々木老師のみ)として現地調査を開始。艋舺龍山寺を実質的な末寺化して拠点としたのを手始めに、南進軍に従軍して各地の寺廟と末寺誓約を締結、十二月には一時帰国して現況を報告します。

台北・艋舺龍山寺(©️台湾観光局)


これを受けて、曹洞宗は、全寺院から布教資金を徴収するなど巨費用を投じた台湾布教案を取りまとめ、「台湾島布教規程」を制定。布教師や開教師を積極的に渡航させ、現地寺廟との末寺誓約、信者の教化、日本語学校の設立などを推し進め(これらは結果として同化政策の一

翼となった)、最終的には台湾全土で百ヶ寺前後を末寺とし、信者も一時的に三、四万人に達したと言われ、その電光石火の如き教勢拡大を目の当たりにした他宗の布教師が自教団の出足の遅さを悔いた、と伝えられています。

佐々木老師自身は一九〇一(明治三十四)年末まで台湾と内地を行き来しながら布教活動に従事、この間、僧俗を含む超宗派の団体「大日本台湾仏教会」の組織、仏教会館や裁縫学校や施療院の開設、仏教雑誌の創刊と流布などにも尽力します。

一時帰国した際には、青年僧侶の求めに応じて日清戦争時の様子と台湾の概況について講演。その内容は一九〇〇年に『従軍実歴夢遊談』(鴻盟社)と題して上梓され、今も台湾併合時の資料として宗門の内外で取り扱われています。


師家として、能弁家として

帰国後、新井石禅禅師(後の總持寺独住五世)の後を継いで新潟県大栄寺第二十九世として晋山。持ち前の「開拓精神」を、今度は僧堂での行履と雲水への接化に発揮されます。

参禅弁道は言うに及ばず、宗乗余乗漢籍を熱心に指導し、加えて普通教育も施して、雲水は常に百名を下らず、その寺勢は両本山や大学林に引けを取らなかったと言います。

『曹洞宗名鑑』は、佐々木老師をして「宗門第一流の能弁家にして説法の巧妙なる」と評価。また文筆にも長じ、大著小編を問わない精力的な多作ぶり(講演録を含む)は、同じ明治期に「出版布教」に尽力された高田道見老師を彷彿させるものがありました。


ただし、あくまでも筆者が眼にした限り、著作の内容は「戦時下の色濃い」、と言わざるを得ません。

従軍布教師としての功を踏まえるとさもありなん、自称ノンポリの筆者でも分かる明らかな皇国史観、一仏両祖や両本山を皇室や貴種と積極的に結びつけた権威づけは、今読むと正直「辛い」ものがあります。

著作に通底した基調が「社会道徳」の敷衍、そして「四恩説」です。

佐々木老師が強く説いた「四恩説」とは、国王の恩、三宝の恩、父母の恩、衆生の恩で、これらへの報恩行が「人道に適う」というものです。

現代においてこれらの言動を評価するのに、言を俟たないでしょう。曹洞宗が一九九二(平成四)年に発表した、戦時下における戦争責任とその後の歴史認識について、教団として総括し謝罪した「懺謝文」では「近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観」という異例ともいえる強い論調が見受けられます。結局のところ、佐々木老師の「開拓精神」も明治維新後の国家主義に沿ったものだったと言わざるを得ません。

それでも筆者が佐々木老師を「断罪」できないとしたら、世法への「過度」な順応が当時の宗門の趨勢で、名だたる師家や学僧の多くも大差ない発言をしており、能弁家ゆえの「悪目立ち」があるとはいえ、某師による朝鮮半島布教のような「きな臭さ」までは見受けられず(従

軍したという事実は重いが)、おそらくは現代で言うところの「社会資本としてのお寺と僧侶」を強く意識して奔走した結果ではないか(資すべき社会像が誤りだったにせよ)。そして、自称ノンポリの筆者などは、生まれた時代が違えばその「過ち」に気付かないまま時流に呑まれていたに違いありません。

かつて佐々木老師ほどの高徳でも陥らざるを得なかった過ち。現代の立場からただ断罪するより先に大いなる反面教師としたい。それが筆者の偽らざる感想です。

そして世法だけではなく、仏法へに対する篤い道心も合わせ持っていたであろう証明が、「法丸出しの思わ猿」の真弟子・賢龍老師を打出したことではないか、と思われてならないのです。


戦時下の行履の光と影。現代でもそれを是々非々で評価できたら、と筆者は念じます。


肝心な双龍の師資関係について、本稿では表層をなぞった程度の紹介に止まりましたが、また稿を改めて触れることができたらと思います。


 【参考文献】
『曹洞宗名鑑』(安藤嶺丸 編/大正五年刊)
『「宗報」にみる戦争と平和』(曹洞宗 編)

『函館市史 デジタル版』通説編第二 2巻

『人と云ふ話』『通俗仏教 家庭講話』

『承陽大師 常済大師 両祖を想ふ』

『禅より観たる般若心経』 (以上、佐々木珍龍 著)

『禅と戦争〜禅仏教は戦争に協力したか』(B・A・ヴィクトリア 著)

『台湾の日本仏教〜布教・交流・近代化〜』(柴田幹夫 編)

『近代の仏教思想と日本主義』(石井公成 監修/近藤俊太郎・名和達宣 編)

『明治期曹洞宗における出版書の研究』 (川口高風 著)

『曹洞宗布教師による台湾仏教調査と「台湾島布教規定」の制定〜佐々木珍龍「従軍実歴夢遊談」を中心に』(松金公正 著/『比較文化史研究』第2号所収)

『日本仏教の初期台湾布教(1)(2)』(中西直樹 著/『仏教文化研究所紀要』53、54号所収)

『台湾の日本統治時代における仏教系雑誌の嚆矢〜「台湾教報」刊行背景に関する一考察〜』

『台湾の日本統治期における日本仏教団の「台湾仏教会」について』(林欐嫚 著/印度学仏教学研究第70号所収)


(文中、一部敬称略)


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檀信徒を含む一般の方にとっては、「曹洞宗の機構」と言えば、

「両本山制以外に何かあるの?」

と思われる方もいるかもしれません。

でも、お寺関係の書類を見たり会議に出ると、「ホンチョウ(本庁、宗務庁のこと)」や「シュウムショ(宗務所)」、「キョウク(教区)」といった言葉に触れられることがあると思います。


実は、教団の本部(宗務庁)は両本山がある福井県や神奈川県ではなく、東京都港区芝にあります。


ちなみに、同じビルで『東京グランドホテル』が営業していますが、これは曹洞宗が運営しているホテルです(檀信徒でない一般の方も宿泊できます)。



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