昨年の12月16日に、師父である宗淵寺十六世 碓峰博道大和尚が亡くなり、2月1日には檀信徒葬を執り行っていただきました。生前の師父に生前ご芳情を賜った皆様に、心より御礼申し上げます。

この原稿は、本葬が終わったその日の夜に書いております。今この瞬間、私が思い出す師父とのことを、僭越ですがその一端を書き残しておきたかったためです。


行き違いから修行2年

私が大本山永平寺に修行に入ったのが平成11年。その前年のお盆の棚経では、「何年修行するのか」が、檀信徒との話題の中心でした。

「住職(師父)が1年いましたから、最低そのくらいは…」

「でも、私は住職としての資格が半年で取れるので…」

「でもでも、静岡では最低3年がノルマとも聞きましたし…」

と、要領を得ない回答に終始していた記憶があります。未知の修行生活への不安を打ち消そうと、ただ駄弁を弄していただけかもしれません。

当時、師父とは「あれこれ考えても仕方ない。(修行期間は)行ってから考えよう」と話をしていました。

そしていよいよ宗淵寺から旅立つ日に、檀信徒の役員のみなさんが、私のお見送りに集まっていただきました。その場で護持会長さんが「励ましの言葉」として、

「聞くところによると、省吾さんは永平寺に2年行かれるということで…」

と、みなさんの前で切り出されたのです。

びっくりして思わず師父の顔を見ました。私からしたら「貴様の差金か!」です。すると、その時の師父の表情にも、明らかに戸惑いが見てとれました。

どうやら、前年のお盆の私自身の弁解が巡り巡って、護持会長さんの耳に入った段階で「2年行くと決められた」と変換されていたようでした。

「こうなったら後には引けない。2年行ってきなさい」。

師父にそう耳打ちされると、私は「あぁ、〝懲役2年〟確定か」と、重い足取りで山門から出て行きました。


上山すぐの師父の病

やはり現実の修行は想像以上に厳しいもので、3日で「早く帰りたい」「逃げてでも帰りたい」と思いました。

しかしその度、「修行に2年」という師父と護持会長さんの言葉、それを聞いていた感心していた(ように私には見えた)役員の方々のお顔が思い出され、「ここで逃げても、恥ずかしくて帰る場所がない」と、逃げる勇気さえ萎えていた、というのが現実でした。


1ヶ月ほど過ぎて、私の元にある「情報」が届けられました。師父が癌で胃の三分の二を摘出する手術を受けたというのです。

修行に入るとしばらくはあらゆる外部連絡の手段が取れない決まりでしたが、師父がお世話になっていたご老僧が事態を重く見て、ご本山に直接掛け合って、私に情報が届くよう執り成してくださったのです。

その時、師父や家族の身を案じるのと同時に、「帰る口実ができた」という「悪魔のささやき」も、私には聞こえた気がしました。しかし術後の師父かた、私の「下心」を見透かしたように、こういう言葉が届きました。

「とにかく2年は居なさい。そうやって決めて修行に行ったのだから。こちらは何とかする」。

いくら護持会長さんの言葉があったとは言え、死を賭してまで自身の意地を通すのかと、その時は驚きましたが、一方でそんな師父の思いも背負うことで、2年間の修行が私にとって「仕方なし」から「決意」に変わりました。


約束の2年を超えて

やがて数ヶ月も経つと、それまであった「萎え」が「慣れ」に変わり、周りがよく見えるようになりました。

すると実際に修行する雲水たちが、それぞれに「修行の目標」を段階的に設定していることが分かってきました。まず第一目標は「一年間は居る」。それを突破した者が次に設定するのが「法要系の配役につく」でした。

当時の永平寺は、団塊ジュニアに当たる世代の雲水が多く、法要系の配役が回ってくる順番に1年半から2年かかりました。一方で本山の法要系配役は、例えれば大きなグループ企業の本社の中枢で仕事するようなもので、地方のお寺に帰ってからも「華麗なる経歴」とされるようだ、ということが分かってきました。

一般社会から隔絶された環境の集団心理なのか、朝のお勤めで法堂狭しと駆け回る法要系の雲水の立ち振る舞いを見て、当時は仲間同士で「法要系、かっこいいよね」「あの和尚さんのあの型、美しいよね」という「歌舞伎の常連客」みたいな会話で持ちきりでした。やがて私もご多分にもれず「〝花形〟である法要系」への憧れを抱くようになっていきました。

「すでに2年の修行は確定しているのだから、どうせなら法要系を目指そう」。

仮に法要系になると、およそ7ヶ月間その任に就きます(当時)。私の場合、約束の2年間を超過することになりますが、師父にそのことを伝えると「ぜひ行きなさい。自分は行きたくても行けなかった」と言ってくれました。

ようやく順番が巡って法要系の配役に就くと、しばらくして今度は別の「目標」が見えてきました。平成14年に控えていた道元禅師七五〇回大遠忌です。

50年に一度迎える道元禅師の大遠忌法要を、お主催する本山の一員としてお勤めすることは、法要系に就くよりもさらに「得難い機会」です。そこまで修行期間を延長したい。良くも悪くも、その時の私は修行生活に対する「欲」が芽生えていたのかもしれません。

再びそのこと師父に伝えると、やはりすぐに「残りなさい。こちらは心配いらない」と言ってくれました。

こうして都合3年7ヶ月、私は永平寺で修行することができました。護持会長さんの「行き違い」の言葉をきっかけにして、師父の海容を受けたことで、「あの時、ああすれば良かった」との心残りが一切ない修行期間を過ごすことができました。


過去の師父からの「遺書」

あれから20年以上経って、先ほど母から師父の「遺書」を託かりました。日付には「平成11年2月」と書いてありました。

胃癌の手術を前に、死を意識して家族や親しい友人に向けて、これまでの感謝を述べたものでした。私には「大丈夫」とは言っていましたが、当時、内心は生死の波打ち際で大きく思いが揺れていたのが見て取れました。

その中で師父は、自身を「凡夫」だとした上で、

「仏様、息子は私と違う生き方で、私の罪を滅してくれるはずです」。

と書いていました。

確かに、師父と私は生き方も価値観も違いました。それが分かっていたので、互いに干渉し過ぎない距離感と節度で日常を過ごしてきましたが、まさかそのような本心を持っていたとは、今まで全く分かりませんでした。


生前の師父は時として、自身の修行経験が乏しいという「負い目」を語っていました。若い頃は寺の後を継ぐことに前向きだったとは言えず、永平寺での一年間の修行も「仕方なし」だったようです。祖父が亡くなるまで、後を継ぐことを明確に表明もしていませんでした。僧侶になるための第一歩である得度式も、私は小学生で受けましたが、師父は高校生なってからでした。

そういう師父の言動に触れていた中で、「修行で心残りをしたくない」という感覚が私の中で知らない間に培われていたのでしょうか。奇しくも師父の思いと奇しくも一致した結果が、私の永平寺での3年7ヶ月として結実したのです。

一方師父は師父で、修行への自身の「心残り」を晴らすように、寺院活動の交流や福祉の仕事に邁進していました。私はとっくにその「穴を埋めた」と思っていましたが、師父にとって過去の「心残り」は埋めがたいものだったのかもしれません。


あんなに食い違うことばかりだったのに、今となって思い出されるのは師父から受けた慈恩と、晩年病で弱りきって私に頼り切りとなっていた姿。

いくら師父より修行を長くしたところで「凡夫」という点では私も変わらないという「懺悔」を、日々仏前の香と共に燻らせつつ、過去に世代を超えて師父で共に結実させた事跡が、今の私の寄る辺であることを実感し、感謝しています。(住職 記)


via 宗淵寺/願興寺
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