山陰特有のニューノーマル

「流れ焼香」という言葉をご存知の方は、おそらく山陰地方に在住か、もしくは縁者が居られる方でしょう。

当地でコロナ禍をきっかけとして主流となった葬儀の参列方法で、家族葬で行う際、一般会葬者が葬儀や告別式とは別に決められた時間帯に焼香することです。

 

そして事情がなぜかはわかりませんが、実は流れ焼香は山陰(雲伯)地方に限定された葬法で、他の地域ではその言葉や概念すらありません。

 

先に本稿の結論から言います。

もはや「流れ焼香」は見直すべきではないでしょうか。

 

 

「流れ焼香」定着の経緯

以前から当地では「流れ焼香」がありましたが、大規模な団体葬で会葬者数が5、600人を超えるなど、本葬告別式の時間内で焼香が収まらない場合の葬法だったようです。

 

やがてコロナ禍で人流が制限されるようになると、「家族葬」が一気に主流となりましたが、当地ではまだ地縁が根強かったこともあり、家族以外の弔意を受け付けるための手段として、中小規模の葬儀でも「流れ焼香」が採用されました。そしてその対応のため、ご遺族は葬儀の前から式場に立つことになりました。

現在ではコロナが理由となる制限は(実質的に)ないはずですが、家族葬と流れ焼香の組み合わせはすっかり一般的になりました。

 

 

「家族葬」の定義?

そもそも家族葬の定義とはなんでしょうか。

 

家族はまことに「取り扱い注意」な用語で、現在では法的な語彙としては明確になっていませんが、それに近い用語で「血族」と「姻族」があります。

その一方で、現代では法律婚によらない「家族」のあり方も多様性の一つでしょうし、「家族同然」の付き合いをする他者もいるでしょう。またペットが「家族」だと唱える人だっています。

現代において、家族か否かの「線引き」は、実に曖昧で、他者との共通認識が難しくなっています。

なので一概に「家族葬」と言われても、何をもって家族葬とするか定義が難しいのです。

 

以前「家族葬で行います」と言われ、せいぜい3、4人だろうと思って葬祭会館に行くと15人位が一般葬用のホールに参列されていて、大いに戸惑ったことがありました。

その体験から、現在当寺では家族葬か否か関わらず、参列者が15名を超える場合には、必ず脇導師をつけるよう、喪主にお願いしています。

 

おそらく本来はコロナ禍以前からあった「小規模で行いたい」という潜在性が、コロナ禍を経てそれ以降も需要と供給として持続しているのでしょう。

そして当地では家族葬に流れ焼香がパッケージされ定着しつつあるようです。

 

「流れ焼香」という名称

「流れ焼香」とは一体誰が名づけたのか、その真意は分かりませんが、例えば、陸上部が「グランドを流す」というと、本気で走らないことを標榜し、実際にそうすることです。

この「流れ」という語彙をあまりよく受け取らない層も一定あって、そのため別に「随時焼香」「時間差焼香」と言ったり、出雲市平田地区では仏教会からの申し合わせで「式前焼香」とも言っています。

 

誰のための「流れ焼香」なのか

流れ焼香は、コロナ禍では止むを得ない選択だったと、私も思います。

ならばコロナ禍が終われば従来の一般葬に回帰していいはずですが、実際はその後も定着しつつあります。なぜでしょうか。

 

最も大きな理由は、上記の通り「家族葬への需要と供給の高まり」だと思います。

しかし、従前より規模を圧縮し、その分ご遺族が葬儀かかる労力を減らして故人を偲ぶ時間を物理的にも質的にも増やすのが家族葬本来の目的だったはずですが、今では親戚も多く集まり、かつ流れ焼香まで行うことで、さほど一般葬と変わらない規模になっている上に、以前のような隣保のお手伝いもないため、むしろご遺族の労力が前より増えているのが実態です。

 

これはある葬儀社さんに聞いた話ですが、一般葬において完結していた会葬者の受付〜焼香〜お見送りの一連が、本葬と流れ焼香を別にしたことで、結果的に葬儀全体にかかる時間は増えているのだそうです。

確かに先日のある葬儀でも、流れ焼香で指定された時間の30分以上前から会葬者が来場したため、会館スタッフもご遺族も慌てて対応している様子を見ました。

葬儀が七日法事の予修も含めておよそ1時間30分。そのおよそ1時間前から流れ焼香。およそ3時間以上、ご遺族は式場に張り付くことになるのです。

 

また会葬者の中には、故人を偲びきちんとお見送りをしたくて行ったのに、流れ焼香だったためにわずか数分の会葬になったのが残念、という声もあります。

 

何より僧侶の立場からすると、仏式の葬送において肝心かなめの本葬自体を会葬者に「スルー」されるのは看過できません。私が聞いた限り、僧侶で流れ焼香を推奨している人は皆無、それどころか「もうやめた方がいい」という意見が大半です。

 

それにも関わらず、今もご遺族は「流れ焼香」を選択しています。

ご遺族からしたら、「華美にしない」という小規模葬の希望に加え、一般会葬者を葬儀の一定時間「足止め」するのは忍びないという「配慮」もあるのでしょう。

一方の一般会葬者は、多くにとっては短時間で会葬できて合理的であり、むしろご遺族にそれを求める機運すらができつつあります。実際に先日の当寺先代住職の葬儀でも、流れ焼香を設定しなかったにも関わらず、受付に「流れ焼香はどこ?いつ?」との問い合わせがありました。

そして、一部の故人を偲びたい他者も「ご遺族が家族葬を望むなら」という諦めから、流れ焼香に甘んじています。

 

「忖度」や「同調圧力」でこんがらがった、現代の「コンプラ案件」みたいな構造に陥っている上に、実際にはご遺族に負担が増えるという「本末転倒」が生じ、さらにはコロナ禍で「やむを得ずできない」ことだったのが「しなくてもよい」ことにすり替えられ、「易きに流れる」の所産として定着しつつあるのが、現在の流れ焼香だと、私には映ります。

 

「ニューノーマル」にするならば

そうは言っても、かつての数百人規模が会葬した一般葬の時代に回帰するのが最善とも思いませんし、家族葬や小規模葬を希求する流れは止まらないでしょう。

しかし百歩譲って、「流れ焼香」が忙しい(当地の)現代人にとって「時代の流れ」や要請だとするならば、せめてその場にご遺族を立ち合わなくて良いようにしてほしい。もしくは葬儀中席につかずに焼香してもらってもいい(仕方ない)ですが、その際はくれぐれも慎ましく静かに所作してほしい。

そして、葬儀で故人やご遺族と偲びの時間と空間を共有したいと願う心ある会葬者のための席も、一定用意して欲しいと思います。

 

本葬後に引き続き七日法事を行うのも、本義からすると勧められませんが、すっかり慣習として定着したのは、その必要性があったからだと思います。

「流れ焼香」も本当に必要性があれば、今後も残るのかもしれません。

 

死別には誰も傷を負います。その軽重は人それぞれ、ご縁それぞれかもしれませんが、ご遺族が最もケアされるべき存在であることは言うまでもありません。でも中にはご遺族同様とまでいかないまでも、相応に傷を負う他者もいるでしょう。できる時に適切な手当をしなければ、傷はますます悪くなる。個人的に、その処置の一つとして葬儀は執り行うものだと思っています。

お釈迦様は「(仏法という薬を)服すと服せざるは医の咎にあらず」と仰っていますが、今のままでは流れ焼香は歪なままの形骸化し、毒にはなり得ないまでも、十分な薬になり得るかどうか。それを看過するのは忍びないし、そもそも一体誰のための葬送なのか。世間様? ついそう思ってしまいます(住職 記)

 

 

 

 

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

昨年末、地元のラジオ局に出演させていただいた際にお話しした原稿起こしを、多少増補し書き直して、以下に掲載します。


現在放映されている『仮面ライダーガッチャード』の前作に当たり、昨年の9月ごろまで放映されていたのが『仮面ライダーギーツ』。そのキャラクター造形のモチーフは「キツネ」でした。

URL: youtu.be

ルックスもそうですが、内面的にも民話の中で登場するキツネのように、変化して人をだます要素が組み込まれていました。そもそも「変身」というギミック自体が、元々はキツネの専売特許ではありますね。


そして物語が進むにつれてギーツは神に等しい存在になっていきます。そして最後は祠に祀られるという、「完全にお稲荷さん」という展開でエンディングを迎えました。

URL: youtu.be


見続けて感じるのは、『仮面ライダーシリーズ』はその時代背景が作品に色濃く反映されていることです。

例えば『仮面ライダー龍騎』(2002/H14)は、前年に発生したアメリカ同時多発テロの影響で、13人の仮面ライダーがお互いの「正義」のために戦い合う(存在を消し合う)作品でしたし、さらにその10年後に放映された『仮面ライダーウィザード』(2012/H24)は、前年の東日本大震災を受けて、愛する人との死別、立ち直りがテーマでした。


勝手な考察ですが、やはり『ギーツ』にも時代背景との因果関係が見て取れます。放送が始まった2022年、キツネにまつわるある一大ブームがあったのです。キツネダンスです。

URL: youtu.be

実はそれだけではなく、同時期にはキツネがモチーフとなった作品が数多くありました。

『チェンソーマン』がアニメ化され、『狐の悪魔』が印象的に描かれていました。マキシマムザホルモンによるエンディングテーマでも「コン」ってブレイクがありました。『スラムダンク』の流川くんも、キツネキャラでした。

URL: youtu.be

音楽においても、韓国で登録者400万人超えのユーチューバーRaonさんが、妖怪変化をテーマにした呪術的な歌詞のダンスチューン『キツネノマド』で日本デビューをしましたが、楽曲制作はAdoさんの『唱』も手がけたGiga & TeddyLoidでした。個人的にもよく聴いた楽曲です。

URL: youtu.be


このように私の見立てでは、2022年は「キツネブーム」とも言える現象があったと思っているのですが、実はおよそ10年ほど前からその芽吹きがありました。それがベビーメタル(通称 ベビメタ)です。

ベビメタはキツネのハンドサイン(メロイックサイン)を決め、メタルミュージックの神様である「キツネ様」のお告げによって活動していて、元々メタルと悪魔崇拝(サタニズム)は親和性が高かったとはいえ、ファンやリスナーはその神秘的な世界観を共有することで熱狂を生み出し、高い音楽性も相まって世界的な成功を収めました。実は2022年のキツネブームは、ベビメタが「キツネ様」のお告げによって活動休止中の、その空白を埋めるようなトピックスでした。

ここにきて、なぜキツネに焦点が当たるようになったのでしょうか。


キツネは民話の中ではずる賢くて人を化かす存在ですが、一方で古くからお稲荷様も使いとして神聖視されてきました。

山陰中央新報にも寄稿をされている哲学者の内山節さんによると、1965年(S40)を境に「人はキツネにだまされなくなった」、とおっしゃっています。その前年が最初の東京オリンピックで、日本が戦後復興から高度経済成長期を迎えた頃に当たります。

それまでの自然とも近い土着的な暮らしから、個を重んじる都市型で合理的な暮らしが望まれるようになり、それまでのキツネ的なもの、合理的でない不可視な存在は忘れられていった、というのが内山さんの説です。


でも今の日本は、もはや低成長かむしろ下降している感すらあります。ベビメタの世界的流行では、むしろ積極的に「キツネにだまされる」という関係性が構築されています。

私は、経済成長期の価値に対する揺り戻しとして、かつてのローカルで非合理なものに回帰する類型の一つが「キツネブーム」ではなかったか、と見ています。

例えば人が悪いことをすると、今は監視カメラに映ったり、ネットで晒されたりしますが、昔は「お天道様が見ている」とされました。曰く言い難く人智を超えた偉大なる何か(見えないけれど確かにおる)、を共有する感受体験の象徴、正にその使いとして、キツネが私たちの身近に出てくるようになったのかもしれません。


さらに付け加えると、今世界では戦争の気配を色濃く感じます。国家的な全体主義のために、キツネのような超常的な概念が都合よく利用されたのが、かつての戦前の日本だったということも、私たちは忘れてはいけないと思います。(参考:「二つ三つの守ること」


コロナ禍が明けて、私たちはこれからの暮らしをどのように立て直していくか。古いものの中には残しておくべきだったことも、もう止めてしまっていいものも、両方混在していることでしょう。それをどう取捨選択し、自分自身の生活や価値を立て直していくか。それがコロナ禍が明けた私たちの生き方のテーマでもありますが、そんな「温故知新」につながる要素が、私は「キツネブーム」にあったと思っています。(住職 記)


via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

はじめに

本稿は佐橋法龍師による史伝を底本とし、いくつかの傍証と対照して書き足したもので、引用もほぼ史伝から引いていて、すでに底本をお読みの方にはほぼ既知の内容となっております。また文中の敬称は原則省略しています。ご了承ください。


今回紹介する井上秀天(一八八〇〜一九四五)の肩書は、東洋思想(研究)家や社会運動家、あるいは「在野の禅学者」などと出典でも様々紹介されていて、実際に亡くなった時点でに僧籍があったかどうか判然としません。その意味では「宗門の禅者」として紹介するのにやや無理がある人物でしょう。井上自身は終生曹洞禅に心を寄せていましたが、結果として、井上は教団の一員として生きることから「遠ざかる」ことになりました。

井上には従軍布教師として従事していた経歴があり、以前紹介した佐々木珍龍老師と、その点では共通しています。しかし明らかな皇国史観に立脚していた佐々木老師とは対照的に、やがて井上は社会主義に「接近」していきます。地位も立場も異なる両者ではありますが、それにしてもなぜかくも正反対(にも映る)の方向に進むことになったのでしょうか。ここでは井上を広義における「宗門の禅者」として位置付けることを念頭に、その経緯を紹介していきます。


従軍による転機

井上は明治十三年、鳥取県東伯郡中北条村国坂(現在の東伯郡北栄町)で生まれました。実は、およそ三十歳ほど年長になる日置黙仙禅師(永平寺六十六世)が近隣の下北条村で生誕しています。両村とも鳥取県中部の中核都市・倉吉の郊外に位置し、現在は北栄町として集合していますが、おそらく当時としても決して人口が多いとは言えなかったと思われ、そんな地域から洞門の内外で、就中海外との関わりにおいて才覚を発揮した傑物がほぼ同時代的に輩出されたのは奇縁とも、またそういう時代背景だったとも言えるかもしれません。

井上は生まれてすぐ、生家の氏神である神主家に養子に出されますが、神主の死去によって、今度は倉吉の曹洞宗寺院に預けられて育ちました。ここで井上は漢学塾に通い、またアメリカ人宣教師から英語を学ぶなど、後年の学識の基礎を養います。明治二十三年には米子中学に入学。

ところで井上の本名は「秀夫」ですが、通名の「秀天」は、誤って乱雑に書いた自身の名前を、中学の担任に「秀天とは、どえらい奴がいる」と半ば冷やかされ、それを聞いた同級生が「秀天、秀天」と呼ぶので、いつの間にか「秀天」になった、と言います。

また一説によると、途中で松江中学に転校してラフカディオ・ハーン(小泉八雲)から英語を学んだとも言われていますが、真偽は定かではありません。しかしこれも、井上なら然もありなん、というその語学力の高さから生じた風評だったかもしれません。

明治二十八年、十六歳で上京して、曹洞宗大学林(現在の駒澤大学)で山田孝道(一八六三〜一九二八)、秦慧昭(一八六二〜一九四四)、陸鉞巌(一八五五〜一九三七)といった、当時の錚々たる学匠から学び、その後哲学館(現在の東洋大学)に入学します。この頃の井上は陸に師事し、明治二十九年には、陸の住職地であった鳥取・景福寺に移って法務を補佐、明治三十年からは陸に随伴して台湾、中国、インド、セイロン、ビルマと遊学。台湾では神科学校で教鞭をとったといいます。

明治三十七年に日露戦争が勃発すると従軍布教師(一説には通訳)をつとめますが、翌年には肺結核に罹患し、療養のため帰国。ここが、井上の半生を分ける転換期になりました。


「平和的回心」を果たす

帰国後の井上は神戸に住んで海外の新聞社の特派員や神戸女学院の講師などをつとめます。そしてこの頃から、井上は『新仏教徒同志会』に入会し、明治三十九年から機関誌『新仏教』に寄稿して、自身の論説を掲げて世に問うようになりました。『新仏教徒同志会』は、哲学館の『仏教清徒同志会』を前身として、境野黄洋(一八七一〜一九三三)、高嶋米峰(一八七五〜一九四九)らが中心となって結成され、禁酒・禁煙・廃娼運動を展開した新仏教運動の団体です。

この時の井上の論説の骨子となったのが「平和論」でした。そしてその根底にはこれまで培った仏教や禅の信仰と知識、遊学先での学究によって影響を受けた非暴力主義への傾倒がありました。また自身が従軍体験を経たことで、「戦時を名誉とし、平時には怯で、且つ不義な性格をもつ日本の国民性の欠点をつき、日露戦争には、日本は殺人行為ではロシヤに優ったが、宗教心では劣った」として、この寄稿を始めた明治三十九年をもって、自身の「平和的回心の年」としました。

さて、冒頭で井上の肩書きを「社会運動家」としましたが、あえて「社会主義者」とは明記しませんでした。しかし井上が社会主義者と多く交流したのは事実のようで、社会主義の運動体である「神戸平民倶楽部」に入会していた、という説もあります。また内山愚童(一八七四〜一九一一)が大阪や神戸で社会主義者たちと面会に訪れた際にも来訪を受けますが、この時井上は居留守を使って会わなかったとされています。その三日後に、内山は自坊・林泉寺への帰路で逮捕されています。

後でも紹介する井上特有の歯に衣着せぬ言動は、ともすれば伝統的・保守的な立場からすると「耳障りで癇に障る」ような類のものだったことは想像に難くありません。

しかし佐橋法龍師は史伝の中で、

「革命をめざす社会主義とはあきらかに一線を画したもので、決して当時の国家・社会の体制そのものを否定するものではない。いうならば、体制を肯定した上での社会改良論である」。

と評しています。

この評が一理あるとしたら、それは井上が一度は従軍した経験があることと、かつて師事していた陸鉞巌の存在によるのかもしれません。

陸は台湾布教師や曹洞宗大学林総監などを歴任しましたが、その事績で特筆すべきは、道元禅師以降の日本での曹洞宗の禅籍を漢訳化して、戦時下の中国や台湾への布教によって、言わば「禅の逆輸入」を図ろうとしたことです。その陸の活動の根底には「四恩説」(国王恩を含むもの)がありました。

そんな陸に師事していた井上の「平和的回心」に、果たして直接行動や「無政府主義」といえるまでのイデオロギーが含まれていたかどうか、判然としないところがあります。

しかし、やがてその言動が官憲の嫌疑を招き、明治四十三年、大逆事件(幸徳事件)に連座して家宅捜査を受けます。井上は「社会主義者ではない」との弁明書を提出するなどして起訴は免れますが、以後は官憲の監視下に置かれるようになります。また内山への処遇などを含めたこの件についての宗門の対応から、井上は自身の曹洞宗侶としての歩みを断念したと言います。

「自分のような平和主義者が危険視されるとは、愚の骨頂」。

とも井上は述べていますが、仮にその思想が「中道寄り」だったとしても、「非国民か、そうでないか」という単純な善悪で割り切られる戦時体制下においては、従軍での挫折や大逆事件での嫌疑によって、井上は世間から白眼視されることとなったのではないでしょうか。


「在野の禅学者」として生きる

大正に入ると、井上は英国・米国領事館に勤務。主な仕事は漢籍や仏典、大使や領事が書いた日本仏教や日本でのキリスト教に関する著述の翻訳でした。

一方この頃から、井上自身が、

「ただ宿縁の結果として、幼少期より古典籍に親しみ、(中略)三十の坂を越えてから、禅を中心とせる東洋の精神文化の研究に没頭するようになり〜」。

と語っているように、勤務の傍で研究活動を続けた結果、大正七年に初めての著書『現代新訳碧眼録詳解』を上梓しました。そしてその後序には次のような一文があります。

「古来長い長い間、法螺と衒気と無智とでねりかためた禅僧や居士連中に、咒文扱いにされてきた『碧眼録』を、理知の上に立って歩みつつある人々の、容易に理解できるように解説〜」。

かつて自らの言動によって官憲の嫌疑を受けたことをすっかり忘れたような、もはや皮肉とすらも言えない辛辣さ、攻撃性で禅者を罵倒しており、「本当に平和主義者?」と思わず疑ってしまいます。

その矛先は、特に当時の臨済宗を代表する禅匠だった釋宗演(一八五九〜一九一九)や南天棒(一八三九〜一九二五)らに向けられますが、より井上と著作の名を売る結果となったのは、鈴木大拙(一八七八〜一九三九)との論争でした。

鈴木が『現代新訳碧眼録詳解』を書評し、さらに井上がそれに反論する形で行われた両者の論争は、鈴木が「禅は文字に依らない。仮に論理や言語学的に難があっても問題ない」とするのに対して、井上は

「仮に第一義はそうでも、第二義門に引き下げられて客観的に文字言句として存在している以上、それは理知的に解釈されるべき」。

だと主張しました。また井上は、

「禅の至難は、禅の実践窮行であって、禅の理解ではありません」。
「僧堂生活にも価値はありますが、如何なる人間も一度軍隊生活をしなければ完全な国
民になれぬとか、如何なる人間も僧堂生活をして三十棒を喫しなければ悟りが開けぬとかいうのは、確かに誇大妄想狂の言であります」。

と喝破しています。

以前筆者は、戦時中の永平寺の修行生活がニュース映画となって、軍隊や国民への国策のプロパガンダとして上映されていた、という話を見聞きしたことがあります。

もちろん今はそういった実態はなく、健全な僧堂教育がなされているはずですが、井上の直言は、もしかしたら、自身のかつての「挫折体験」に依るものだったかもしれませんが、それでも結果的に、あたかも現代の人権意識の高まりの予見、否、人権の普遍的価値を以てして、当時の僧堂教育の問題点を照出しています。

その一方で、井上は自身の「宿縁」である曹洞宗に対しては、

「山田孝道師にしても、忽滑谷快天師にしても、丘宗潭師にしても、原田祖岳師にしても、新井石禅師にしても、現代の智識階級の人々に、合理的に十分納得のゆくように、禅の真諦を提唱し得るだけの豊富なる学識のある人びとではありませんか」。

と言って、苛烈な攻撃を受けた臨済宗側からしたら「依怙贔屓」としか思えない物言いをしています。いわゆる「正信論争」で対立した忽滑谷と原田を同列に持ち上げているあたり、その「偏向(偏愛)ぶり」が伺われます。井上は宗派教団が教相判釈や宗意高揚によって他を劣位に置かんとすることを「職業的」と終始批判しており、特に臨済宗にその傾向があるとして、このような言動に至ったと思われますが、あくまで個人的な経験と所感だとお断りした上で、筆者自身も臨済宗(全体ではなく一面だと思いますが)に対して似たような心象が幾ばくかある、と告白させていただきます。

また、大正十年に井上が上梓した『禅の伝灯』の中では、嗣書・血脈・大事の三物について、達磨大師から六祖慧能禅師まで伝授された事実が、少なくとも文献上は見当たらないとしつつ、次のように述べています。

「(三物を)無価値視して、その廃棄を主張するものでは、決してない。(中略)それが出家であれ、在家であれ、この『三物』の實體と稱すべき、この絶大なる宇宙人生の核心(正法眼蔵、涅槃妙心)を把捉し、それを『わがもの』にすることを目がけて、日夜大に努力し、大に精進すべきであると、確信する物である」。

このことからも、井上が伝統や格式を決して軽んじていたわけではないということが分かります。この理知と偏向、伝統と進歩という二律背反が、井上の人格の複雑な魅力(正直、面倒くさいとも言えなくはない)となっているのかもしれません。

井上はその後も仏教学や禅学についての著作を重ねながら、神戸で正法眼蔵の勉強会の講師を務めるなどして、しばらくは「在野の禅学者」として順調に活動していましたが、やがて世は再び戦争の気配に支配されます。

昭和十六年にスパイ容疑で再び逮捕され、半年間の勾留された際も、井上は専ら『正法眼蔵』を読み耽っていたと言います。そして昭和二十年、米軍機による神戸の空襲によって、井上は命を落としました。平和論者としては痛恨の極みではなかったでしょうか。

本稿の副題「長じて尋常の僧ならず」は、井上の葬儀で読まれた弔辞の一文です。例え「尋常」ではなくても、井上は「宗門の禅者」としての心灯を宿したまま生涯を過ごした。少なくとも筆者はそう感じましたが、みなさんははどのように思われたでしょうか。

 

【参考文献】

 『井上秀天』(佐橋法龍 著 名著普及会 刊)

『「新仏教」を支えた人々』(三浦節夫 著 東洋大学ライフデザイン学研究 編)

 『明治期における海外渡航僧の諸相』(石井公成 著 近代仏教/日本近代仏教史研究会 編)

 『「正法眼蔵」の漢訳者、陸鉞巌』(石井公成 著 印度学仏教学研究 編)

 『井上秀天の思想 その生涯と平和論及び禅思想』(赤松徹真 著 龍谷大学論集 編)

 『明治期以降曹洞宗人物誌(五)』(川口高風 著 愛知学院大学教養部紀要 編)

 『大本山永平寺諸禅師略伝』


(曹洞宗参禅道場の会 会報『参禅の道』第80号 所収)


via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

現在、拙僧は宗務所の人権擁護推進主事を拝命しておりますが、先日、東京の宗務庁(曹洞宗の本部)で開催された「曹洞宗人権擁護推進主事全国研修会」に参加しました。

 

その中の分科会で「第3回世界宗教者平和会議差別発言」について触れられた際に、山口県宗務所の主事から、以下の趣旨のご発言がありました。

「町田〝宗夫〟老師のお名前、正しい読み方をみなさんはご存知でしょうか…」。

 

『同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議(通称、同宗連)』結成の契機ともなった「第3回世界宗教者平和会議差別事件」の詳細は、上記のリンクをご参照いただければと思いますが、私は、この「発言」をずっと「町田発言」と称していました。これは「当時の全日本仏教会理事長・曹洞宗宗務総長」が、山口県よりご出向されていた故・町田宗夫老師だったための「通称」ですが、「発言自体は個人でも、その内容は当時の教団内で一定共有されていたものだった」「教団としての責任を特定の個人に転嫁させかねない」などの合理的な配慮から、現在では「第3回世界宗教者平和会議差別発言」と公称され、「通称」が公の場で使用されることはなくなりました。

一方で、今年齢50を迎える筆者から上の年代では、今でも通称が多く使われていることも、偽らざる事実です。その方が馴染みがあって簡潔で呼びやすいと感じるからだと思いますが、山口県の主事さんから問いかけがあった際、私自身「ギクリ」としました。

「シュウフ…? ソウフ…?」

これまで何度も見聞きしたお名前のはずなのに、改めて問われるとその呼称に確信がないことに、その時初めて気づいたのです。

私が思いついた答えはいずれも間違いでした。正解は「ソウユウ」。

私の中で「〝町田発言〟の町田老師」という断片的な情報で止まっていたのです。

 

実際の町田老師は、当該の発言事件の後、さまざまな指摘(当時は「糾弾」とも称しました)や事実検証、それにまつわる学びを通してご自身の誤りに気づき、5年後の「第4回世界宗教者平和会議」で前言を撤回し、全世界に謝罪。以降は自身の経験を踏まえて、人権啓発のため全国で講演活動などされたようです。その一連を追った人権学習用の教材が1999年に作成され、曹洞宗ホームページの寺院専用サイトで、今でも視聴できます。

「誤り、省み、学び、改め、行う」という私たちが人権学習に臨む際の「模範的」とも言える類型が、町田老師のご半生にあったとも言えるはずですが、私は自身の「バイアス」から、人格を「断片化」して「誇張」し、それを「定着」させていたことを、山口県の主事さんのご発言で気づかされました。

一方で、当時の「関係者」だったと思しき方の回顧によると、その後町田老師は人権啓発の活動を止めざるをえなくなったそうで、その原因が「歴史認識」だったとされます。おそらく「皇国史観」だったと思いますが、「越え難い年代の壁」でしょうか。

 

公称が極めて正当である一方で、それだと語彙が漂白され平坦になったようで、個人名が冠された方が「発信力」に強さがあったように感じるのが、私にとっての「年代の壁」かもしれません。

そんな私のような「認識の歪み」を残したままにしないためにも、「過去にあった第三回世界宗教者平和会議差別発言事件と、そして当事者となった町田老師個人の行履」を公でも繰り返し学び、後世に伝える必要性を強く感じました。(住職 記)

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

「陶彩画」をご存知でしょうか?

作家・草場一壽さんが生み出した、有田焼の絵付けの手法を用いた陶製の絵画作品で、描画そのものも印象的ではありますが、何よりも特徴的なのは「陶製」であることと、長年にわたる釉薬などの試作によって、「色彩の変化」が楽しめることです。(詳しくは草場一壽さんの公式HPや各種SNSをご参照ください)

元々は今秋の晋山式(住職就任式)に向けて、山号にまつわる龍画を仕入れたいと思い、ネットで物色していたところ、草場さんによる陶彩画の龍画に出会ったのがきっかけでした。

調べるうちに、偶然にも私の修行時代の仲間も陶彩画に魅了され、すでに作品を将来し、実際に草場さんをお招きしたイベントを開催していたことが分かりました。


草場さんの作品は龍とともに神仏が主なモチーフとなっていて、中でも観音様がモチーフの作品が多いことから、まず思い立ったのが、毎月ある観音講の恒規法要で、秘仏の代わりに参拝者の目の届く対象となる「前立仏」として草場さんの観音画を飾り、月ごとに替えて参拝者にご尊容をしのび親しんでいただくことでした。

現在まで『龍騎観音』『宝珠観音』『賛嘆』『アイリメンバーユー』の4つの観音画を所蔵し、月替わりの前立観音としています。



そして今年の1月の初観音に、新たな観音画を飾らせていただきました。

作品名は『夢』


2023年に発表された草場さんの新作で、観音様をイメージした童子が龍の中に抱かれて安らかに眠っています。

この絵を見た瞬間、私はこれまで以上に魅了されました。

11月に大阪で個展があり、そこで原画が発表されるということで、実際に大阪に見に行きました。そして、それまでの観音画は複製でしたが、この『夢』に関しては原画を個人で購入し、寺に寄贈することとしました。


冒頭にも触れましたが、陶彩画の原画と複製画の最も大きな違いが、光の当たり方で色彩が変化することです。

『夢』の場合、龍に特殊な技法が施されており変化します。これにより、絵画自体は静止画でも、どこか動的な質感が加わり、不思議な生命力を感じます。

今回、陶彩画『夢』の原画を求めようと決断した理由。それは観音画もさることながら、元々は龍画を求めていたこと。そして、この作品に観音様も龍も両方描かれていること。

何より一番の理由は、童子態として描かれた観音様に、かつて亡くした我が子の姿を思い重ねたためでした。


もう10年以上も前の悲しい出来事ですが、未だに「親子としての関わり」を模索し続けています。

この眠りはいつまで続くのか。現実はこの上なく厳しくて悲しかった。今でも、せめて「夢の中の出来事」であればまだ良かった、と思うけれど、それでも私たち夫婦の中で、我が子はいつまでも生き続けている。

そして図らずも我が子のの墓所となったこの寺の山号が「臥龍山」。

臥龍の懐で安らかに眠る童子を描いたこの絵は、私にとって愛らしくも悲しい作品に映りました。


育児をしてやれなかった我が子に、せめてこれまでの育児の代わりになれば。

そして、時とともに薄れゆくかもしれない感覚を、いつまでも忘れないために。


そんな思いで原画を購入する決断をしました。


そして、私が個展に行って寺を空けているときに、先代住職が入院し、そのまま遷化したという「因縁」がさらに加わってしまいました。

そういった個人としての供養がきっかけではありますが、お寺にこの絵を置くことで皆様にも純粋に絵画として、またそれぞれの「因縁」を投影させて、ご鑑賞いただけると幸甚です。


陶彩画『夢』は、毎年1月の初観音での前立仏としてお祀りした後、4月の大般若まで玄関の床間に祀ります(その後は奥書院に飾る予定にしています)。(住職 記)




via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd
【長文】法友を見送りに、大磯まで行ってきました。
およそ20年前、永平寺の山門頭に立つ彼を、私は指導役として山内に迎え入れました。ドキュメンタリーでよく見る「尊候何しにきた」というやりとりをしたわけですが、当時の彼は還暦前。教職を早期で退き、一念発起して永平寺の門を叩いた「老齢の雲水」でした。
私はその一ヶ月後に永平寺を下りる予定で、後進に自身の経験を余すことなく伝えようと、厳しくも「愛情」を持って指導したつもりでした。
彼らの見習い期間が終わるのを見届けて、永平寺から去る私が山門で草鞋の紐を結んでいると、彼が私の傍に寄って来て、押し黙ったまま私の旅支度を見守ってくれました。
「これから頑張って。ぜひ〝楽しい〟(と後から思える)修行を」。
私は彼にそう声をかけ、永平寺を去りました。
それが今生の別れだと思っていたのですが、彼とは不思議と縁がつながり、その後に私がいた別の道場に彼が入って来ました。偶然の再会を喜びつつ、永平寺では十分に出来なかった言語と感情のコミュニケーションを交わし合いました。
当時、私は何者にもなれる気がして、何事にもひた向きでした。そんな私と彼は、不思議と波長が合いました。
初夏の恐山を、一緒に参拝したこともありました。
島根に来た時、車内で聴いた「安来のおじ」の曲をいたく気に入り、道中ずっと片言の出雲弁でおじの口真似をしていました。
私の仏前結婚式では、呼んでないのに気がついたら一般席で参列してました。
やがて彼は家族と住む大磯から、単身で下関に移り、寺の住職になりました。伝え聞くところでは、彼はずっとひた向きのようでした。
一方の私は、しばらく会わない間に波長が合わなくなったのか、すっかり「中年の危機」にまみれていました。
「大磯で荼毘に付される」との連絡があった時、「忙しい」ことを言い訳にして、供養に行く機会を別に設けることも考えました。
でも、今彼に会いに行かないと、何か大切なものを一生失ったままにしてしまう。自らを奮い起こすように、飛行機に飛び乗りました。
棺桶の中で静かに眠る彼を見て、かつてのひた向きだった自分を思い出しながら、師父より年長にも関わらず、私以上にひた向きなエネルギー体であり続けた彼の凄さを、改めて痛感しました。
彼と過ごした時間は、私にとって紛れもない「青春時代」でした。そして今の私は、当時の彼よりまだ若い。
「中年の危機とか言ってたら、彼にドヤされるな」。
満員の東海道線で僧衣をクシャクシャにしながら、「中年の危機」に立ち向かう山門頭に立つ決意をしました。(住職 記)

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd


昨年の12月16日に、師父である宗淵寺十六世 碓峰博道大和尚が亡くなり、2月1日には檀信徒葬を執り行っていただきました。生前の師父に生前ご芳情を賜った皆様に、心より御礼申し上げます。

この原稿は、本葬が終わったその日の夜に書いております。今この瞬間、私が思い出す師父とのことを、僭越ですがその一端を書き残しておきたかったためです。


行き違いから修行2年

私が大本山永平寺に修行に入ったのが平成11年。その前年のお盆の棚経では、「何年修行するのか」が、檀信徒との話題の中心でした。

「住職(師父)が1年いましたから、最低そのくらいは…」

「でも、私は住職としての資格が半年で取れるので…」

「でもでも、静岡では最低3年がノルマとも聞きましたし…」

と、要領を得ない回答に終始していた記憶があります。未知の修行生活への不安を打ち消そうと、ただ駄弁を弄していただけかもしれません。

当時、師父とは「あれこれ考えても仕方ない。(修行期間は)行ってから考えよう」と話をしていました。

そしていよいよ宗淵寺から旅立つ日に、檀信徒の役員のみなさんが、私のお見送りに集まっていただきました。その場で護持会長さんが「励ましの言葉」として、

「聞くところによると、省吾さんは永平寺に2年行かれるということで…」

と、みなさんの前で切り出されたのです。

びっくりして思わず師父の顔を見ました。私からしたら「貴様の差金か!」です。すると、その時の師父の表情にも、明らかに戸惑いが見てとれました。

どうやら、前年のお盆の私自身の弁解が巡り巡って、護持会長さんの耳に入った段階で「2年行くと決められた」と変換されていたようでした。

「こうなったら後には引けない。2年行ってきなさい」。

師父にそう耳打ちされると、私は「あぁ、〝懲役2年〟確定か」と、重い足取りで山門から出て行きました。


上山すぐの師父の病

やはり現実の修行は想像以上に厳しいもので、3日で「早く帰りたい」「逃げてでも帰りたい」と思いました。

しかしその度、「修行に2年」という師父と護持会長さんの言葉、それを聞いていた感心していた(ように私には見えた)役員の方々のお顔が思い出され、「ここで逃げても、恥ずかしくて帰る場所がない」と、逃げる勇気さえ萎えていた、というのが現実でした。


1ヶ月ほど過ぎて、私の元にある「情報」が届けられました。師父が癌で胃の三分の二を摘出する手術を受けたというのです。

修行に入るとしばらくはあらゆる外部連絡の手段が取れない決まりでしたが、師父がお世話になっていたご老僧が事態を重く見て、ご本山に直接掛け合って、私に情報が届くよう執り成してくださったのです。

その時、師父や家族の身を案じるのと同時に、「帰る口実ができた」という「悪魔のささやき」も、私には聞こえた気がしました。しかし術後の師父かた、私の「下心」を見透かしたように、こういう言葉が届きました。

「とにかく2年は居なさい。そうやって決めて修行に行ったのだから。こちらは何とかする」。

いくら護持会長さんの言葉があったとは言え、死を賭してまで自身の意地を通すのかと、その時は驚きましたが、一方でそんな師父の思いも背負うことで、2年間の修行が私にとって「仕方なし」から「決意」に変わりました。


約束の2年を超えて

やがて数ヶ月も経つと、それまであった「萎え」が「慣れ」に変わり、周りがよく見えるようになりました。

すると実際に修行する雲水たちが、それぞれに「修行の目標」を段階的に設定していることが分かってきました。まず第一目標は「一年間は居る」。それを突破した者が次に設定するのが「法要系の配役につく」でした。

当時の永平寺は、団塊ジュニアに当たる世代の雲水が多く、法要系の配役が回ってくる順番に1年半から2年かかりました。一方で本山の法要系配役は、例えれば大きなグループ企業の本社の中枢で仕事するようなもので、地方のお寺に帰ってからも「華麗なる経歴」とされるようだ、ということが分かってきました。

一般社会から隔絶された環境の集団心理なのか、朝のお勤めで法堂狭しと駆け回る法要系の雲水の立ち振る舞いを見て、当時は仲間同士で「法要系、かっこいいよね」「あの和尚さんのあの型、美しいよね」という「歌舞伎の常連客」みたいな会話で持ちきりでした。やがて私もご多分にもれず「〝花形〟である法要系」への憧れを抱くようになっていきました。

「すでに2年の修行は確定しているのだから、どうせなら法要系を目指そう」。

仮に法要系になると、およそ7ヶ月間その任に就きます(当時)。私の場合、約束の2年間を超過することになりますが、師父にそのことを伝えると「ぜひ行きなさい。自分は行きたくても行けなかった」と言ってくれました。

ようやく順番が巡って法要系の配役に就くと、しばらくして今度は別の「目標」が見えてきました。平成14年に控えていた道元禅師七五〇回大遠忌です。

50年に一度迎える道元禅師の大遠忌法要を、お主催する本山の一員としてお勤めすることは、法要系に就くよりもさらに「得難い機会」です。そこまで修行期間を延長したい。良くも悪くも、その時の私は修行生活に対する「欲」が芽生えていたのかもしれません。

再びそのこと師父に伝えると、やはりすぐに「残りなさい。こちらは心配いらない」と言ってくれました。

こうして都合3年7ヶ月、私は永平寺で修行することができました。護持会長さんの「行き違い」の言葉をきっかけにして、師父の海容を受けたことで、「あの時、ああすれば良かった」との心残りが一切ない修行期間を過ごすことができました。


過去の師父からの「遺書」

あれから20年以上経って、先ほど母から師父の「遺書」を託かりました。日付には「平成11年2月」と書いてありました。

胃癌の手術を前に、死を意識して家族や親しい友人に向けて、これまでの感謝を述べたものでした。私には「大丈夫」とは言っていましたが、当時、内心は生死の波打ち際で大きく思いが揺れていたのが見て取れました。

その中で師父は、自身を「凡夫」だとした上で、

「仏様、息子は私と違う生き方で、私の罪を滅してくれるはずです」。

と書いていました。

確かに、師父と私は生き方も価値観も違いました。それが分かっていたので、互いに干渉し過ぎない距離感と節度で日常を過ごしてきましたが、まさかそのような本心を持っていたとは、今まで全く分かりませんでした。


生前の師父は時として、自身の修行経験が乏しいという「負い目」を語っていました。若い頃は寺の後を継ぐことに前向きだったとは言えず、永平寺での一年間の修行も「仕方なし」だったようです。祖父が亡くなるまで、後を継ぐことを明確に表明もしていませんでした。僧侶になるための第一歩である得度式も、私は小学生で受けましたが、師父は高校生なってからでした。

そういう師父の言動に触れていた中で、「修行で心残りをしたくない」という感覚が私の中で知らない間に培われていたのでしょうか。奇しくも師父の思いと奇しくも一致した結果が、私の永平寺での3年7ヶ月として結実したのです。

一方師父は師父で、修行への自身の「心残り」を晴らすように、寺院活動の交流や福祉の仕事に邁進していました。私はとっくにその「穴を埋めた」と思っていましたが、師父にとって過去の「心残り」は埋めがたいものだったのかもしれません。


あんなに食い違うことばかりだったのに、今となって思い出されるのは師父から受けた慈恩と、晩年病で弱りきって私に頼り切りとなっていた姿。

いくら師父より修行を長くしたところで「凡夫」という点では私も変わらないという「懺悔」を、日々仏前の香と共に燻らせつつ、過去に世代を超えて師父で共に結実させた事跡が、今の私の寄る辺であることを実感し、感謝しています。(住職 記)


via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

先代住職が亡くなって間もない時期ではありますが、生前の遺志を汲んで例年通り開催させていただきます。


昨年好評だった葛のポタージュや福引を、数量限定で用意しております。

また観音堂お参りの方には「願おこしせんべい(ミニ)」を進呈します。


駐車場はサテライト山陰様をご利用ください。


配信も行います。

https://www.youtube.com/live/3LpTHtk-Xfs?si=an7NQfwqhYsgWb5f


当日は雨の予報となってます。ご来寺の際は防雨防寒をなさってお越しください。


via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd

昭和初期の佐藤造機全景

 

廉氏、健市氏の年回忌にちなむ

 東出雲町揖屋に本社を置く『三菱マヒンドラ農機株式会社』。その前身『佐藤造機株式会社(旧名、佐藤商会)』では、創業者の佐藤忠次郎氏と2代目の廉(きよし)氏が社長、嗣子の健市氏も副社長を勤め、親子3代で社業を支えました。

内馬地区に残る佐藤忠次郎生家跡

揖屋移転後の佐藤家本宅(佐藤忠次郎記念館) 

 

 郷土の偉人として名を馳せる忠次郎氏に比べて、廉氏や健市氏について語られる機会がだんだんと少なくなってきたように感じる昨今ですが、今年は廉氏の五十回忌、健市氏の三十三回忌に当たります。

 この機会に、在りし日のご両名のお人柄などを偲ぶとともに、かつての『佐藤造機株式会社』(以下、佐藤造機)の栄枯盛衰について振り返りたいと思います。

 

社業の全盛〜廉氏による徳治〜

「夏草の しげきは憎し たのもしし」

 これは生前に俳句に親しんだ佐藤廉氏の句作。会社の全盛から凋落までに深く関わったその人生を踏まえると、より情趣が深まるように感じます。

 廉氏は広瀬町の出身。その人格を見込まれて忠次郎氏の娘婿となり、1944(昭和19)年、忠次郎氏が享年58歳で急逝すると、その跡を継いで取締役社長に就任。終戦によって、戦時統制から民需拡大への転換が図られる中で、新たな時代の舵取りを担うことになります。

 それまでの「強いリーダーの下に集う地方の技術者集団」から、前島長右衛門氏や石倉忠之助氏(健市氏の実父)といった当時の執行役らとの合議協働による「トロイカ体制」を構築。やがて8部門50課2,200人余りの従業員で構成される企業として成熟し、戦後に県内産業の多くが伸び悩む中、全国の農機具メーカーで井関農機と並ぶ最大手として、また当時山陰では唯一の上場企業として、島根が全国に誇る大企業に成長させました。

 その大きな鍵となったのが、『全購連』との提携でした。

 『全購連(全国購買農業共同組合連合会)』は、『農業協同組合(農協)』の購買部門の全国組織で、昭和47年に発足した『全国農業協同組合連合会(全農)』の前身となった団体です。

 戦時統制で休眠状態だった全購連が昭和23年に再発足すると、昭和26年大口の取引を開始。販売と技術の両面で提携して、最盛期は全購連として扱う農機具のおよそ半分、耕耘機に至ってはおよそ70%がサトー製でした。

 「会社の真価は2代目の功績次第」と言います。廉氏には、初代が生み出した財産を守りつつさらに発展させる、「守成」の才能がありました。もしかしたら、忠次郎氏が見込んだのもそういう天賦だったのかもしれません。

忠次郎氏の座右の銘を廉氏が筆者した「佐藤十訓」

 

 そのお人柄も文字通り〝清廉潔白〟な人士で、「怨みに報いるに徳を以てす」を信条とし、中央財界での交流においても多くの信頼を得ます。この時に知遇を得た中に、当時の『三菱重工業株式会社』社長・牧田與一郎氏がいました。サトー製農機のエンジン供給元として両者は提携を深めますが、これが後に佐藤造機が苦境を迎えた際の「救いの一手」になります。

 

 昭和46年、佐藤造機は業績の悪化からの自主再建を断念、会社更生法の適用を申請します。負債総額は190億円、戦後2番目(当時)の大型の経営破綻として国会でも取り上げられ、また一報が流れると一斉に東出雲から街の灯りが消えた、と言われるほどの衝撃をもたらしました。失意のうちに昭和50年、廉さんは死去されました。

 

「時代の歯車」が狂い出す 

 業績悪化にはいろいろな要因や背景が挙げられます。

 まず、国が減反政策に転じたこと。

 戦後、農業技術は向上し米の生産高は拡大しましたが、所得水準が上がり食生活が多様化したことで消費量が落ち、米の在庫が増加していきました。これを受けて政府は、昭和45年ごろから本格的な米の生産調整(減反政策)を開始。それと比例して農機具を買い控える気運が進みます。

 これまで佐藤造機が貢献してきたはずの農業技術の向上が、結果として減反の遠因になったのだとしたら、皮肉という他ありません。

 そして最大の強みだった全購連との提携も、この時点では「アキレス腱」となった、との指摘もあります。

 一つは、全購連からの前渡金への依存が高く、メインバンクとの関係が希薄だったことで思うようなサポートが得られなかったこと。

 また販売ルートを全購連に依存したことで、自社による販売戦略の主体性が損なわれていました。

 社内では中長期的展望として、他社に先駆けてコンバインの開発に成功していました。しかし当時の市場では、後発だった久保田鉄工(現在のクボタ)のバインダーが爆発的に売れていました。

 コンバインは、刈り取りから脱穀まで一貫作業できますが、バインダーは刈り取って束ねるだけで、言わばコンバインでできる工程の一部しかできません。それでも大型で高価なコンバインにはまだ農家も手が出しづらい状況でした。

 そのため全購連はバインダー製造を強く要求。やむを得ず開発が不十分だったバインダーの製造に乗り出します。

 ところが1970年、このバインダーに「結束不良」の欠陥が見つかり、修理に全社あげて対応したことで経営が一気に窮迫しました。(皮肉は重なり、このあと農機具の主力はバインダーからコンバインへと移っていきます。)

 

 機械メーカーとしては優秀でも、特に経営面で高度経済成長後の「時代の歯車」を調整することができなくなっていました。

 

 余談になりますが、現在国内の農機具メーカーの売上高は、1位がクボタ、2位がヤンマー、3位が井関農機。三菱マヒンドラ農機は5位となっています。

 このうち、井関と三菱は創業から農機を作る専門メーカーで、昭和中期までシェアを二分していました。方やクボタとヤンマーは、元々は鋳物や動力(エンジン)の製造メーカー。つまり異業種からの新規参入でしたが、今ではそちらが優勢になっています。

 現代でも、例えばカメラはそれまでの専門メーカーがシェアを落とし、新規参入組の電機メーカー・ソニーやパナソニックが優勢になっているのに似た状況かもしれません。

 

 話を戻しますが、佐藤造機の再建に当たり、その責任母体となったのが牧田氏が率いる三菱重工でした。販売会社として『三菱機器販売会社』が設立され、佐藤造機は生産メーカーとして再出発を図ります

 

 そして管財人として再建計画に尽力したのが、「会社再建の神様」と謳われた実業家の早川種三氏。昵懇だった牧田氏が、強く要請したためでした。

 徹底した合理化を断行した早川氏ですが、同時に社員や企業風土を守る努力を厭わず、従業員への給料の遅配は一切なかったと言います。

 そして全購連が取引を見直す動きがあると聞くと、こう訴えたと言います。

 「現在の佐藤造機は痩せた豚です。それを殺してもロクに肉も取れない。まず太らせる。親豚を太らせて子を産ませるのです。そのためにはエサ(注文)が必要です」。

 この例え話に感心した全購連側も、全面的に再建支援に乗り出します。

 

創業家のあり方〜健市氏のケジメ〜

 実はこの頃、早川氏は、「健市氏を社長に就任させる機会を求めている」と発言しています。

 その健市氏は廉氏の養子となり、「社長の御曹司」として慈育されました。生来の人懐っこさもあって、長じてからも「健ちゃん」と親しみを込めて呼ばれていました。

 佐藤造機に入社して副社長だった昭和46年に会社更生法適用が申請され、健市氏は三菱機器販売に異動します。妻・澄子さんは「無念だったと思うが、それを押し殺してこれ以上周りに迷惑が及ばないよう、佐藤家の人間としてのケジメをつけようとしていた」と振り返っておられます。

 再建計画が進み、昭和54年にこれが完了すると、翌年佐藤造機と三菱機器販売会社が対等合併し、社名を『三菱農機株式会社』に変更します。

 結局健市さんは、早川氏が密かに願った社長職に就くことなく三菱機器を退社、生活の拠点を東京に定めます。その後も「利用してはいけない」との思いから、自身が「佐藤造機創業家の出身」だとを吹聴することはなかったと言います。

 その一方で、こんな話も漏れ伝わっています。

 ある時帰省していた健市氏が『まちの駅 女寅』に立ち寄って名物の「三傑せんべい」(おそらくですが、陣幕久五郎、市川女寅、佐藤忠次郎の「東出雲の三傑」をデザインしたもの)を買って東京に帰って、封を開けると、なぜか「佐藤忠次郎」のせんべいだけが入っていませんでした。健市氏がそのことを当時の町役場に電話して伝えると、役場の担当者の方が慌てて完品のせんべいを郵送したと言います。健市氏の佐藤家への想いが伝わるエピソードです。

 

 先の早川氏による「健市氏を社長に」との発言からも伺えるように、元々再建計画に当たっては、関係者に「佐藤造機と佐藤家を守ろう」という温情がありました。

 実際、佐藤家は社業に関するほとんどの資産を返還しましたが、社業そのものと、佐藤家が揖屋平賀と東京に持っていた私宅は保全されました。

 これには責任母体が三菱重工だったことも影響していると思われます。

 旧財閥の「三菱グループ」には、伝統や創業家を尊重する社風がありました。生き馬の目をぬく産業競争において、先代・廉氏の「怨みに報いるに徳を以てす」とした処世や健市氏の高潔な振る舞いがもたらした因果が、牧田氏や早川氏との巡り合わせではないでしょうか。

 不思議なことに、健市氏の子息である雅洋氏も、同じグループ名を冠した『三菱自動車』に就職。縁故ではなく、実際は数ある候補の中から、偶々自宅近くに販売店があったから、という理由だったそうですが、佐藤家と三菱との縁を感じずにはおれません。

 

今なお続く佐藤造機

 また資本提携などによって協業し、平成27年から変更された社名にもその名を含むインドの財閥系企業『マヒンドラ&マヒンドラ』も、三菱同様伝統を重んじる社風だったことも僥倖でした。

 

 よく「佐藤造機は倒産した」と言われますが、実際には社業が潰えることなく、従業員も継続雇用した上で経営再建が果たされています。後に存続会社として合併した際に佐藤造機の名は表看板から消えますが、その歴史や企業風土が途切れることなく、今でも街全体に「ものづくりの心」が受け継がれていることは、創業家3代のご遺徳とも言えます。

  

 佐藤家の墓所は、現在の本社工場を眼下に見守るような近くの高台にあって、今なお関係者の墓参が絶えません。

 

 往時の佐藤家は、大檀越として宗淵寺の護持に多大な貢献をいただきました。

 かつてお寺の参道前に用水路があり、その上に「極楽橋」と称した橋がかかっていました。これも佐藤廉氏より寄贈されたものでした。

 その後、用水路が地下化されたのに伴って、極楽橋は撤去されましたが、廉氏、健市氏親子の年忌に当たって、そのご遺徳を偲んで再び架橋したいと、現在計画を進めております。

 新しい山門が出来上がる頃には、合わせて極楽橋も再建され、皆様を境内に導き入れてくれると思います。

『極楽橋』再建予定図

(住職 記)

 

 

参考文献 『佐藤造機50年の歩み』
     『地域産業発展史―島根県編―』 公益財団法人 中国地域創造研究センター 編
     『新 島根の群像』 若槻福義 著
     『再建の神様』 江上剛 著
     『交渉力の時代』 藤田忠 著
     『会社再建の神様 早川種三 管財人のもとで』 伊藤益臣 著
     『日本農業機械市場の歴史的展開過程とその分析』 保木本利行 著

 

via 宗淵寺/願興寺
Your own website,
Ameba Ownd