「人間は社会的な動物である」(アリストテレス)

 

かつてコロナ禍で、人流が制限される中で伸長した「家族葬」と「流れ焼香」を組み合わせた葬儀の方式。当時としてできる範囲で地縁によって故人を送る、真摯な叡智による落とし所でした。

しかし「密」を避けなくても良い生活が戻った今でも、この方式は続けられています。

これは以前から潜在していた社会的需要(核家族化や、社交儀礼の減退など)が、コロナ禍をきっかけに「大義名分を得て」定着したとも言えましたので、「風習や礼法は世につれて変わるもの」だとも思って、これまでは静観していました。

 

しかしこのままでは、真摯なコロナ禍での叡智が、惰性による「弊習」となりかねない。これからも葬儀が「弔いの場を調え、生死を超えてご縁を切り結ぶ機会」であることを守るため、各方面への要望を、以下に列記させていただきます。

 ①「流れ焼香」の名称は、「式前(式後)焼香」に改めてください。

 ②式前(式後)焼香は時間厳守でご会葬ください。

 ③例え「家族葬」だとしても、家族だけで行うことにこだわらないでください。


 

①「流れ焼香」の名称は、「式前(式後)焼香」に改めてください。

【理由】「流れ」という言葉が適切ではなくなったから。

【対象】檀信徒と葬祭業社

【解説】コロナ禍では「人流が停滞しない=流れる」ことが必要でした。他の多くの地域で家族以外の会葬が見送られる中、当地では知人や地縁による会葬の場を「本葬とは別」に設け、「流れ焼香」と名付けられました。これは以前からあった、式場規模で収容しきれない大人数の会葬者への対応を転用したものでした。

しかし今となっては人流が「流れる」必要がなくなりました。それどころか「流れ」という言葉の別の、「略儀でなんとなく済ます」という軽薄な意味すら帯びてきたように感じます。

コロナ禍という緊急事態にやむを得ず黙認せざるを得ませんでしたが、そもそもが僧侶にとっては「本葬と一般焼香が分離する」こと自体、実は受容し難い方式です。例えると、会葬者が「本番」である本葬には出ずに、本番前の舞台装置だけ見て帰ってしまうようなものだからです。

今に至ってもこの方式が残ること自体は仕方ないとして、葬儀の厳粛さを失わせるような意味を是正するために、今後は「流れ焼香」という名称を、「式前焼香」または「式後焼香」と改めてください。


②式前(式後)焼香は時間厳守でご会葬ください。

【理由】喪主や葬祭業者が対応する場面が増えるから。

【対象】地域の方々、一般会葬の方々

【解説】前述の通り、式前(式後)焼香は本葬の式中から一般焼香を独立させた方式です。それはつまり本葬とは別にその分の時間が加算されるということです。

例えば午後2時からの本葬に式前焼香を午後1時から30分間設けた場合、喪主と葬祭会館は午後1時から会葬者の対応します。会葬者がさらに早い時間に来場すると、予定時間を前倒しになり、さらに時間が取られることになります。

また、一般葬では「喪主挨拶」は不特定多数に向けてできましたが、式前焼香(流れ焼香)では喪主が会葬者と個別にやり取りをすることになります。

ある程度の所要時間内でまとめて対応ができたという意味では、家族葬より一般葬の方が「機能的」ですらあったとも言えるのです。

コロナ禍以降の式前(式後)焼香においては、一般の会葬者にとっては喪主が事前案内した内容と時間を守ることが最大限のマナーとなり、喪主と会館の対応時間を減らす配慮となります。

指定の時間以外には焼香はできないし(特に、過度に早く来場することは謹しむ)喪主の対応も得られない(弔意や香典は受付や第三者に託すことになる)、喪主の意向によっては本葬中の一般焼香のみで式前・式後焼香自体が設けられない場合もある(その際にくれぐれも本葬以外での焼香を所望しない)、と心得てください。


③例え「家族葬」だとしても、家族だけで行うことにこだわらないでください。

【理由】 ・「家族葬」の定義が曖昧

      ・家族でなくても故人を弔いたい方がいる

【対象】喪主と親族

【解説】 家族葬は一般葬に対して小規模な葬儀を指す言葉で、その割合は時代とともに徐々に均衡していっていましたが、コロナ禍で完全に両者の割合が逆転しました。(参考:鎌倉新書 【第6回】お葬式に関する全国調査2024

ただし、一口に「家族葬」といっても様々な方式があります。

これは人によって「家族」の指す範疇が異なることが大きな理由です。(「家族」は旧民法では定義されていましたが、現民法では直接の定義がありません。極論ですが、現代ではペットを家族とみなす場合もあり得ます。)

 

コロナ禍当初に喪主より「家族葬で行います」と伺った時、せいぜい参列者は数名だろうと思い、「導師一人でお勤めします」とお答えしたことがありました。

しかし実際に本葬に行くと、想定より随分多い参列者がいて驚いたことがありました。

「家族葬」の認識に、喪主とも葬祭業社ともそれぞれ、大きなズレがあったためでした。

「一般葬」と「家族葬」は、内容によって下図の通りに分けることができます。

以前の「家族葬」は、上図の③か④の場合を指すことがほとんどでした。それがコロナ禍を経て①や②も同様に称されるようになりました。 

 

実際に、現行の家族葬では15名前後の参列者が一番多く、「同居家族」だけでこれだけの人数になることはありません。これに親族が加わる場合がほとんどです。

さらには本来の密葬にはなかった一般会葬の対応(式前・式後焼香)があることを踏まえると、現行の家族葬を定義は、「規模の大小に関わらず、家族が(喪主として)主催し、式中に一般焼香をしない方式」だと言えます。

 

またよく聞くのが「本葬に参列したかったけれど、家族葬と聞いて遠慮した」という、故人と昵懇だった方の話です。また家族葬を理由に事前の弔事報告が周知されず、後から人伝に聞いたという話もよく聞きます。

葬儀における喪主の大切ば役目は、自身のグリーフワークに加え、生前にご縁のある方々の未練が生じないよう「弔い(告別)の場」をととのえることです。「家族」という言葉が盾となって他を排するようなことになってはいけません。

 

(蛇足ですが、よく有名人の訃報に「近親者のみで葬儀を行いました」という事後の周知がありますが、実際には後日、知人主催による「お別れの会」が催されていることが大抵です。一般でも家族による弔辞報告が不十分だったため、葬儀に参列できなかった知人が中心となって、葬儀とは別に「お別れの会」が行われるケースがあります。決して家族だけが故人との別れの場(葬儀と告別式)を必要としているわけではない点は、よくよく銘記するべきです。)

そこで当寺としては、家族葬かどうかに関わらず、喪主に対して

  • 故人と昵懇だったまたは希望者など、家族以外でも本葬にご参列いただくこと。
  • 本葬の参列者が15名以上の場合は脇導師をお呼びすること(規模に適して)。
  • よほどの理由がない限り、自治会や広報機関などによる弔事報告はすること。
  • 弔意弔問は可能な限り受けて(妨げないで)ほしいこと。

以上を事前に確認し、お願いしています。

 

生前の故人の関係性にも濃淡があります。

式前(式後)焼香の対象は、故人にとって「社交儀礼的関係」に当たる方々だと思ってください。


実際には死別すぐに悲嘆にくれて、またこれまでの経験や準備が足りないことで、上記のような場作りが十分にできないこともあるかもしれません。

それでも葬儀は、故人の余徳に見合う適切な段取りと規模が必要で、不適正に小規模にすると、喪主や遺族にとって後からしわ寄せが必ずあることを、くれぐれもお含み置きいただきたいと思います。

 

長年お弔いとグリーフワークに深く携わるお寺としての経験からのお願いです。

「我は良医の病を知って薬を説くが如し。服すと服せざるとは医の咎にあらず」(仏遺教経)

 

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標記の件を以下の通りに開催します。なお、研修会につきましては観音講以外の方も参加可能です。お誘い合わせの上でご参拝ください。


日時 令和7年6月17日(火)

内容 午前9時〜  恒規法要

   午前10時〜 総会

   午前11時〜 研修会

   正午〜    お斎(斎料500円/持ち帰り可)


研修会について

演題/『弔いのそもそも、家族葬のそろそろ。』

講師/住職

コロナ禍以降に顕著に行われている「家族葬」について、常々思うところがあった住職が、つらつらその胸の内を明かします。

実はコロナ以前から主流は家族葬でした。ではコロナ禍前後で葬儀の有り様がどう変わったのでしょうか。今後の展望も含めて解説します。


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禅僧が伝えた元帥の遺戒

「やって見せ、言って聞かせて、させてみせ、誉めてやらねば、人は動かじ」。


 旧日本海軍大将(死後に元帥を追諡)だった山本氏五十六氏(1884〜1943 以下、山本氏)が残した言葉として有名なものですが、実はその直接の典拠は残っていません。生前親しかった人たちが「よくこう言っていた」と述懐し、さらにはその伝聞が、生前の人柄や功績への評価とも相俟って、次第に広まったもののようです。

 その中でもほぼ確かな一次証言とされるのが、長男・義正氏によるものと、そして生前の山本氏と昵懇だった禅僧・橋本禅巖老師(1899〜1994)のものです。


「徳あるはほむべし。徳なきはあはれむべし…讃めてやることが善を勧めて行く上では大事なことであります。山本さんが『やって見せ、説いて聞かせて、やらせてみ、讃めてやらねば、人は動かぬ』と良く申されていましたが、仕事を教えるのでも讃めてやると云うことが、秘訣のようであります。」(『正法眼蔵四摂法之巻模壁』より)


 橋本老師は山本氏の郷里である新潟県長岡市の悠久山堅正寺の開山として昭和十(1935)年に晋住。戦後の混沌がまだ色濃い昭和二十四年から、遷化なさる4ヶ月前までの45年間、市内各所で講話を行い、その数はおよそ三千回ほどに及びました。まるで初転法輪から涅槃寂静までのお釈迦様の45年間の伝道生活のようです。

 そしてその講話の中で橋本老師が紹介していたのが、「やって見せ〜」という山本氏の言葉でした。

 二人を引き合わせた人物がいます。堅正寺の開基となった二代目・駒形氏宇太七(旧名・佐吉 1883〜1935 以下、宇太七氏)。新潟有数の実業家で、同郷の山本氏とは旧制中学以来の幼馴染でした。

 中学卒業後に海軍兵学校への進学を志望した山本氏は、宇太七氏にその理由を「薩摩の海軍を日本の海軍にするためだ」(長岡藩は北越戊辰戦争で薩摩藩の攻撃に敗れ没落した)と明かしました。宇太七氏は応援することを約束し、以降も生涯の親友であり続けたと言います。

 後年、商業で成功した宇太七氏が発願して堅正寺を建立する際には、上京して山本氏にそのことを報告し、合わせて開山住職として招請した橋本老師のことを紹介しました。

 しかし宇太七氏は入仏が終わった直後に急逝。堅正寺の護持は末弟の駒形十吉氏(1901〜1999 大光相互銀行社長、新潟総合テレビ社長などを歴任)に引き継がれました。

 その後も山本氏は、帰郷の際には堅正寺で橋本老師に参禅し、周囲に「一日堅正寺に行けば、君たちの二、三年分は勉強してくる」と得意げに語っていたと言います。

 独・伊との「三国同盟」に断固反対したことで多くの非難に晒され、いよいよ暗殺の危険が及ぶに至った際には、山本氏は遺書を書いて海軍の金庫に収め、堅正寺に籠って修養しつつ雌伏しました。堪忍土での綱渡りの受難に比べ、橋本老師との差しでの対話は、実に他愛もない穏やかなものだったと言います。「常在戦場」が座右の銘だった山本氏に、堅正寺は兜の緒を緩めることのできる数少ない場所、出世間の結界道場だったのかもしれません。

 太平洋戦争の戦況が悪化する中、山本氏は昭和18年ブーケンビル島で搭乗機が撃墜されて戦死。民間人として初の国葬に付された際には、橋本老師が「大義院殿誠忠長陵大居士」という戒名を授けました。


 そんな両者を深く結びつけたもの。きっかけが宇太七氏による仲介だったことは間違いありませんが、もっと直接的に通じる気脈があったように思われてなりません。今回、両者の伝記を散読し対照し、小見で恐縮なのですが、筆者はそれを「孝行」の通底だと見立てました。


 山本氏は旧姓を高野といい、元々は儒家の家系でした。29才で相次いで両親を亡くし深い悲しみの中、その3年後に旧長岡藩主の牧野忠篤らに懇願され、断絶していた旧長岡藩家老だった名家・山本家を継承しました。宇太七氏に「薩摩の海軍を日本の海軍にする」と言ったのも、旧薩摩藩閥が主流を為す海軍の中で立身し掌握することで、かつて北越戊辰戦争で失った高野・山本の家名(祖父は戦死し、山本家は一時途絶えた)や長岡人全体の誇りを挽回した上で、国外に目をむけるために過去の国内での恩讐を超越していこうという思いがあったのかもしれません。



母との死別を坐禅が救う

 橋本老師の生い立ちについて振り返ります。


 明治三十二年に大分県、現在の宇佐市で生誕。農業を営む生家には仁聞菩薩(奈良時代の国東半島に28の寺院を開いたと伝えられる伝説的な僧)の作と伝わる如意輪観音が祀られるなど代々篤信家の家系で、橋本老師の俗名の悉治は、お釈迦様の幼名である悉達多にちなんで名付けられました。幼い頃より祖母に大悲咒を教わって読誦し、やがて年老いて愚痴っぽくなった祖母も、幼い橋本老師が観音経を訓読すると、愚痴をおさめて背後で一緒に拝むので、しばらくはずっと繰り返し観音経を読誦していたと言います。

 その祖母が橋本老師16歳の時に亡くなり、その翌年には祖父が、さらに同じ年に母が相次いで亡くなります。橋本老師はその時の様子を次のように振り返っておられます。


「母方の祖父が私の家で亡くなってその遺骨を先祖の墓地に納めに行く道すがら、あれだけ達者であった祖父が今はこうしてお骨になっている、(祖父に)何度も連れて行ってもらった海も昔のままであるし、遠くの山々も昔のままである。人間だけはあっという間に骨になってしまう。天地の悠久なのに比べると、人生は何という儚いものであろうかと、心細い 気持ちになって きたのであります。

 そういうことがあって2 ヶ月ばかりした頃に母が 風邪気味だというので床について寝込んでしまったのでありますが、普通の病気よりも少し重いのではないかと思ったのでありますが、まさか死ぬとは全く思ってもいなかったのであります。死ぬのは年寄りのことで 、若い者はそのうちにきっと回復するであろうと、そう思っていたのでありますが、

 ある日の深夜、〝みんなで最後の看病をするように〟と言われ、子どもたちが母の周りに集まって、足をさすったり背中をなでて、親切を尽くして回復を祈ったのでありますが、足は次第に冷たくなる。背中も冷たくなってくる母の死は、刻々に近づいてきつつあったのであります。

 私は顔のすぐ前に座って、母の言葉に耳を澄ましていたのでありますが、その時ふと思いついたのは、自分の友達もこうした思いがけないことがいつ起こるかもしれん。それとも知らず、誰も彼も親不幸をばかりをしている。母の枕元を飛び出して大鐘を鳴らして、世界中の人々にこのことを知らせたいと思ったのであります。

 そう思った途端、目の前の大地が真っ二つに裂けた、真っ暗な底なしの世界に落ちていってしまったのであります。いくら呼んでも返事をしてくれるものは誰一人もいない。掴まるものもないし、何にも見えないで、何にも聞こえない。これが世に言う無間地獄というところかもしれんとそう思ったのであります」。(NHK『こころの時代』平成5年の出演回より)


 その時ふと、小学校6年の時に先生から鎌倉の禅寺の話を聞いたことを思い出しました。そして、たまたま家の本棚に『普勧坐禅儀』があるのを見つけて手に取ると、繙いて、書いてある通りを真似るように坐禅をしてみました。

 始めは足が折れそうに痛く、呼吸も整いませんでした。しかし我慢してでもやり通さないと無間地獄を抜け出すことができない。そう言い聞かせるように坐禅に取り組むうちに、燻っていた感受性がみるみる明快で豊かになっていきました。それまでは道を歩くと必ず石ころを蹴飛ばしていましたが、まるで足元の石が母親のように思えてきて、蹴ったり踏んだりせず丁寧に緩歩するようになっていきました。怠惰で人任せだった生活態度は、家の手伝いを自ら買って出るなど活発になり、乱雑に脱ぎ捨てていた玄関の履物はきちんと揃うようになっていきました。あらゆるものに母親を労わるように親切を尽くすようになったことで、橋本老師は「母親を生活の中に取り戻した」といいます。

真っ二つに裂けた底なしの無間地獄だった周りの景色も、無情説法の極楽浄土だと感じるようになり、まるで松林がお釈迦様のお話を直接伝えているようで、いつも眺めるようになりました。

これまで、そういう状況は誰にも聞いたこともないし、そういう導きを受けたこともない。しかし自身は明らかに坐禅によって救われる経験をした。これからも坐禅ができる生活を続け、そして坐禅の素晴らしさを人々に勧めたい。

その志はもはや発心。もうこの先の人生は出家して歩む選択しかありません。中学卒業を間近に控えても進学のための試験勉強をすることもなく、やがて出家したい旨を父親に伝えます。長男だったこともあって最初は反対されましたが、橋本老師の決心が揺るがないのを見ると、最後は出家を許可してくれました。



時代を代表する禅匠からの薫陶

 老師ご自身は、出家ができるならどんな環境でもどんなに貧しくても厭わない覚悟でしたが、父親としては親心からか、せっかくならばそれなりの環境を整えてひとかどの人物の弟子にしてやりたい、と願ったようです。

 知人の紹介で、たまたま別府に掛錫ちゅうだった日置黙仙禅師(1837〜1920)への拝謁が許されました。その時には日置禅師から、今後のことは同行の堀内文次郎中将(1863〜1942)に相談するようお示しを受けました。

 しかしその後事情が変わったのか、堀内中将に連絡を入れることもないまま、結局は新井石禅禅師(1864〜1927)に弟子入りすることとなり、当時新井禅師が住職をしていた最上寺に上山することになりました、橋本老師20歳のことでした。

 上山した時、新井禅師はたまたま巡錫中で不在でした。橋本老師は新井禅師を追いかけて伊豆の蔵春院に向かいました。その時の蔵春院は授戒会中で、看板を見ると「戒師 日置黙仙禅師」の名があります。一年前の拝謁とその後の没交渉が脳裏によぎりましたが、「なんとかなるだろう」と山内に入り、随喜中の新井禅師と面会し挨拶をしました。その時、新井禅師から「石應」という法名を一旦授かりましたが、すぐに隣の部屋の襖が開き、そこに入ってきたのは堀内中将でした。一年間連絡を待っていたという堀内中将に橋本老師が非礼を詫びると、さらに隣の部屋の奥から「その青年をこちらに連れてきなさい」と声がします。入ってみると隣の部屋におられたのは日置禅師でした。

 日置禅師は「弟子は新井さんに取られたが、名は儂がつける」と言って、「禅巖」の名を授けてくださいました。堀内中将もこれには喜ばれ、

 動きなき 巖に匂う 梅の花 

というお祝いの句を贈られました。

 偉大な両禅師から取り合いされるような「三角関係」とはなりましたが、ご縁や成り行きとは言いながら、結局は新井禅師こそ本師になるべきお方だった、と振り返っておられます。新井禅師が歩行される際には自ずと足元に目が向きました。すると新井禅師も同様に、いくら暗がりであっても石や落ち葉を踏むことなく、丁寧に歩かれていたのだそうです。

 大正九年、新井禅師が總持寺独住五世になると、東洋大学で学びながら随身してこれを助け、大正十四年の太祖六百回忌大遠忌では首座を務めました。

 翌年に嗣法すると、今度は岐阜県伊深の正眼寺(臨済宗妙心寺派)に安居。当時の師家は小南惟精老師でした。一旦暫暇して再び新井禅師に随身し、やがて遷化されると葬儀を勤めました。そして正法眼蔵』を参学するために岸沢惟安老師(1865〜1955)の住する静岡県旭伝院に逗留。昭和四年には再び正眼寺に戻って安居しました。

 正眼寺は「天下の鬼叢林」と呼ばれるほど厳しい家風で夙に知られ、また岸沢老師も指導が親切で厳しいことで有名でした。橋本老師もそれなりの覚悟をして門戸を叩いたそうですが、どちらでも怒られたり厳しくされた(と感じた)ことはなかったそうです。厳しさは懈怠を覚まし一層修行へ邁進させるための叱咤激励です。すでに道心が厚く威儀進退も綿密な橋本老師は「怒らなければいけない」ような行者ではなく、むしろ一一人前と見なされて、それに見合った指導を受けられたということではないでしょうか。

 四年ほど正眼寺で安居した後、「越後四箇道場」の一つで、かつて新井禅師も住職をしていた雲洞庵(新潟県南魚沼市)で役寮を勤めていたところ、宇太七氏からの請を承け、堅正寺に晋住することになりました。



孝は百行の本

 当初は講話でも解説するほど『正法眼蔵』を参究していた橋本老師でしたが、後年は道元禅師の次の詩を愛好されました。

「六の道 遠近(おちこち)迷ふともがらは 吾が父ぞかし吾が母ぞかし」。

「『正法眼蔵』も立派だか、この詩が道元禅師の宗意安心の根本で、結局私もこの境地一つになった」。(テレビ出演のご発言の大意)。

 橋本老師は生老病死の今際を坐禅に救われ出家しましたが、それは「すべてを父や母だと思って親切を尽くす」ことの体現であり、そして長い参学を経て再びたどり着いた発心即菩提、正に孝禅一如のご生涯でした。

 また山本氏も堅正寺に「申大孝」(国や祖先に感謝し、孝行すること)と揮毫した一幅を奉納するなど、生涯を通じて「孝」を大切にしました。戦後になると、橋本老師は出征する山本氏を励ますようなやりとりがあったことを後悔されていた、とも伝え聞きます。これは「孝」が戦前では四恩説と不可分だったために生じた「パラダイム・ギャップ」(規範の相違)のためでしょう。これについては、以前佐々木珍龍老師を紹介した際にも触れていますので、ここでは内容に踏み込まないでおきます。

 いずれにしても、「孝は百行の本」を縁(よすが)として、それぞれの分野に精通した者たちの固い結節点が、堅正寺という精舎だったのかもしれません。(住職 記)


<参考文献 『道元禅師 宝慶記講話』(大法輪閣 刊) 『観音経摸壁』(鴻盟社 刊)  その他>

(曹洞宗参禅道場の会『参禅の道』第85号 所収)


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昨年の晋山式に先立って、お施主様に「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」像をご奉納いただきました。

烏枢沙摩明王は、密教では五大明王の一尊とされ、天界と人間界の間の炎の世界に住し、人間界の煩悩が天界に及ばないよう、憤怒の表情と聖なる炎で煩悩や不浄を焼きつきすと言われています。また清浄なる自己を目覚めさせる徳があり、安産や金運、病気平癒にご利益が波及するとも言われています。


衣食住の生活の一切を修行と捉える禅宗寺院では、お手洗いを「東司(とうす)」と称し、坐禅堂や浴場とともに「三黙道場」として修行の根本道場に位置付けています。そして東司には烏枢沙摩明王が祀られ(曹洞宗だと「日本一の大東司」と言われる静岡県袋井市の可睡斎や、富山県高岡市の瑞龍寺の烏枢沙摩明王像が有名です)、これまで当寺では位牌は安置していましたが、烏枢沙摩明王の仏像自体はありませんでした。一昨年に遷化した先代住職もかねがね「いずれは烏枢沙摩明王の仏像をお迎えしたい」と念願しておりました。


この度入仏した烏枢沙摩明王像は、中国伝統工芸美術大師(日本の人間国宝や伝統工芸士に当たる称号)の袁師永氏が十数年前に制作されたもので、素材はラオス檜、そして台座まで110cm以上の大作。しばらく仏像専門業者が在庫として管理をされていたものを、たまたま住職が作品の画像や情報に触れ、気になって照会したところ、業者様から、

「この作品は、袁氏が永平寺の烏枢沙摩明王を参考にして制作されたものです」

とのお話を聞きました。

住職もかつて永平寺で修行していましたが、情けないことにことにその像容の記憶がなく、後日拝登して確認すると、山門脇の一般参拝者用の東司にあったものと、特徴が一致しました。修行僧は滅多に利用することがない東司だったので、記憶がなくても仕方なかったと言えるでしょうか。

永平寺の烏枢沙摩明王像


住職としては「永平寺の烏枢沙摩明王を参考にした」というのが、「決定的な宣伝文句」となり、「ぜひお迎えしたい」と切望して施主様にお伺いしたところ、ご快諾をいただいたので晴れて当寺に入仏させていただくこととなりました。


本来であればお手洗いにお祀りするべきですが、なんと言っても1mを超える大きな仏像(手本となった永平寺の倍以上あります)です。お手洗いの改装も(本気で)考えましたが、二人の寺族から滔々と諫言され、これを断念。

そこで本堂の脇間に安置して普段のご供養を行い、お手洗いにはその複製画を掛けることとしました。

また晋山式の機会とも重なりましたので、実際の像容を加工して複写した「お守り」を作成し、記念品として全檀信徒宅に1部づつ進呈しました。


お施主様には、過去に亡祖父様のご供養で坐禅堂の文殊菩薩像をご奉納いただいたのに続いて、この度は亡父様のご供養として、烏枢沙摩明王像をご奉納いただきました。おかげで当寺も「禅寺としての面目」を整えることができました。この場をお借りして、改めて心から感謝申し上げます。

最後に…

参拝者用のお手洗いの「標語」をご覧ください。


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4月13日(日)、願興寺観音講主催の出雲観音霊場の巡拝を行います。今回は第75回の満願コースとなっています。

当日の団体参加、代参、期日前後の個人参拝の全ての方に、記念御朱印を差し上げますので、お誘い合わせの上奮ってご参加ください。


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12月31日大晦日の午後10時30分より、毎年恒例の『除夜の鐘撞き会』を開催します。


会場にお参りの方には、あたたかい『吉野葛とごぼうのポタージュ』を数量限定でお振舞いさせていただきます。


その他にも福引やおみくじの他、梵鐘を撞いていただいた方の中から50打ごとの飛び賞として、堀江だるま店様の『開運干支だるま(大地の八岐大蛇だるま)』を進呈します。


お車でお越しの方は『サテライト山陰』様の駐車場をご利用ください。

また当日の模様はFacebookやyoutubeでもライブ配信します。


どうぞお誘い合わせの上でお参りください。


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「堆肥葬」という未来の選択肢

先日の山陰中央新報に「『葬送』転換期 高まる自然志向」(リンク先は前文以外有料)という記事が掲載されました。広告を除けば、ほぼ1ページの紙幅ですので、かなり力の入った記事ではなかったでしょうか。

 

「葬送の自由化」が唱えられて随分経ちます。

 

今回の記事のような「家墓一択」から脱却して自然葬など葬送の選択肢を増やす、という論旨は以前からあり、むしろ今回の記事中の『ハヤチネンダ』さんの活動は、古来から日本にある「自然を信仰対象とする」流れに回帰するものだとも言えます。

 

そんな中で今回目新しかったのは、松本紹圭さんが紹介された「堆肥葬(ヒューマンコンポスティング、コンポスト葬)」というワードでしょうか。

(参照「カプセルの中で自分の体を30日かけて腐らせ堆肥に」/PRESIDENT Online/著者:鵜飼 秀徳氏)」

 

ただしこれも、記事の中で松本さんも仰っているように、(日本での)現行の火葬から堆肥葬に直ちに移行すべきという急進的な話ではなく、今の時点では「そういう選択肢もあり得るかもしれないから、知っておくといい」という程度の話でしょう。

例えば散骨は、随分前から認知度も潜在的なニーズもそれなりにあると思いますが、実際に実施されるケースは決して多くありません(葬送全体の1割以下)。(参照「2024年 お墓の消費者全国実態調査」)

堆肥葬も同様に、どちらかと言うと「意識高い系」という印象で、インフラ整備も含めて、実現や選択のハードルは決して低くなく、将来の一般的な選択肢としてどこまで浸透するかは、現時点では不透明です。

 

蛇足ですが、ある檀信徒の方が面白いことを仰っていました。

江戸時代の日本は今より社会が循環型でしたが、特に大工の家の肥溜めが珍重されていたそうです。なぜなら当時の大工は豪放磊落な人が多く、「宵越しの金は持たねぇ」とばかりの勢いで飲食していたため、その排便も栄養価が高かったからだと。

精子バンクでも見られる様に、もし堆肥葬が伸長したとして、その時には栄養価の高い(肥満の)ご遺体が好まれ選ばれるという、「人道的か否か」が問われるケースも出てくるかもしれません。

 

 

「樹木葬」ではなく「ガーデン葬」

さて、むしろ今回の記事で私が注目したのは、松本さん文章の中に「見せかけのような樹木葬」という一文があったことです。これは私も、常々感じていたことです。

 

先の「実態調査」からも分かるように、ここ数年で新設で最も選ばれているのが樹木葬で、2020年には一般墓とシェアが逆転し、2023年には過半数を超えるなど急進しています。

その樹木葬が「見せかけ」とはどういう意味でしょうか。

 

以下はあくまでも私の個人的な見解で、現在運営されている樹木葬の業務を圧迫する意図はありません。

 

日本初の樹木葬は岩手県一関市で始まったとされ、当初は山地での埋葬場所に一本ずつ樹木を植え、それが増えることで里山として再生して自然を保護していくというもの(里山型樹木葬)でした。

 

一方で現在シェアを伸ばしている樹木葬はそれとは異なった形態です。

シンボルツリーの周りにカロートをいくつか掘って埋葬するもので、ある程度人為的に整備された場所で行われています。個人的にこの形態を、樹木葬ではなく「ガーデン葬」(ガーデン型樹木葬)と呼んでいます。

 

私はこのガーデン型について、主に2点の疑念があります。

 

一つには「自然に還る」というイメージが正しいかどうかの問題です。

 

墓石葬でなく樹木葬にすると「ご遺骨が土中で分解されて自然(土)に還る」と仰る方がいますが、実際は少し違うように思います。

これは墓石業者さんに聞いた話ですが、自然土の中でカルシウム質であるご遺骨が完全に分解されることは難しい(相当の時間がかかる)とのこと。「大森貝塚」を思い出していただくと分かりやすいかもしれません。

それでも土葬だとバクテリアの繁殖で分解が進むことがある様ですが、火葬されたご遺骨が分解されることは、ほとんどないらしいのです(地質条件にもよる)。

粉骨という手段もありますが、以前見学した散骨の島・カヅラ島でも粉骨して散骨されたご遺骨の粒子が(濃淡はありますが)白く残っていました。

 

いずれにしても、現在最も選ばれているガーデン型の樹木葬で「自然に還る」というのは人それぞれの受け止め方、つまり「イメージ」に依り、実際には「自然循環型」の葬送とは言えないのではないでしょうか。(個人的に、究極の自然葬はチベットの鳥葬だと思います)

つまり墓石がシンボルツリーに代わった、文字通り「シンボル(墓標)」の違いだけで、形態としては従来の墓葬と大差ない言えます。

 

そして最も大きな疑念が「承継(者)が不要」は本当か、です。

 

「承継者が不要だから」を理由に永代供養付きの樹木葬を選ばれる方は相当数おられるでしょうし、実際に物理的な墓石自体の管理や承継は必要ありません。

しかし、現在の樹木葬の大半は(里山型ではない)ガーデン型です。つまり埋葬される場所であるガーデンなり霊園は永続的に維持管理される必要があります。実際は業者なり宗教法人がこれに当たります。また永代供養した後でも、実際は業者や宗教法人が供養を承継することになります。

つまりガーデン型の樹木葬は、実際には血縁者以外に供養の権利(祭祀権といいます)を託すだけではなく、「費用」なり「永代供養料」なりの名目で経費的に「先払い」することで、墓地の維持管理も他者に託して公益性をウヤムヤにしていることが大きな問題だと、私は見ています。

 

それでもガーデン型樹木葬が「選ばれてNo. 1」なのは、それだけ祭祀権承継に不安があるということで、従来の家墓が供養の唯一の選択肢ではその不安は払拭されない、という事実は真摯に受け止めなければなりません。

大切なのは、家墓も自然葬も含めた選択肢に多様性があること

今回、私はガーデン型樹木葬を批判的に書きましたが、現実に目の前の誰かがそれを選択した場合に、たとえ自分と違う価値判断だったとしても、その選択をした相手を受容し尊重したい。

その意味でも、お寺が基盤としていた従来の供養の前提が、今後益々緩んでいくことだけは、覚悟しなければならないと思います。(住職 記)

 

 

 

 

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早いもので、晋山式が終わってもう一ヶ月経ちます。

当日は大変な風雨となりましたが、ご随喜くださったご寺院様方、親族・来賓の方々、お手伝いいただいた檀信徒の皆様方、そして稚児行列の決行にご理解をいただいた保護者の皆様、嵐に負けないひだまりのような明るさを振りまいて行列をしてくれた稚児のみんなに、改めて心から感謝申し上げます。

何よりも先代住職が遷化して以降、護持会の体制維持に苦慮し晋山式の準備に忙殺された私を近くで支えてくれた寺族の二人、母と妻には、言葉にできないほどの感謝の思いでいっぱいです。そして息子も、当日は稚児行列から法要が終わるまでの長い時間、彼なりのひた向きさでお勤めしてくれました。


普段のお付き合いを踏まえると、本来なら当日の法要にはもっと多くの御寺院様、法友にお声掛けをしなければなりませんでした。

しかし色々と思うところがあり、今回は思い切ってお声かけの範囲を狭くして、「少数精鋭」にてお勤めさせていただきました。

その方針を私が標榜した時、最も賛成してくれたのが生前の師父でした。それがなければお声掛けしなかった方々への不義理に今も悩み続けたところでしたが、良くも悪くも割り切ることができました。


生まれて初めて「何かしらの主役」となって、多くの皆さんに支えていただいた晋山式でした。この経験は、これまでの人生とこれからの人生をつなぐ、大きな転機になると思います。




一般の方々にとっては、お寺でこのような「慶事」があることを珍しいと感じる方も少なくないでしょう。実際にお寺は、葬式や法事といった「弔事」の場となることの方が多いかもしれません。それでもお寺に住む住職やその家族にとっては「弔事」以外の日常生活がそこにあり、たまに楽しいことや悲しいことがある、取るに足らない日常を繰り返しながら、お寺を守り続けています。


昔から日本には「ハレとケ」という生活のリズムがあると言われています。ハレは冠婚葬祭や年中行事などの特別な日、ケはそれ以外の普通の日常のことです。

敢えて音楽に例えるならば、人生という楽譜においてケが主旋律、ハレが転調。

そしてもう一つ、お寺には「ホトケ」、つまり弔事や仏事に関わる生活があります。ケに対する「和音」のようなものです。


晋山式では、新住職が事前に身支度を整えるための「安下処」を定めます(参照「江龍山長見寺 晋山式」)

今回、「安下処」としてお願いをさせていただいたのが、前総代長の小松仁さんのお宅でした。

小松さんの長男と私は同い年で、物心がつく前から遊んでいた幼馴染でした。しかし彼は15年ほど前に亡くなってしまいました。

「まさかこんなに早く、幼馴染の葬儀を勤めることになろうとは」。

私にとっても大きな衝撃でしたが、先立たれたご両親の深いお悲しみを前にして取り乱してはならないと、心を固く保ちながら彼を見送りました。その後の年忌法要も「ご遺族のため」と思って粛々をお勤めしてきましたが、今回は「自分のため」に幼馴染の菩提を弔うことを、新住職としての出発点にしたいと考えました。


お宅に着くとお茶を出していただき、その茶器が故人自身が生前に購入した久谷焼きだと教えていただいたことをきっかけに、久しぶりにご遺族と故人についての思い出話に花を咲かせました。

その後お袈裟をつけ、仏壇前に座って彼の位牌と相対し読経を始めた途端、「あの日」以来心の奥にしまっていたはずの涙が溢れ出て止まらなくなり、耐えようとしても嗚咽が止まらなくなりました。まだこんな「悲しみ」が自分の中に残っていたことに驚き戸惑いました。


晋山する宗淵寺は私にとっては「生家」、小松家との距離は幼馴染たちとの思い出で彩られた原風景で、そこを取り巻く地域に私の50年間の「暮らし」のほぼ全てがここにあります。

彼が先立ったのとほぼ同じ時期に、私と妻は第一子を亡くし、この寺で御霊を葬り弔いました。そしてこれからも、この土地で出会った人たちと日常を重ね合わせながら、やがては互いに弔い合うでしょう。

ホトケ(身近な人)を弔い葬ることで、ケ(日常)が深くその地に根付いていく。ホトケに関わる僧侶・住職として、この寺この土地で暮らしていくために、この「ハレとケとホトケ」の律動にある。

ハレ(晋山式)を迎えるに当たって、何も言わぬはずの幼馴染の位牌と遺影がそう教えてくれました。


そんな故郷も、諸行無常の移ろいは止まることを知らず、都市開発やコロナ禍を経たことも相俟ってか、「土地柄・人柄・間柄」がガラガラという変拍子によって変わっていると感じています。

晋山式が終わった今、次にこのお寺のハレがいつ来るのか分かりませんが、それまでケとホトケの基調を大切に保ちつつ、これからも守るべきものと、今後は変えていくべきことをしっかり見定め、檀信徒の皆様と喜びや楽しみはありのままに分かち合い、悲しみには程よい距離感で寄り添い続けながら、このお寺を大切に守って参りたいと思います。


(第十七世 住職 記)


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8月28日から9月28日まで、庫裡床面の改修工事を行います。


本日から9月12日までは玄関ホールと廊下の工事となり、正面玄関は通行止めになります。ご用の際には一旦呼び鈴を押してお待ちください。

法要などで建物内に上られる場合は、位牌堂の玄関から出入りして下さい。


13日から26日までは大広間(法要控室)の縁側の工事となります。正面玄関は通行できますが、大広間は引き続き利用できません。その代わりに奥書院を法要控室にしていただきます。


9月27日、28日には位牌堂の工事となりますが、位牌堂の利用自体は可能です。


以上、よろしくお願いします。


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11月2日の晋山式に合わせて、お子様の健やかな成長を祈る「稚児行列」と山門の「初くぐり」を実施します。

すでに山門は通行できるようになっていますが、まだ付帯工事が全て終わっておらず、全てが整った上で、正式には11月2日が「初くぐり」となります。

檀信徒以外でもご参加いただけますので、お誘い合わせの上、ご参加ください。

ネット申込

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeRmTqZnOKbyCbdcb4SPFr8kcWoS9H2ej9Bfh-aRlcGTI9ZxA/viewform


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