デザフェスのマフィンの件。
直接的な悪意が感じられない事を理由に批判をやめろって意見もたまに見かけたけど。
経験則から言うと悪意がない方が余計に危険だと思っている。
もちろん"私刑に反対"なのは同意なのは確か。でも理屈の通った批判されてる程度ならそれを私刑と断じて止めさせるべきではないと思う。つまり今回の件ではその多くが私刑の範疇にない合理的な行動と見ている。

理由は単純で「悪意がない」のは良いとしても、そこには「誠意もない」から。

具体的にはデザフェス中に腐っていた報告を何度も受けてたのは色々と指摘されて居るけど。

にも関わらずそのまま販売を続けて3000個以上売っている
それに「腐っている」と販売中に伝えた報告者に「100個に1個は腐っている物ができる」と言って居たと報告されている。
つまり最初から「30個は腐っている」と言う確信を持って売るつもりだった。
その時点でもう「うっかり」なんかではないのが分かる。
それに保存料を除いている事を売りにしているのにも関わらず作り溜めている期間が最長で5日

通常よりも保存期間が間違いなく短くなる事を承知の上で「5日は常温で保管している」(正確にはエアコンによる18度以下の設定で5日間)。マフィンの保存期間は冷蔵ですら3~4日と言うこと。

何をどう解釈しても腐る。


そして、先に分かりやすくするために「悪意がない」と書いているけど。

私の考えの元では本人はこれを「仕方が無い事態」と認識しているのだと思う。「100個に1個は腐ってしまう」と言う言い回しからしてね。だから「事実として特段に加害の意志は無い」のは本当だと思う。

だから表面上の敵意の無さで直ぐに改めてくれそうな応答に見えたりする。そこが「批判をやめろ」って言う論調が多少は出てくる要因になっていると思う。

 

通常は悪意が無ければ積極的な加害はしないと思うものだからね。
けれど私個人としては「自分に改める要素があるとは思ってない可能性」も危惧してる。
なんせ「悪意がない」から「悪いことしているとは思ってない」し腐っているものが出来るのは「100個に1個出来るのは仕方ない事」の様に解釈してる。そして周りからも悪意の有無だけで見ていると「批判している側が過剰に批判して」いるように酷く見えたりする

冷静に事の流れがどうなるか考えてみると、衛生観念からして今回の炎上が起こらなければ食中毒で誰かが死ぬか障害が残るレベルの被害が起るまで延々と続いてた可能性も十分にあったと思う。

もしかしたら食中毒が起きても関連性を否定するかもしれない。

繰り返しになるけど「加害の意思は無い」はず。ただ指摘されてもなお売り続けていた実績や各所の判断から改める意思がどこまであったかも不明だし。見た限りでは手順や意識そのものを改める様な発言を私は見てない。

で、何故こうなるのかと自分なりの見解だけど。

「悪意のない行動には責任を問うべきではない」って考え方の人が一部に居る。これが擁護派の主張の一端にあると思う。


私自身は「結果の責任は取るべき(情状酌量の余地はあり)」と言う立場だけど。

この考え方の違いで責任の所在と行動が全く変わる。

「悪意のない行動には責任は問わない」派の人は周りに迷惑を掛けても行動を改めないパターンが往々にして起こるし。
「悪意がない人は繰り返さない」と言う仮定もあって(積極的な加害をする理由がないから)先むしろ自分を被害者として認識したりする「悪気もないのに怒られる…」と。


しかし、本人に悪意は無いけど継続して迷惑を掛ける事例はたくさんある。
例えば

野良猫の餌付けによる糞害や園芸用植物の枯死(猫の糞尿は掛かると枯らすため)」これも直接的にやってるのは猫。
でも餌付けしなければその糞害も枯死もない。
丹精込めた庭の植物が猫の糞尿と掘り返しで枯らされた人」や「必死に働いて買った家が猫の糞尿まみれにされた」と言ったそんな事態は常に何処かで起こってる。でもその元凶である餌付け行動をするその人にも悪意は無い

こう言う考え方の人に行動を改めてもらうのは難しい。

本人は他の人に直接何かした訳では無いし加害の意志もない
でも実害は延々とその人が元凶になる行為をやめない限りその周囲で続く

だから必ず限度が来て爆発する

その時にはその「悪意のない人」自身か「猫」が報復の被害に合う。

良い悪い以前にそうでなければ解決はあり得ない。悪意が無いがために元凶となる行為を続けるとその被害は誰かが被り続ける

それは被害にあっている側の我慢が続く間だけは表面上問題が見えない

その解決が見えないが為に続いた「絶望が表面化した暴力」を単なる「暴力」と言う一点のみで批判される事もある。

例えば猫に毒餌を撒くなどがそう。毒餌を撒いて加害しようとしていると言う書き込みも各所で見るけど。

それを流している人は猫へ撒き餌をしていたりする。

(動物に加害するのが好きな奴も確かに居るし、それは本当に許せないし書き殴りたくもあるけれど。

今回はその件には触れない。この文章はマフィンから思う事を書いている事だから。なので本来は猫が嫌いでも無い人が改善の無い絶望に追い詰められて毒餌を撒くに至る事もあると言う事を例として記している事を分かって貰いたい。)

 

だから猫が殺される事件のうち何割かは餌付けに呼ばれた猫が被害に会ってるのではと私は見ている。
餌付けされなければ殺されなかったはず猫も被害者。「事前に文句を言われたりなどあったはず、素直にやめれば死ななかったのでは?」と思う。こう言うすれ違いが「悪意の有無」だけで物事を見た時には起こる。


上記のは例として猫を書いたけどこの件では食中毒だった。
だから、もし悪意なくトラブル起こしそうな人がいたら「〜の理由でダメだからやめろ」と言う事は続けなきゃならない。
もちろん罵詈雑言なんかはすべきではない
それに、いちいち言う方も本当に疲れるしやりたいことでは無いけど。少なくとも擁護するなら無責任にするのではなく「結末の責任を一緒に取る覚悟」を持つべき。その責任を負う気概もないなら気安くトラブルの擁護すべきじゃ無い。

助長させる事になってしまうと誇張でも何でもなく本当に人が死ぬ

そうした時に擁護した人が何の責任も無いで済むとは思わない。焚きつけて悲惨な結果を起こした責任は元凶を作った当人と共に負うべきだと思う。もちろん同じ重さの罪を背負えとは思わないけれど。

 

では、何故「悪意の有無で判断するのか?」と言う疑問。


これは議論の余地はあるけど恐らく判断するための頭を使うコストを下げるため
例えば

熊が里に降りてくるのを防ぐための口実として樹の実を山に撒く」のがダメな理由を考えた場合
樹の実が発芽して実ることによる植生の変化や、熊が食べずに他の小動物が食べて過剰に増えるトラブルや他の土地の植物の病気を広めるかも知れないなど、直接的には熊が無関係でも樹の実を撒くデメリットは多岐に渡る
熊の食料を山に運んでもその分だけ熊が増えてしまえば今よりよりたくさんの熊が里に降りてくるだけ。
これだけ複雑な条件が沢山あってそれを一つ一つ精査してそれでようやく「樹の実を撒くのが良いのかどうか?」の議題一つの答えになる(これは例なので熊対策の具体的な答えは調べていないが、少なくとも山に樹の実を撒く事では無い)。

これだけの事を頭で考えるより「悪意が無いなら良し、悪意があれば悪人」と言う規準にすれば一瞬ですぐに答えが出る
日常でも「誰が悪いか、何が悪いか」は日々判断していかなければならない。

例えば「体が触れた」や「誰が何を忘れた」など、ちょっとしたトラブルになりそうな時にはそれが出来ないと事態が悪化するかもしれない。だからそのコストを抑えるために悪意の有無を見れば少なくとも悪意のある人を拒絶は出来る
こうやって判断能力コストを落としている人もいると思う。

実際、興味のない事には皆ぞんざいなもの。このくらい雑になる。

でもそれは現実的な問題解決には解像度が荒すぎる

根本的な問題解決にこだわる人とは揉めることになる。

そんな雑だと問題解決にはならないから実態としては誰かに我慢を押し付けることになる

でもその我慢を押し付けれれるのは悪意の有無でジャッジされた誰かとは別人。

当人が我慢を押し付けられるときに悪意の有無で許す許さないを話す人は居ない。だいたいは当たり前に行動の結果に対する補填を要求する。つまりダブルスタンダード。

「悪意の有無で判断する人は常に被害にあって居ない人」当事者になれば手の平を返す。

 

この例だと熊から安全な距離にいる人が「熊を殺さない代わりに誰かに死ね」と言って居るようなもの。そんなことを許容できる訳が無い。「じゃぁ熊は死んでも良いのか?」と言う事になると思うけど。

この問題の答えは起こりうるトラブルを全部考えた上で対策案とともに言うべきこと

「熊が可哀そうかどうか?」だけなら何の対案も提案していない。それは単に「熊のために誰かは死んでくれ熊が可哀そうだから」と言って居るのと変わりない相手にされなくて至極当然


判断コストを削った人にとっては「樹の実を撒く人」は悪意が無いので「止めなくて良いしその結果の責任も取らなくて良い」と言う結論が出る。そしてもうそこで解決が出ている以上、話を続ける意味がない。
「樹の実を撒くこと」を止める理由を理解してもらうためには説明のために長い話をしなければならないけど。

「悪意の有無」で判断する人には「結論の出た後のウザ絡み」にしか聞こえない

なんせ「樹の実を撒く事」を解決策として認識しているからそれを実行すること以外に正義が無いと思っている。

そして、「止めるべき」と言う判断には「悪意のない人をイジメる悪人でウザ絡みしてくる人」と言う評価をされる。
「良い解決を必死に悩んでいる」人は熊にも、森にも、人にも配慮を込めて思い悩んで答えを探しているはずなのに。

結果的にその人たちの誠意を「熊を加害する悪意」と見誤る


これが今回のマフィンの件でも言えることだと思う。

 

まとめると下記の二点

1. 悪意の有無と言った単純な事では片付けられない
2. 無責任な擁護は結果的に人を殺す事になりかねない