古い本ですが、興味深かったところをメモっておきます。
仏教における顕教と密教
焼失した法隆寺金堂の障壁画の、装飾的群像にみられる一種の装飾的完成をどうみるか。この四方四仏に囲まれた金堂内部に入った私たちは、この空間とどのような関わりをもつのか。古美術研究の考古学者としてではなく、信仰に近い情感をもって、創建当時、ここに足を踏み入れた人間を想像した場合。
これらの諸仏は、たんに、仏個人を示しているのではない。金堂内部が浄土空間そのものなのである。
これを装飾壁画と呼ぶことはできない。ゴチック伽藍、東照宮、二条城など華麗でときに過剰でさえあるあれらの装飾的空間の中心は、あくまで人間にある。装飾というものは部分で会って、それ自体で人間抜きの全体的空間を成立させ得るものではない。
一方、エジプト古墳の死者の部屋や、法隆寺金堂の浄土空間は、人間が存在していなくて、十分に充足した空間なのだ。むしろ、人間を拒む空間なのである。
これが、顕教的浄土空間なのである。
( 続きは改めて…)