【3.14.午後】

福島の友人、じょにさんが体育館を去りしばらくすると
第三中学校の体育館の避難者は
益々増えていき、足の踏み場が無くなった。

そんな時、近くに座って居た女性が
「タクシーが来たので私、そろそろ行きますね」
と言った。

この環境が苦手らしく親戚の家までタクシーで向かう事にしたと彼女は言った。



その手があった。



あまりモタモタしていてはタクシーも燃料がなくなるかもしれないと思い、
早速、体育館に居た職員に尋ねた。

すると、直ぐに頼んでくれるという。

とりあえず、福島のじょにさんに「今から向かう」と電話をしようと思ったのだが繋がらない。

もう、こうなったら明日まで待たずにじょにさん家に向かおうと思った。

子供達に意見を求めると
大賛成だった。

体育館で会った親戚や友人達に別れを告げ、私達はじょにさんの家へ向かった。

聞いて置いた住所を運転手さんに告げると
10分程でじょにさんの自宅に到着した。

呼び鈴を鳴らす。

「・・・・・。」

「あれ?留守かな?」

ドキドキしながら待って居たらドアが開いた。

「明日って言ってたのにもう来ちゃったの?まだ、掃除中だよ」

と、驚くじょにさん。

私はホッとしながらも、図々しく

「掃除ならするから。とりあえず入れて」

と言って、子供達を押し込んだ。



じょにさんとの出会いは20年以上前になる。

その当時住んで居た阿佐ヶ谷に「GANG STAR」と言う老舗のblues barがあり、
じょにさんはそのお店のマスターだった。

狭いスペースにはbluesが詰まっていた。

とても居心地の良い店でいくと必ず深酒をしたものだ。

酔が回り、悩み事や愚痴なんかをこぼしても、嫌な顔ひとつせずに聞いてくれて、いつも励ましてくれた。

ところが、ある時じょにさんは家の事情で実家に帰る事になり、福島市で「なまず亭」と言う名前でお店を再開した。

当時、東京で商売をしていた私は、じょにさんが遠くにいってしまうのがとても寂しかった。

しかし、それから数年の後、
まさか自分が福島県の浪江に移り住むようになるとは。

人生とはわからないものである。



浪江に移り住んでから数回なまず亭に行った。

じょにさんに会うといつでも阿佐ヶ谷の頃の自分に戻れるのが嬉しい。



避難中という特異な環境のなかではあったが、こんな時にでもじょにさんは本当に頼りになった。

じょにさんの家はとても立派な洋館風の佇まいで、愛猫と二人暮らしをしていた。

おそらく、いつも静かに音楽を聴きながらのんびりと過ごしていたであろうこの館に、
中学生2名と小学生1名、中年女1名が転がり込んだのだから
それは、迷惑だったろうと思う。

本当に申し訳なかったが、他に頼る当てもなかった。

じょにさんの家のご仏壇にご挨拶をしょうと思い写真を見る。
とても上品で優しそうなお顔で、安堵感がこみ上げた。



「騒がしくてごめんなさい。しばらくお世話になります」



2階にあった大型のテレビを1階に移したり、避難生活を快適にしてくれようと、じょにさんは動き続けた。

「何か使えるものがあるかもしれないからお店に行ってくる」

と、歩いて出かけて行った。



子供達は慣れない環境に疲れていた為、直ぐに布団で横になった。

ようやく落ち着いたので部屋を見渡すと、地震の影響が其処此処にあった。

電気は来ていたが、水道は止まっていた。
しかし、運良くここには井戸があった。

しかし、放射能の影響が怖く、飲み水にするのは憚られる。

ミネラルウォーターは数本あったので、翌日まではもつだろう。

ここではiPhoneが使えたので、H君のご家族を探す為に色々調べた。

役場、避難所、友人、パーソンファインダー、様々探して見たがどこにも見当たらなかった。

テレビでは相変わらず煙をあげる福島第一原発と、ACのCMが流れ続けていた。



to be continued...