今回書く事柄はとても辛くてどう書き表したらいいのかわかりません。
それは「家族間のトラブル」について。
新聞などでも取り上げられる程
今回の災害で家族間のトラブルが問題になっています。
我が家でも突然訪れた感情のぶつかり合い。
思い出すのも辛いです。
ここに登場する人々に悪意など全くない
あるのは「恐れ」と「不安」だけ。
そんな中、人間の心理と言うものは、驚く程にストレートで純粋に本心だけがさらけだされます。
これを読んでくれている人達に「非常事態は家族間にいろんな感情をもたらす」と言う事を知っていただきたいと思い
苦々しい記憶ですが、そのまま書きます。



【3.13. むき出しの恐怖】

「ひなた」では夕食の最中だった。

看板メニューのビーフシチューが食卓に並んでいた。

お腹は空いていたはずなのに、あまり食欲がない。

ここの息子さんが帰ってきたら川俣の避難所で人探しをして、その後は福島の避難所に送ってもらおう。

しかし、避難所の連絡先も場所も分からない。

役場はもちろん、人伝てに聞いた電話番号は通話中。
「ひなた」の固定電話もかかりづらい。

大抵の情報はiPhoneで得られるのに、この時は全く使えないのでイライラしていた。


食事が終わって間もなくの事だった。

パッと明るくなった。

「おー!来た来た!やっと電気がついた!」

誰よりも義父が喜んだ。

それからは、お祝いだと言ってビールが出て来た。

乾杯の後、皆で談笑。

そんな空気の中、私は切り出した。

「ここの息子さんに福島まで送ってもらいたいと思ってます。車に乗り切れなければ子供だけでも良いから。こうしている間にも汚染されて居るかもしれない」と。

しかし、義父はそれに反対した。

汚染なんかされていない。
大丈夫だと。

翌朝、役場の人に迎えを頼むからそれに乗って行けば良いと言った。

しかし、私の脳裏には農協前で降ろされ途方にくれた事や、
役場の人は皆とんでもなく忙しい事、
もし迎えにきてくれなかったら、、、など、
いろいろな事が思い浮かび
「そうします」とは言えなかった。

義父はとても真面目で頑固な昔気質の人だ。

しかし、誰よりも人情があり、いつも家族の事を一番に考え、心優しい面もある。

浪江町役場で定年まで立派に仕事をし、町の人からも信頼されていた。

私はあの時、何故
義父の言うとうりにしなかったのだろう。

目に見えない放射能の恐怖から
子供達を守りたいと言う一心だったのだろうと思う。

もし、あの時
スピーディーが公にされていたら、恐らく皆で山を降りる事を決めただろう。

少なくとも子供だけは。


夜10時をまわって
「ひなた」の息子さんが帰ってきた。

燃料を仕入れるのに相当苦労したらしい。

翌朝も早朝から並ばなくてはならないので、すぐに福島に引き返すと言う。

車は小さいが私と子供3人は乗れると言ってくれた。

私は、皆の意見を聞いている暇がないと感じ、子供達に急いで支度をさせた。

義父母は、大声でそれを止めようとする。


「自分だけ助かれば良いと思ってんだべ!!」

「あいつは、言い出したら気かねぇ奴だ」

「ほっとけ!!」

「冷たい奴だ」

「見殺しにする気か!!!」

私は涙が出た。


あんなに優しい二人が
そんな事を言うなんて思ってもみなかった。

すると傍に居た長男がキレた。

何を言ったかは覚えていないが

義母は立ち上がって興奮して居た。

私には、迷いは無かった。

「自分が助かれば良いと思ってる」

「見殺しにする」

と言うセリフは、放射能を知らないからだ。

50歳を過ぎていればすぐに影響はない。

しかし、放射能を知らない人達と居ては子供が危険だと思った。

唇を噛んで悔しさを抑える。

(なんと言われても構わない)

心の中で繰り返した。



主人と福島で落ち合う約束をして車に乗り込んだ。



後日、「あの時は悪かった」と
義母から電話があったが
私はまだ、あの時の恐怖が忘れられない。

なるべく明るく接しようとするのだか、あの時を思い出して胸が苦しくなる。



誰も悪くない。



全ては原発が悪い。



原発が憎い。




to be continued...