【3.12. 脱出への不安】

夕飯のおにぎりが届き
今度は全員に行き渡った。

食後に友人と話し合う。

こんな事故になって
これからの移動をどうするか。

爆発から、避難所を後にする人も居た。

友人一家の結論は
「様子を見る」と言うことだった。



私は怖かった。



更なる爆発や被害は簡単に想像がついた。

そうなった時に
足もなく避難していることで
他の人達に取り残されてしまうのでは無いか。

バスに乗っていたのはお年寄りばかり。

放射能を受けて甲状腺癌や奇形になったチェルノブイリの子供達の画像が浮かぶ。

「いざとなったら、子供達だけでも遠くに避難させて欲しい」

友人や周りの人にお願いをしてみる。

しかし、車に空席は無かった。

この時の絶望感は今思い出しても震えがくる。

アウシュビッツの強制送還のようだった。

朝、言われるままに避難して
親子や夫婦が引き裂かれ
これからどこに行くのか
全くわからない。

たどり着いたのはガス室ではなく、放射能汚染。





不思議なことに夜になってからiPhoneが使えるようになった。

ネットに繋ぎ
川俣で「ひなた」と言う飲食店をやっている叔父宅の電話番号を調べた。

検索中に寸断されたのだか
どうにか電話番号だけは調べられた。

公衆電話で連絡をとってみると留守電だったので避難場所と電話番号を残す。

暫くすると叔母から集会所に電話が来た。

迎えに来てくれると言う。

電話の向こうの叔母の声から
とても心配している様子がうかがえる。

どうやら、義父母も「ひなた」に来て居るらしい。

それまで張り詰めて居たものがフッと切れた。


深夜近くになって
集会所に叔母と義母が迎えに来てくれた。

バタバタと次男の親友一家に別れを告げる。

何故か涙が溢れて来て止まらない。

先に避難所を出るのはとても悪いことをしているような気持ちになった。




tn be continued...