寛大さというものは美徳とされているが、この前、

気づいた事があった。一見寛大さに見える態度に、

場合によって自信のなさのようなものが隠れている

事がある、と思った。何かを受け入れる、承諾する、

引き受ける、気にしないといった態度は、相手の

そういった要求を、寛大さからではなく、断れないから、

波風を立てるのが嫌だから、といった消極的な態度

で寛大さに似た態度をとる場合があるのではない

だろうか。

優しさについても同様で、これは私がそうなのだが、

優しさは、義務感から派生している場合がある気がする。

たとえば、接客態度が良く、優しい対応をしてくれる

店員は、それが報酬をもらう事に対する義務感からくる

場合がないだろうか。私が中学一年の時で、学級委員と

いうものをやらされた時、クラスで嘔吐した人がいた。

誰も何もしなかったが、これは学級委員の仕事かと

思い、私はその吐瀉物を雑巾で拭いた。これはちょっと

話の筋と違うが、完全に義務感からだった。

優しさに見える義務感というものは、もしかしたら

少し想像しにくいかもしれないが、その義務感は、

強迫観念めいたもので、普通の義務感では優しさに

見えるものは。。もしかしたらあまり気づきにくい

かもしれない。しかし、その強迫観念めいた義務感を

持つ人は、恐ろしく生きづらい人だと思う。