世界を旅すると、壁の反対側にいる新しい世界と出会う。同時に異なること・共通することにふれることを通じて新しい自分を発見する。四方を海に囲まれる日本風に言えば、海を越えた世界と自分といえるだろうか。しかし世界の多くの国は、陸続きの国境を持つ国がほとんどだ。

エルサレム旧市街全景
 


イスラエルとパレスチナの国境チェックポイント

威圧感ある分離壁
2017年8月、僕はイスラエルとパレスチナを訪れた。2ヶ国とも初めての訪問だ。この2ヶ国の国境には、イスラエルが築いた高さ8mに及ぶ分離壁が国境に沿って建てられている。万里の長城のようと言いたいところだが、そんな威風堂々というよりは、その異様な威圧感と言ったほうが正しい。イスラエルがパレスチナ側を監視する刑務所のようだ。いかにお互いが仲が悪いかが手に取るようにわかり、緊張感が漂う。実際、パレスチナ側からイスラエル入国する国境のチェックポイントで武装した係官に聞かれた質問は「武器は待っていませんね」だ。以前、冷静崩壊後にベルリンの壁を訪れたことがあるが、そこは既に過去の遺物であり、メモリアルとしての壁だった。しかし、ここは生きている壁だ。

分離壁のパレスチナ側にはたくさんの落書きがある

壁のもう一つの顔
元々僕がイスラエルからパレスチナを訪れたのは、戦場カメラマンになりたいからではない。普通に観光をしたかったからだ。パレスチナにはベツレヘムというイエス・キリストが誕生した町があり、キリスト教信者の聖地であると同時に、実は世界中の観光客が訪れる一大観光地なのだ。特にイエスが誕生した馬小屋のあった洞窟の上に建てられたと言われる聖誕教会では、多くの観光客が大型バスを連ねてイスラエル側からどんどんやってきている。こんな風景を見ていると、紛争を起こしているとは到底思えない。
またイスラエル人ドライバーが気を利かしてか、壁画のように描かれている分離壁のある場所までわざわざ見せに行ってくれた。不安でドライバーに聞いてみると、「全く問題ない、面白いと言って観光客がよく訪れている場所だから」だと言う。壁自体が観光対象になりつつあるのだ。


壁の意味を改めて問う
壁は何のためにあるのか。海に囲まれた日本人にとって国境の壁にはどうも違和感があるが、敵からの防御のための最もわかりやすいのは城の壁であろう。基本的に壁は、防御のための機能だ。しかし、壁とは物理的な防御という意味だけでなく、心理的な壁を表現したものでもある。壁をつくることは、情報を遮断することでもある。壁をつくることで、失うことがあることもまた事実なのだ。同じような議論は、東日本大震災における津波の被災地でもある。津波の脅威から守るためにもっと高い防潮堤を海岸に築くかどうかという議論だ。こうした問いは賛否両論ある難しい課題だ。しかし、僕は常に世界の波打ち際と常に接して自分を開いておきたいと思う。壁をつくらず、世界の波うち際に自分を開いておくことは、とても怖いし、危険のように思う。でも、自分の殻に閉じこもっていては、世界と対話する機会をなくしてしまう。「進撃の巨人」を思い出す。壁は防御することはできるけれども万能ではない。自分は変わらずとも、世界が変われば壁は役に立たなくなるのだ。外の世界を知ることは、自分の身の丈を知る大切なことなのだ。

パレスチナにあるイエス生誕の地ベツレヘム

今回の旅で、イスラエル人とパレスチナ人の国際結婚も現実としてあること、イスラエルがパレスチナの貧困家庭を支援していることを聞いた。また今回の僕の旅は、ユダヤ人(イスラエル在住)ドライバーとアラブ人(パレスチナ在住)ガイドの組み合わせだった。モーセの十戒や天使ガブリエルの神の啓示など逸話が新旧約聖書とコーランにも書かれていて、元は同じ根から芽吹いた宗教であることを知った。似通った料理をみんな食べている。対立だけでなく、たくさんの共通点や協力の姿を知ることができた。

分離壁が恐怖の壁でなく、平和の遺産となり、世界中の人々が自由に訪問し合えることができれば、旅が平和をつくることの証明になるかもしれない。
(以上)