10
ノースホルト基地を出たグレーのセダン、フォード・コルティナ・MK2は、直後に北環状道路A406に入った。片側一車線、ところどころ二車線の半ば田舎道を走る。スーツの男性が二人。ハンドルを握っているのは若い方だった。
「ジェフ、結構な田舎道ですね」そう、声を掛けたのはブラッド。ブラッドリー・オブライエン。三十八歳、作戦部所属、特別活動部・作戦担当官。所属はCIA。
「中西部と変わらないよ」
ジェフと呼ばれた年嵩の男は、神経質そうに呟いた。きょろきょろと辺りを見回し、痩せぎすで、如何にも胃の悪そうな顔をしている。ジェフリー・キンバリー。四十二歳、広報局、特別対外渉外担当・副局長。所属はNASAだ。
意外な組み合わせの米国省庁勤めコンビは、初めての共同作戦のため、ここロンドン西部に降り立った。
「まだ時間あるけど、どうします? どこかで食べますか?」オブライエンはハンドルを操りながら、そうたずねた。
「こんな時に良くそんな………食事の話なんて」そう言ってキンバリーは左の脇を擦った。ルーマニアの怪物のように落ちくぼんだ目が、バックミラー越しに睨んでいる。オブライエンは形のいい眉を持ち上げ、ニヤリと笑った。
「緊張しないで、ジェフリー。今回は人が死ぬような作戦じゃないから」
古いガソリンスタンドが通り過ぎ、赤いポストが目を引く。オブライエンは鼻を鳴らすと、相手の沈黙を受け入れた。
「ま、あんたらが焦るのは判りますがね」オブライエンはコンパートメントの煙草を一本引き抜き、シガーライターで火を点けた。
「スプートニクからこっち、世界初では、ことごとく負け続きだ。ガガーリン、女性宇宙飛行士、宇宙遊泳。………アメリカは、いつからソビエトの後追いを?」
「うるさい諜報部員だ」キンバリーは、苦虫を噛み潰したような顔で、呻いた。
ブラッドリー・オブライエンは、自信たっぷりに運転した。サラサラの金髪、白い歯、女好きのする甘いマスクが、ライトグレーのスーツに映えている。真っ白いワイシャツの下には、トレーニングされた引き締まった肉体が包まれているのだろう。ハイスクールでは野球か、フットボールで汗を流したタイプだ。ネアンデルタール遺伝子多めの優男。三十八歳と紹介されたが、遥かに若々しく見えた。自信に満ち、己の在り様に満足している。………それは、そうだろう。この歳でCIA作戦部所属、特別活動部・作戦担当官を任されているのだから。酸いも甘いも潜り抜けた、場数を踏んだ経歴は、この任務においてもキンバリーより上の立場だ。ブラッドの話し振りがあくまで敬語であるのは、年長者への配慮、ということだろう。それが余計にキンバリーを落ち込ませた。
「国家の威信がどれほど重要か、君はわかってない」キンバリーは吐き捨てるように言った。オブライエンは乾いた声で笑った。
「いやいやいや、そんなことない。だからこうして動いてるんです。ジェームズ・ウェッブが何を言ったか知らないけど、うちに届いたオーダーは、もう少し時間が欲しい、でしたっけ?」
「だから?」と、キンバリー。
オブライエンは、まるで天気の話でもするように言った。
「コロリョフは、いい感じに片付いたでしょ?」
キンバリーは両目を見開いた。ソ連の宇宙開発の総帥セルゲイ・コロリョフ。先日一月十四日に大腸癌の手術中、予期せぬ合併症(心肺停止)により死去した。
ひょっとして、こいつら? キンバリーは、隣で微笑む若造を睨んだ。
「時間は、作りましたよ」と、オブライエン。
キンバリーはうつむいたまま、口元を押さえる。
「………そうなのか?」
オブライエンは軽く肩をすくめた。
「国家安全保障上の措置、ってやつです」
そこでオブライエンは眉間に皺を寄せると、煙草の灰をはたいた。
「ま、でも、ルナ9号が二月三日に月面軟着陸を成功させてる。だから、うかうかはしてらんない、ですよね? ウチとしては、今、N1ロケットの件で別チームが奔走してますから、ま………大丈夫でしょうけど。時間は十分ありますよ」
オブライエンが思うに、作戦が始まって約七十二時間経つが、胃の悪そうなヴァンパイア、ジェフリー・キンバリーを評すると、この男のNASA所属、広報局、副局長という肩書は、多分、本意でない。紆余曲折した人生の結果であろう。
理系の技術畑の人間が外交官的立ち位置でキャリア上昇する。これは本来の職責で挫折したことを意味している。二十代で結果が出なければ、研究職は無だ。無論、広報にも理科的知識は必要だが、それは繋ぎの概略に過ぎない。
キンバリーは高いプライドから、副局長を冠している。が、向き不向きで言うならば恐らく、後者であろう。押しに弱く、神経質。駆け引きにも不慣れ。恐らくその席次は、家柄や、そうしたバックボーンの上に積み上げられたものに外ならない。
精々、作戦の邪魔にならぬ様、逐一、目を光らせねば。
「NASAとしては、官民の協力について、どうお考えで?」そう、オブライエンは問うた。
キンバリーは爪の端を噛みつつ、
「元々MGMには、これまでも資料提供に関するパイプがある。三十五年先の正確な、技術的未来予測が欲しいということでね」
「ほう? その未来って言うのは、宇宙計画も、ですか?」と、オブライエン。
「いや。宇宙計画について、が、本望」と、キンバリー。
オブライエンは小さくうなずいた。
「それはそれは。………貸しは十分あるってことですね?」
「ウーム………」
「じゃ、しっかり払ってもらいましょうか」
ロンドン北部の典型的な住宅街を抜け、A1を北上し、エルストリー、ボアハムウッドの出口へ。牧草地が広がり、馬が放牧されている。道路脇に古いパブが見えた。シェンリー・ロードに入ると商店街が現れる。魚屋、肉屋、仕立て屋、薬局にハンバーガー店。小さな映画館も見える。
そして目指す先に、巨大なスタジオの外壁が見えて来た。フォード・コルティナが、MGMの巨大なゲート前に停車する。
制服姿の守衛は新聞を読みながら、 アメリカ人らしい二人をちらり見た。
「どちらへ?」
オブライエンはブリーフケースから書類を取り出すと、愛想良く笑った。
「オブライエンとキンバリー。ステージ3に予約してある。キューブリック氏と十五時に面会だ」
守衛はざっと目を通すと、クリップボードを差し出した。無言でサインするオブライエン。守衛は入館証を二つ手渡すと、小さくうなずいた。ゲートの解除ボタンを押す。
「ハリウッドに、ようこそ」
ステージ3は、ライトグレーのコンクリート・パネル、所々補修跡のある波型スチールに覆われていた。木材の匂いをまとった大工、照明技師、ケーブルを運ぶ若いランナーたちが動いていた。入り口に嵌め込まれた「STAGE 3」のプレートが見える。
「入ったこと、ありました?」と、オブライエン。
「何が?」と、キンバリー。
「夢の制作現場」
軽口を叩くオブライエンに、キンバリーは首を振る。
古いケーブルのゴム臭がした。床は黒塗りのコンクリートで、ところどころにペンキの飛沫や、過去作品の痕跡が残っている。
二人は北側の壁際に進んだ。すると木製の仮設壁で区切られた小振りなオフィス・スペースが見えてくる。倉庫に置かれたプレハブ小屋。薄っぺらな扉には「Mr. Kubrick」と書かれた差し札が。オブライエンはキンバリーを振り向き、合図した。
「キューブリックさん、お忙しいところを。………ブラッドリー・オブライエンとジェフリー・キンバリーです」
アポイントは社の最高経営責任者を通じて入れてあった。二秒待って、くぐもった返事が返って来る。
「どうぞ」
オブライエンは爽やかに微笑みながら、仮設事務所の戸を潜った。デスクの向こうに、スーツ姿のユダヤ人が立っている。スタンリー・キューブリック。米国の新進気鋭、若手映画監督の一人である。資料によると三十七歳だが、随分大人びて見えた。やけに顔が青いのは、髭面と昼夜逆転の生活によるものだろうか。
デスクには資料、万年筆、ガラスの灰皿が目に付いた。細巻シガーの吸いさしが二本。レンズの仕様書と何かの計算式が並べてある。後ろのホワイト・ボードにはスタッフのスケジュールが貼り出されていた。端っこに黒い板のようなスケッチがテープ留めしてある。立方を表す三つの辺には、それぞれ1、4、9と記してあった。
キューブリック氏はオリーブのような目で、男たちを確認した。キューブリックはキンバリーに注目した。
「何かと思えば、政府筋ですか。………追加の資料か何か?」
「えっ? 何です?」と、聞き返すキンバリー。
キューブリックは顎髭を擦った。
「この間の、資料提供の時はいなかった。あなた、NASAの方でしょ?」
「そうですが………どうして?」
キューブリックは人差し指を回し、指摘した。
「スーツがちょっと。元々、内勤でしたか?」
キンバリーは目を泳がせると咳払いした。キューブリックはゆっくりうなずき、オブライエンの方を向いた。
「あなたは別ですね、上着がゆったりしてるから。帯革ですか。FBI? それともCIA?」
オブライエンは眩しそうに目を細め、握手を求めた。
「さすがは鋭い、監督。私はCIA所属です。CIAのオブライエン」
キューブリックは覚めた口調で言った。
「身分証など?」
オブライエンは一ミリも表情を変えずポケットを探った。
「外勤工作員は、持たないのが決まりでして」
差し出したのは、USIS 文化交流職員、アメリカ大使館発行の職員証だった。
「フム」
キューブリックはカードを見詰め、右手を握り返した。善意も悪意も感じられない湿った手。単なる握手だった。
「NASAとCIA? 珍しい組み合わせですな。ひょっとして映画製作にスパイ嫌疑でも掛かりましたか?」と、皮肉にキューブリックが言った。
オブライエンは両手を広げると、オーバーに驚いて見せた。
「いやいや、まさか。………それよりも監督の『星々の彼方への旅』、テスト映像、見ましたよ。思った以上に凄い。本物みたいだ」
キューブリックは眉を持ち上げた。
「どこで入手を?」と、言い掛けて言葉を呑む。「そうでしたな、CIAならお手の物だ。それと………『星々の彼方への旅』は仮のタイトルです」
「そうですか。ひょっとして………クラーク氏のアイデア?」と、オブライエン。
「ウン、まあ………」キューブリックは言葉を濁した。それをオブライエンは鼻で笑う。
「少しダサい。ですよね?」
キューブリックはオブライエンの目を見、きっぱり言った。
「彼は、映画の専門家じゃない」
「パートナーの悪口は、言わない主義ですか?」と、茶化すオブライエン。キューブリックは目配せし、たずねた。
「本題を、どうぞ」
キンバリーが前に進み出る。
「私が」
キューブリックは、二人に椅子を勧めた。
キンバリーはしばらくの間、頭の中で問答を続けていたが、思い切って口火を切った。
「キューブリックさん、先だってお渡しした資料で、NASAの現状、宇宙計画について、は、ご理解頂いてると思います」
キューブリックはうなずいた。
「マーキュリー計画が終わって、今はジェミニ計画ですよね?」
「そうです」と、キンバリー。
キューブリックは記憶を紐解き、続けた。
「ジェミニ8号は今年の三月十六日、初のドッキングに成功。アジェナ標的機でしたかな。ただしスピン事故を起こし緊急帰還した。太平洋、沖縄近海に三月十七日緊急着水」
キンバリーは同意する。「原因はジェミニ本体の姿勢制御スラスターが短絡し、常時噴射状態になっていた」
「なるほど」
キンバリーが続けた。
「ソビエトは無人探査機ルナ9号で二月三日、月面軟着陸を成功させてます。この流れで行くと、早々に有人月面着陸もあり得る」
そこでオブライエンが横槍を入れた。
「これは分の悪い競争ですよ。今のところアメリカは宇宙で世界一を取れてない。冷戦の最中、これは西側諸国の威信に関わることだ」
キューブリックが首を傾げた。
「それって、ケネディが言い出したことでしょう? ソビエトに大見え切ったのは、アメリカの方だ。言い出しっぺは、自分でケツを拭かなきゃ」
キンバリーは黙り込んだ。ハンカチを取り出し、額の汗を拭う。
何なんだ、この男? 表情が読めないぞ。キューブリックの下瞼は、陰険に暗い影を落としている。アメリカ人であって生活の中心を英国に置くというのは、つまりそう言うことなのか? リベラル? それともグローバル感覚? どいつもこいつも、自国の威信と言うことを完全に忘れてしまっている。キンバリーの顔が赤黒く濁った。
「全く勝算がない、ってことでも、ないんでしょう?」
意外にもキューブリックは、楽観的に呟いた。映画人としての希望は、こうだ。
「私としては、三年後にアメリカが月面着陸してくれれば御の字。映画のマーケティングを考えると、ね」と、キューブリック。
「ごもっとも」オブライエンが納得する。
キンバリーは僅かに溜飲を下げた。
「それは………そうですね。我々も今、確実にソビエトを追い上げているんです。ジェミニ計画は年内いっぱいで、来年からはアポロ計画に移る。本格的に人を月に送り、探査し、安全に帰還させる。そこを目指すんです」
キューブリックは、あやふやにうなずいた。
「頼もしい限りだ」
オブライエンはポンと両膝を打つと、立ち上がった。
「政府も国民感情も、NASAに対して全幅の信頼を寄せていますよ。アメリカが初の月着陸をするのは間違いない。ただ………」
「ただ?」キューブリックは眉を顰めた。
オブライエンは、サラサラの金髪を掻き上げ、言った。
「最悪なシナリオに転んだ場合、それに対処する必要はあります。これは国家安全保障上の措置ってやつです」
キューブリックは、ため息を吐き、細巻のシガーを取り出すと火を点けた。
「それで、あなたの出番ですか? USISのオブライエンさん?」
オブライエンは、訳知り顔でウインクした。
「保険、みたいな?」
「保険ねえ………」と、キューブリック。厄介ごとの匂いがする。トップ同士の、政府絡みの案件だ。何を言われるか見当がつかない。
もじゃもじゃの髭を擦りながら、キューブリックはたずねた。
「で? その場合、私にどうして欲しいと?」
オブライエンは俄かに身を乗り出した。
「万が一、アポロ計画が頓挫した場合、それでも米国の優位を示す必要があります」
「それが?」と、キューブリック。キンバリーは息を飲んだ。
「アメリカが先駆けて有人月面着陸した様子を、演出してもらいたい」
そう、オブライエンは言った。
11
英国滞在一週間目にして、ついに兵頭薫子が音を上げた。
「ああー、もう。魚フライなんて見たくもない!」
男子二人も納得。英国料理の問題は味付けではなく、ヴァリエーションの単調さにある。まあ、そこそこお金を払えば、美味いものも食えるだろうが、安宿泊りの見慣れない日本チルドレンが、豪遊してたら奇妙だろう。
三人はカーティスから借りたアストン・マーチンで、コヴェント・ガーデン市場まで買い出しに出た。兵頭の目的は、何が何でも中華食材を手に入れる、である。外国の食事がこんなに辟易するとは思ってもみなかった。
焼き餃子を作る。兵頭の頭は、それで一杯だ。キャベツ、豚挽き肉、小麦粉、強力粉は手に入れた。意外だったのは一九六六年の英国でニラが買えないということである。兵頭は市場で犬の様に嗅ぎ回ると、スプリング・オニオンとガーリックを入手した。スプリング・オニオン、どうやらこれは分葱のことらしい。代用になるだろう。醤油、ごま油、ラー油に関しては、ソーホーの中華食材店で見付けた。ついでに小さめの麺棒も購入した。
常宿のウィロー・レーン・ゲストハウスの女将に頼み、キッチンを貸してもらうことにした。異国の愛らしい少女が、宿のみんなにふるまう料理をしたい。そんな美談を断る輩は、そうそうおるまい。
兵頭ママから娘に直伝、手作り餃子のレシピは以下の通り。
当たり前だが、この時代のロンドンで、餃子の皮は売られてない。なので兵頭は、聖と三ツ島を手足に使って、皮づくりから始めた。ボールに薄力粉、強力粉、塩を入れて混ぜ合わせる。五〇度のお湯を何度かに分けて加えながら、なじむまで掻き混ぜる。生地がまとまったら次は、手ごねだ。聖に手本を見せて、表面が滑らかになるまで繰り返させた。濡れ布巾を被せ、常温で三十分くらい寝かせる。
その間、三ツ島には、野菜のみじん切りを担当させた。キャベツ、スプリング・オニオン、ガーリックを納得いくまで刻ませた。そこに挽肉を加え、塩、コショウ、砂糖、酒、片栗粉、ごま油少々を加えて練る。
この辺りで、およそ三十分。さて。………
いよいよ皮の作成だ。
寝かせた生地のお団子を、打ち粉を振ったまな板に乗せ、二等分にしてそれぞれ棒状に延ばす。一本辺りを十等分に切り分ける。一切れを掌で押さえ、まず三~四センチに伸ばしたら、それを左手で回しながら真ん中に山を作る要領で、麺棒で中心に向かって押し延ばしていく。焼き餃子なら、大体十センチが目安。
数十枚分の皮が出来上がったので、三人で包んだ。餡を入れ、端を濡らしたら、タックを寄せて閉じて行く。
三ツ島は驚くほど手際が良かった。聖は、まあまあ。兵頭は母親仕込みの、腕の良いシェフである。
包んだ端から女将に借りたフライパンに、お花を描くよう並べていく。大事なのは、隙間なくきっちりと並べること。
兵頭はフライパンにサラダ・オイルを引くと、強火に掛けた。いい感じに焦げ目がついたら中火にし、餃子が底から三分の一浸るくらいの水を入れて蒸し焼きにする。
すっかり水が飛ぶまで焼き上げる。フライパンに皿を乗せ、エイヤッとばかりにひっくり返す。パリパリ羽根付き焼き餃子の完成。
エントランスに長テーブルを出して、泊り客全員で兵頭の焼き餃子を堪能した。大きなフライパンに三つ分。餃子は売るほどあった。全員がお腹一杯。バイク乗りたちは、ビールと共に楽しんだらしい。兵頭は思いがけず絶賛された。
「あんた、料理上手だね。いい奥さんになるよ」
兵頭と聖が、ほんのり顔を赤らめたのは言うまでもない。
部屋に戻った三人は、ベッドにひっくり返った。
「いやー、食った、食った。美味かったよー、兵頭さん」三ツ島は腹を擦りながら唸った。
「ほんとに。ありがとう、薫子」と、聖。
「どういたしまして」と、兵頭。
兵頭はキッチンから持って来た、ラビオリみたく、小さく焼いた餃子を、ビニール袋から取り出した。
「はい、ココルルちゃん」兵頭は、紙皿にミニ餃子を並べ始める。
聖のポシェットからココルルが這い出した。紙皿に近付くと、大きく息を吸い込んだ。
「イイ匂イダ」
「お醤油、お酢、ラー油は、いかが?」
「デハ、醤油ダケ」
兵頭が調味料を掛けてやると、ココルルは大口を開け、むしゃむしゃ食べ始めた。
「ウーン、ヤム、ヤム。………美味シイ」
聖は全員が落ち着いたところで、二人にたずねた。
「最近のデビーの様子、どう?」
三ツ島は頭を掻いた。
「彼女、驚くほど行動範囲が狭いんだよねー。仕事の後はメリルボン・ロードでロンドン・プラネタリウムに入り浸ってる。相変わらずだよ。後は、お酒の出るお店とか………踊るとこ? 未成年の僕には入れないけど、ね」
兵頭は、がっつくココルルを眺めたまま、呟いた。
「私も一緒よ。彼女の買い物はワンパターンで、いつも行きつけを回ってる。知り合いは何人かいるみたいだけど、重要な対面はなし」
聖も同意した。
「俺も、大体そうだな。………カフェ・オライオンのデビーは毎日仕事して、シンディとお喋りし、時々ポールが話しに来る」
そこで兵頭が厭味ったらしく突っ込んだ。
「可愛いお姉さんたちと、仲良くなれた?」
慌てて聖が否定する。
「あるわけないでしょ。カーティスに頼まれたのは監視だ。これは隠密行動なんだから」
「へえー………」兵頭が白けた感じで目を細める。
そこで三ツ島が声を上げた。
「はいはい、そこまでだ、仲良しさん。………君たちも飽きないねえ」
「………」
聖はムスっとして、首を捻った。
「デビー、何、考えてるのかなあ?」と、聖。
三ツ島は、ぐるりと目玉を回した。
「生真面目、キッチリさん、なんじゃね?」
そこに、兵頭も同意した。
「そうよね。既製服のサイズ直し頼む人、私、初めて見た」
聖は眉を持ち上げる。
「ダグ・トランブルがナンパした時も、軽―く、いなしてたしね」
兵頭は面白そうに笑った。「えーっ、そうなんだ。デビー姉さん、カッコいい」兵頭は、聖と三ツ島に聞いてみた。「そういうの、男子的には、どう?」
「カッコいいと、思いまーす」声が揃った。
聖は一つ咳払いすると、話題を軌道修正した。
「カーティスの話だと、デビーはスコラ・ニューヨークを破壊して、プロクシマ・ケンタウリまで行ったんでしょ?」
「で、返り討ちに合って、六六年のイギリスに逃げて来た」と、三ツ島。
「タイム・ジャンプを使ってね」と、聖。「直前に模造記憶を入れられて、彼女は自分がドラゴンになったことを忘れてる」
兵頭が静かにうなずいた。
「一度はドラゴンになったってことか? でも、なんで六六年なのかしら? それもイギリスのこの辺り?」
三ツ島が首を傾げる。
「単純に、元の世界に戻ろうとしたんじゃない? ………彼女にとっちゃ、ニューヨークが六五年だから、その翌年ってことで、さ?」
「記憶がなきゃ、二一九六年にいたとは思わないもんね」兵頭が腕組みする。
「俺たちにとって東京は八二年。それと一緒だ」そう、聖が呟く。
ココルルが食事を終えて、話に割って入った。
「インフォスフィアデ、何カ、見タノカモ?」
三人がココルルを振り返った。盛大にゲップするココルル。ニンニク臭い息が、兵頭の鼻先に届いた。
「うへっ」兵頭が鼻をつまんだ。
「失礼」と、ココルル。
ココルルは口元を拭い、三人に向かって言った。
「インフォスフィアニハ、宇宙全体ノ事象ガ、記録サレテイル。ダカラ、デボラガ、一時デモ繋ガッタトアレバ、何カニ、気付イタカモシレナイ」
「それが、六六年?」そう、聖が聞き返した。
「フーム」
三ツ島は控えめに手を上げ、提案した。
「ちょっと、重なってみない?」
兵頭、三ツ島、ココルルは、再び聖と重ね合わせになった。聖の視点がシンクロする。
部屋の印象が広角レンズで覗いたように、大きく歪んで見えた。上を向くのを感じた。一瞬ぼやけ、向かった先に天球が見える。いや、正しくは天球のようなもの、だ。そこに星座はないし、夜空にしては眩し過ぎる。インフォスフィアは、時空間に沈殿した記憶の海洋である。時の始まりから続く、永遠というパラドックスに居座っている。
方向を定め、目を凝らすと、瞬時にピントが合った。その拡大と縮小が、急激な移動を錯覚させる。全員クラクラ。軽い眩暈がした。
無数に浮かぶ光のスリットは、宇宙を構成する質問それぞれに通ずる窓である。ひときわ高いところに(空間折り畳み演算)のポータルが見えた。天空で一番の輝き。まるで冬の大三角、シリウスのようである。聖は(折り畳み)と聞いて、さっき食べた焼き餃子を連想した。(餃子包み、折り畳み研鑽)?
うわ、何それ? こじ付けだし、全然、面白くないし!
気が付くと、食に関するポータルが鼻先に寄って来た。重力に引っ張られる感じ? 聖は慌ててそれを押し戻した。二人と一台の、うんざりした気分が、伝わって来る。
「良太………真面目ニナ」と、ココルル。
聖が、しゅんとなる。
「………すんません」
ココルルは気を取り直し、たずねた。
「デボラノ、ポータルハ、ドウダ?」
言われて頭に浮かぶと、たちまち彼女のポータルが現れた。入口にラテン十字の目印。空間に浮かんだ光るスリットは、固く閉ざされたままだった。
「駄目みたいだね」と、聖。
「本人ガ、拒絶シテイルナ」と、ココルル。
虹色に輝く天球には、複数のポータルが揺れていた。パーソナル・コンピュータさえ、一般的でない、一九八二年からやって来た聖たちには皆目見当もつかなかった。リドリー・スコットがアップル・コンピュータのCMを取るのは、数年先の話である。
聖は、ココルルに耳打ちした。
「ねえ、ココルル。少しは判ったの? この………インフォスフィア?」
即座にココルルが返答した。
「単ナル、メンタルケアグッズノ俺ニ、宇宙ノ真理ガ解キ明カセル、ト?」
ココルルもこういう時は自虐ネタを使うらしい。聖は内心ほくそ笑んだ。
美しいポータルの脈動に、兵頭が感嘆を漏らした。
「すっごーい! 奇麗―い!」
三ツ島の息遣いも聞こえて来る。
「どこから探そうか? とりあえず六〇年代?」
三ツ島が言葉にした途端、輝く(空間折り畳み演算)のポータルが近付いた。スリットが開き、無数の受容体が現れる。聖の位相シールド、金のドラゴンが鱗を持ち上げると、静かに首筋に繋がった。光子の煌めき。情報の奔流が溢れ出す。
ポータルの先に、樹状構造が見えた。宇宙の成り立ちを示す、無限のシミュレーションだ。
「おおーっ………」三人の唸り声が揃った。
六〇年代、その三ツ島の思念をきっかけに、枝葉の一点にピントが合った。事象の断片が、スムーズに拡大される。
記憶に、匂いと感触があった。
初めて知る六〇年代は、世界が多極化へ向かう転換期だったらしい。キューバ危機、ベトナム戦争、文化大革命、プラハの春、宇宙開発競争の激化。冷戦は(米ソの対立)から、(米ソ、欧州、中国、第三世界)の多極的な力学へ変化した。未来への楽観と、既存秩序への反逆が一気に噴き上がった十年。現代世界の原型、全てが出揃ったシーズン。そう言っていいだろう。
「僕たちって一応、六五年生まれだよね?」と、三ツ島。
聖は、ため息をついた。
「知ってるはずの、知らない世界。………デビーは一体、何処に引っ掛かったんだろう?」
「さあ………」と、三ツ島。
二人の疑問を他所に、兵頭は枝葉の脇に、分岐点を見付けた。
「あーっ。みっけ」と、兵頭。
「これがその………いわゆる分岐点?」と、聖。
「ソノ様ダナ」ココルルも同意した。
六〇年代に入る少し手前に、その分かれ道はあった。一九四三年二月。辿って行くと、激化した戦争状態が映る。ココルルはじっと見入った。そして一言。
「ナルホド。コノ世界線デハ、第二次世界大戦ガ、日独伊三国同盟ノ勝利デ終ワッテイル」
「えっ?」と、三ツ島。ココルルが落ち着いた口調で解説した。
「スターリングラードノ戦イデ、勝ッタノハ、ドイツ軍。早期ニ市街戦ヲ避ケ、ヴォルガ川ノ補給線ヲ断ツ作戦ニ徹シテイル。反撃ヲ受ケル前ニ、主導ヲ維持シタ。ツマリ、ソウ言ウコトダ」
聖は、カーティスの言葉を思い出していた。
(時間の本流は、順次分岐している。大きな出来事、重大事が起こる度に)
恐る恐る聖が呟いた。
「それって………フィリップ・ディックが、小説で書いてるよね? 連合軍が負ける話。『高い城の男』で」
兵頭が、たずねた。
「ディックって、『ブレードランナー』の、でしょ? それって、どう言うこと?」
ココルルは慎重に言葉を選んだ。
「達成サレナカッタ世界ノ、エコー。ソレヲ捉エル人間モ、恐ラクイル」
「霊感で?」と、三ツ島。
「言及ハ、止メテオコウ」と、ココルルが言った。
(空間折り畳み演算)の樹状構造を離れる時、もう一度、結節を見た。繋がった枝の片方に、黒いキノコのような突起物が。なんだか、ホンシメジみたい。兵頭は思わず口にした。
「何あれ? キノコ?」
それを見、聖はぞっとした。全ての存在を無にする等価のスイッチだ。
聖は乾いた声で、笑った。
「本当に………あるんだ」と、聖。
「何?」と、兵頭。
「カーティスに聞いたんだよ。あれが、ご和算スイッチだって」そう、聖が呟く。
三ツ島が、茶化すよう言った。
「良太、もったいぶらずに言えよ」
聖は、静かに答えた。
「人呼んで、ブラック・ボタン」
未読の章を知りたい方は、こちら。
小説・『スリック・フィクション』
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