埃でくすんだ頬を一筋の汗が流れ落ちるのが解る。不意に柄を握り締める拳に力が入る。
躯を覆う漆黒の外套は切り傷や擦り傷で破れ、汗や土埃で汚れ、じっとりとして気持ちが悪い。
歩調を進めるが、己が何処にいるかも解らない。四方八方に意識を集中しても、気配を感じることは出来ない。これも一つの修行であるというのか。そう思うと、僅かではあるが心に余裕が出来てきた。
しかし、静寂であるという事は焦燥感を募らせる。いっそグラウ竜の牙に囲まれた修行場の方が楽に感じる。
途端に空気を切る乾いた音が啼く。
咄嗟に身を屈ませ、鋭く光沢を放つ一撃を避ける。視認せずとも、それが刃であることが解る。ソウルメタルの剣だ。
「第七の試練か」
跳躍し闇に潜む剣士から距離を置く。こちらも魔戒剣を構え、迎え撃つ為、待つ。若干の高揚を感じる。
再び乾いた音が響く。振り降ろされた剣を弾く。拮抗した金属が火花を巻き起こす。
一瞬の閃光が剣士の姿を露にする。
闇の中に鋼が浮かび挙がる。餓えた狼が今にもこちらに食いかからんばかりに睨みつける。
魔戒騎士の鎧だ。
ターミナルシティを彩る光沢が眼下に広がる。
極彩色のそれらは企業が出す広告であり、またはビル内に点在するテナントの照明であるのかもしれない。
ただその輝きのすべては人々が生きており、生活の営みを表していることに他ならない。
日を跨ぎ、夜も更けるというのにこの街に一向に静寂が訪れる様子はない。
しばらくの間、離れていてもこの都市の容貌は変わらないらしい。
穿藤英山はその瞬きに目を細めた。
顔に刻まれた皺の数は木々の年輪のように彼が齢五十を越す事を表し、短く切り揃えられた黒い髪にも白髪が行く分か混じっている。
だがその眼光は鋭く、衰えることはない。そしてその肉体は常人ではたどり着くことができない境地を超え、極限までに鍛え上げられている。
超高層ビルの縁で彼は強風に煽られてもなお揺らぐことなく、まるでそこに突き刺さっているかのごとく直立している。
足首まである白いロングコートを身に纏い、左手の中指には銀色のドクロの指輪がはめられていた。
「英山、いたぞ。ホラーだ」
カチカチと金属が軽くぶつかる音とともに英山の指輪が喋る。
魔導輪ガルバ。長年英山と人生を共にしたそれは魔戒騎士が各々に与えられる意思を持った魔導具だ。
彼らはソウルメタルと呼ばれる特殊な金属で精製されており、それぞれ異なった人格を持ち、魔戒騎士と契約することで一生を共にする。
ガルバの言葉に英山はさらに顔を引き締めた。
英山は意を決するとその縁から飛び降りた。
松山航はその日、最高にツいていた。
いやそれは幸運というよりはそれまでの不幸を帳消しにする対価だったのかもしれない。
組織からの借金で首が回らなくなり、返済の期日は翌朝となっていた晩だった。
昼過ぎにバイヤーに依頼されていたフォードのマスタングエレノアが驚くほど安値で取引され、おまけに気分転換で吸ったドラッグも混じり物で彼を昂らせるほどには至らなかった。
薬物の副作用でぼんやりとした頭と眼に新品同様のベンツ・マイバッハが入った。
内装も完全にオーダーメイド、ホイールやタイヤ、いたるところにまで入念にカスタムされている。少なく見積もっても借金返済に充ててもお釣りがくるぐらいであった。
安物ぞろいの立体駐車場に停めるなんて持ち主はよっぽどの莫迦か酔狂な目立ちたがり屋だ。
慣れた手つきで彼は車内に滑り込むとエンジンをまわし、行きつけのバイヤーに連絡をする。
寝起きであることを表すかのようにあいまいな口調での受け答えをしていたが、すぐにでも買い取りさせると漕ぎつける。
クラッチをつなぎ走りださせると、彼は一人口をゆがめ笑みを浮かべた。
俺は今、最高にツいている。
マイバッハのボンネットに深く凹ませ、フロントウィンドウを蜘蛛の巣状にひび割れさせながら英山は大地に着地する。
足に若干のしびれを感じるが、すぐさま体を宙へ浮かせ、距離をとる。
運転席から青年が出てきた。剣幕な顔つきでこちらをにらみ、舌も回らない状態で怒鳴り散らす。
目の焦点が合っておらず、充血している。叫んでいても唾が飛ばず、口は乾燥しているようだ。薬物中毒であることが手に取るようにわかる。
「逃げろ」
青年を見ずに英山は言い放つ。視線は黒く、そして拉げた車体だ。
まだ奴は動きを見せない。
コートの襟を青年がつかみかかるが、軽く払われるとアスファルトに転げ落ちた。
「逃げたほうがお前の身のためだぞ」
今度は左手にいるガルバが青年に言い放つ。
だが、今の彼に指輪がしゃべるという異常の出来事を現実か麻薬が見せる幻覚か区別がつくかは疑わしい。
やはり青年が動じることはない。アスファルトに腰を据えながら喚き散らし続けていた。
それならこれはどうだろう。
目の前のマイバッハが不愉快な金属音を立てながら、その姿をゆがめていく。
どうやら本性を現したようだ。
5mほどの車体がさらに巨大に広がり、そして不自然に立ち上がっていく。
まるでその図体は鐘のようで、そしてその上には女性の顔を模った彫像が乗っていた。
巨大な中世の拷問具、鉄の処女が立ち上がる。
「英山、こいつがアイデン。最後の亜使徒ホラーだ」
魔導輪ガルバが蓄積された知識を英山へと伝える。
魔獣ホラー、この世界とは隔たりの向こう側にある魔界に蠢く怪物たちの総称だ。ホラーは陰我あるオブジェをゲートとして現世に現れる。そして森羅万象に憑依し、その姿を陰に潜ませ、人を食らう。
ガルバとアイデンもまたホラーである。だが、この両者には決定的な違いがある。
それは人間と共存の道を選んだか否かだ。
無尽蔵に人を貪り、荒れ狂うアイデンに対してガルバは魔戒騎士の魂を一カ月に一度だけ食らう。
その代償として魔戒騎士とともに無法者であるホラーを探知し、その知識を与え、時に共に闘い、鼓舞する。いわば共依存でありながら、相棒のような存在である。
ガルバの言葉に英山は戦いに備え、拳を握りしめた。
青年はこの事実に口をパクパクとさせている。気が動転しているらしい。
ようやく現実をのみこんだようだ。
英山は魔法衣から白鞘の魔戒剣を引き抜く。
鋭く光るソウルメタルの刃を鞘から出すと英山はアイデンへと一気に距離を縮める。
魔戒剣が分厚い体で弾かれる。
「こいつの体は並みの攻撃じゃ歯が立たないぞ」
数多のホラーを葬った刃を意にも返さず、さらに反撃を繰り出す動きをアイデンが見せる。アイデンの体が開き、横に広がっていく。
中からは幾多の触手が飛び出してくる。
英山は刹那、青年の前に立ちはだかり、迫る触手を魔戒剣で払っていく。
守りしもの、魔戒騎士はこうも呼ばれていた。
人間を襲う魔獣ホラーから人を守る。たとえそれがどのような人物であってもだ。
魔戒騎士としての本能が英山に反射的にその行動を取らせる。
「英山、魔戒剣じゃアイデンを倒せないぞ」
率直な意見を言うのがガルバの良いところだ。
英山は迫る最後の一本の触手を切り払うと天高く魔戒剣を突き上げ、宙に円を描く。
刃が描く軌跡で光の輪ができあがっていく。
それは魔界と現世をつなぐゲートだ。
だが、そこからホラーが現れることはない。禍々しい怪物の代わりに煌々と神々しい金色の鎧が英山の体を取り巻く。
そして一瞬にしてそれが彼の体に纏われる。
眩い光を放ちながら黄金の狼がそこにはいた。
黄金騎士。魔戒騎士の中でも選ばれた者だけが許される証がその鎧だ。
咆哮をあげると英山はゆっくりとした足取りでアイデンへと近づいていく。
無数に迫る触手が黄金騎士を包み込み、あたりを暗闇に染めていく。
光り輝く剣で闇を薙ぎ払い、英山は道筋を作っていき、ゆっくりとそして着実ににじり寄っていく。
アイデンへと肉薄すると英山はその拳を突き出す。
鋭い音を立てて、アイデンの体が宙を飛ぶ。大地を踏みこむと黄金騎士は一拍置いて空へと舞う。
ソウルメタルは金剛にして、鋭利な金属であり、魂を持った鋼鉄だ。扱うものの心と通じ合い、その重さを変えていく。望めば幾重にも軽くなり、幾重にも重くなる。
数十メートルという高さを黄金騎士は意にも返さず跳び、巨大な獣へと迫る。
無抵抗に投げ出されたアイデンへと刃を振り上げる。
分厚い躯を黄金騎士の剣は意図も容易く、薙ぎ払う。
断末魔の叫びが一瞬上がると、そこには鎧を解いた英山だけが降り立っていた。
ホラーの陰我を断ち切った魔戒剣を鞘へと戻すと、英山は一呼吸置いた。
亜使徒ホラーの討伐、それが英山に与えられた使命だ。それが今ここで終わったのだ。
英山の心にいくぶんか心の余裕ができた。
あとはホラーと魔戒騎士の存在を知ってしまった青年の記憶を消すことですべてが終わる。
魔戒騎士やホラーは影の存在だ。市井の人間がそれを知ることは許されない。
人は自分の力が及ばぬもの、自分の常識を超えたものを拒絶し、恐怖する。ゆえに陰我が増え、そして憑依される人々が増える。
魔戒騎士として、守りしものとして、その掟が揺らぐことはない。
魔法衣から記憶を操作する札を出す。これによって先ほどの戦いを忘れ、何事もなかったことになる。
青年に向き合うも、先ほどの驚きの顔とは打って変わり、非常に冷静にこちらを見つめる。
そしてその顔が不気味に、異様に笑みを浮かべる。
英山が異変に気付いたころには彼を闇が染め始めていた。
何時間、この狼と剣を交えていたであろうか。
獰猛な剣裁きを受けていたのも気迫や体が負い目を感じるまでであった。
擦り切れていた外套はすでに真新しい傷が奔り、そしてそこからは鮮血が流れ落ちている。
数多の試練を乗り越えてきたが最後の試練がここまでに耐えがたく、乗り越えづらいものであるとは思わなかった。
それまでが自分が鍛えられ、心身ともに強くなったと錯覚するための騙しなのではないかと思うほど、目の前の狼は恐れるに値するものだ。
騎士はまた剣を振るう。なす術もなく、ただ単純に死から逃げるために手にした剣を棒きれのように突き出す。
弾かれはすれど押し切られてまた体に熱い奔流が巻き起こる。
痛みに顔をゆがめ、声をあげて呻く。しかし、苦痛がどこに逃げるわけでもなく、全身を恐怖と痛みだけが支配する。
じわじわとソウルメタルの刃が重たいだけの厄介なものになり下がっている。
こうではいけない、立ち向かわなければと自分を鼓舞しても強くなるわけではない。
立ち向かえる力がどこからか湧いてくることも何かが自分を助けてくれもしない。
この暗闇の中で狼と自分ひとり、乗り越えることができないほどの壁とちっぽけな存在、具現化された死と無力に嘆く半ば死人がそこにいるだけだ。
逃げたくなる衝動に駆られるが背を向ければ途端に切り捨てられるだけだ。
できることは無駄な延命作業しかないように思えた。
何をすればいいのか、すべてのものが一寸先の闇に思え、どこに向かうこともできない。
己が困難を撥ね退けることができなければ魔戒騎士になることなど、ましてや誰かを守るものになどなれやしない。
だがそうであっても非力さだけを見せつけられているような気がして心が苦しくなる。
強い決意が自分の中にはあったはずだ。それは今となっては小さな光かもしれない。言い聞かせるように心の中を響き渡る。
守りしものになる。魔戒騎士として戦う道を選んだときに誓った思いだ。
苦しんでいる人々を守る。そこには無限の可能性と未来があり、自己を犠牲にしても守らなければいけないものだ。
自分がここで狼に負けることはこれから先に続く可能性という希望を断ち切ることになる。
守るべき人を救う前に自分を助ける“守りしもの”にならなければならない。
静寂な空間に咆哮が轟き渡る。
一瞬、狼の動作が鈍る。それは雲耀の間だったかもしれない。
だがその隙は立ち向かう絶好の瞬間であった。
握りしめた魔戒剣を渾身の力を持ち、振るう。
狼の反応は鈍ったが、それでも剣で自己を守る。力負けをし、弾かれ、身を揺らがせる。
越えられない壁が崩れかけている。ソウルメタルはもう重くはない。
幾度となく剣を振るっていく。形勢は変わっていた。
胸を支配し、くぐもっていた不安や恐怖は勇気によって晴れ渡り、今は自分が進むべき道がはっきりと見える。
騎士の首元に剣の一閃が迫る。
糸が切れた操り人形のように狼の体が崩れ落ちる。
いつの間にかぼろ衣が巻かれた鍔無しの魔戒剣は狼のそれが持っていた光り輝く強靭な剣に変わっていた。
途端に冷静になり、自分の体もまた変っていたことに気づく。
ソウルメタル自体が放つ鋭い鋼の色が全身を覆っている。深淵の中で再び狼が佇んでいた。
穿藤凌牙が初めて魔戒騎士の鎧を会得した瞬間だった。
久しぶりの日差しに目を細め、手で日光を遮る。
頬を差すつむじ風が傷に染みるが、生きているという実感を凌牙に与える。
振り向いて二対の魔戒騎士を模した彫像に一礼をする。この巨大な門を再び見たのはいつぶりであろうか。長い年数の間をこの世界で過ごしていた気がする。ひょっとすると思っているよりも短い間なのかもしれない。
試練の洞窟を抜け出ると一面に白銀の世界が広がっていた。
雪が吹き荒ぶ霧深い山脈の中にぽっかりと空いた穴のように試練の洞窟はあった。
子供に言い聞かせるおとぎ話や古い書物に記された伝説と思っていたそこにたどり着いたときには様々な思いが胸をめぐっていた。
だが、今は騎士として鎧を持つことができたという実感、喜びが胸を跳ねまわり、またそれと同時に守りしものとして戦いの中に生きるという決意で固まっていた。
脛まで覆う雪を掻き分けて下山していく。
疲労感で体が重いはずであったが凌牙の足取りは軽く、鎧が解けた瞬間から変わった黒い鞘の魔戒剣を麻布で覆って背負っていた。
麓にたどり着くころには黒い革のパンツはもちろんのこと、羽織っていた黒い外套すらも雪にまみれて白く染まっていた。
カバーに覆われたバイクが目に留まる。
雨ざらしにされたことで色は変貌し、皺まみれになっていたそれをはがし取ると真紅のドゥカティ999が現れる。
キーは差しっぱなしにしておいてある。
人里離れたこの地で盗まれることなどまずないであろうと踏んでおいたが、その検討がうまくいったことにほくそ笑み、イグニッションキーを捻る。
甲高い音を立ててエンジンがうなり声を上げる。
動物にすら厳しいこの環境下でまだエンジンがかかるということに驚きを覚えるも、すぐにシートにまたがりスロットルを捻り、クラッチをつなぐ。
暴れ馬のように一気に加速し、キャンバスに落ちた赤い点は一筋の線のように残像を描いていった。
ぼんやりとした空間がそこにはあった。
視界だけではなく、においや音、感覚すらも鈍るそこに凛と彼女は立っていた。
吸い込まれるように美しく、細い肉体は真っ白な布で最小限に覆われ、絹のように流れる亜麻色の髪は揺らめいている。
くっきりとした目は茶色い瞳が大きく、鼻筋はすっと通り、ほのかに赤い頬と唇が白い肌に浮いて目立つ。
憂いの眼差しとため息をついて、手に持った赤い封筒に目を落とす。
この使命を彼に与えたくない。
南の番犬所の神官コーマは忌々しく封筒を祭壇に置かれた小さなテーブルの上に落とす。
彼女の役目は他の番犬所にいるものと同様に魔戒騎士に使命を与えてホラーを狩らせることだ。
見た目以上に年齢を重ね、数千年を他の神官同様にコーマは生きながらえていた。
その長い歳月は各々に様々な人格をもたらす要因になっていた。魔戒騎士を含めた人を道具のように思うものもおり、また今以上の力を求めて闇に落ちるものもいた。
コーマにとって数千年という日々は人をいとおしみ、慈しむことで溢れることになった。
人の命は短い。魔戒騎士にとっても、守られるべきものたちにとってもそれは変わらない。
その中で人間は悪事を働き、良心にそむくことも行ってきたが、それ以上に数多くの生命の輝きを見せ、心を揺れ動かす存在であると知ることができた。
だからこそコーマは自分が管轄する南の番犬所に仕えるもの、生きるものには慈愛の精神を抱いていた。
また新たな騎士が現れた。
彼女にとってそれはうれしいことであった。だが、同時にその騎士与えられた使命が彼にはあまりにも重く、伝えることが辛く、悲しみに襲われる。
この場所にその青年が訪れてほしい。
この場所にその青年に来てもらいたくない。
コーマの中で複雑に絡み合う感情が縺れていた。
運河によって本土から隔離されたその都市はトンネルと多数の橋によってつながれていた。
橋の周りを環状道路が覆い、輸出入のトラック、または観光のバスや自家用車が絶えずに往来していた。
凌牙はそれらを掻き分けながら駆け抜けていく。
ビルが立ち並ぶ都市を遠景に手前に製造業が盛んであることを表す煙突がもくもくと煙を上げ、今日も活動を続けていることを示していた。
バイクを疾走させながら凌牙は笑みを浮かべ、速度を上げていく。
戻ってきたという実感があふれ出る。郷愁の思いで逸る気持ちを抑えつけながら一心に目的地へと目指し続ける。
穿藤邸は幅広い敷地を持ち、一面の緑の中にひっそりと佇むゴシック様式の豪邸だ。数えきれないほどに客室を持ち、それを清掃するメイドだけでも一つの子会社とかわらないほどの人数がいる。
車庫には最新のスポーツカーからビンテージ物のクラシックカーが立ち並び、二輪車、四輪車を問わない様々な車があり、そのどれもがいつでも主人を待つかのように細部にまでメンテナンスが行き届いている。
昼前に到着すれば古株のシェフがもてなす最高峰の料理たちが食べられるだろう。
腹がうずき、空腹であることを知らせる。
また自室に戻れば一人では持て余すほどに大きなベッドに身を沈め、泥のように眠ることができる。口うるさい清掃係のメイド長がまだ潔癖であればと記憶をたどれば、おそらくは埃ひとつないそこで休息がとれるだろう。
だが何よりも幼いころから面倒を見てくれた彼らに会うのが楽しみだった。
幼いころにかくれんぼですら真剣に付き合ってくれたことをまだ昨日のことのように思い出せる。
いまやいまやと迫る懐かしい地に凌牙は心を躍らせながら加速した。
ターミナルシティは穿藤エンタープライズによって城下町のように発展を遂げてきた。
このコングロリマット大企業の本社ビルがシンボルのように高く聳え、その周りを子会社などの企業ビルディングによって囲まれている。
また中州であるターミナル島の沿岸部には工場や煙突などの第二産業企業の建築物が立ち並び、数多くの市民がそこに従事していた。
だが人々で過密したそこには上流階級と下流階級が存在し、一歩道を逸れればスラムがあり、職にあぶれたものがその日暮らしを送り、光と闇がそこにはあった。
その日、ターミナルシティでは一つのニュースが話題となっていた。
上流階級に位置するセレブはもちろんのこと、スラムにいるホームレスすらもその話題で持ち切りだった。
市の中央で爆発事件が起こったのだ。
当局はガス管による爆発であると断定したが、現地にいたものたちによる不気味な噂が後を絶たなかった。
爆発の中心から悪魔があふれ出たというのだ。
今日日悪魔など存在するはずがないと一蹴するものも当初は多くいたが、その後に目撃者が増えたことにより、階級に関係なく数多くの市民たちがその噂を信じていた。
噂話をしているものが多い中で、その実情を知るものは多くはない。
影に忍ぶものたちにとってそれは噂話ではなかった。
最初に異変に気付いたのは焦げ臭さだった。
どこかでボヤ騒ぎがあったのだろうと思っていたが、それは距離を縮めるごとに濃くなっていく。
いやな違和感を覚えながら凌牙は開けっぱなしにされていた穿藤邸の門をくぐり、林を抜けていく。
視界に煙が入り込む。とっさに速度を落とさずに急ブレーキをする。ドゥカティ999を制動できずに地面に身を投げ出すことになり、激しく転がっていく。
全身を打つ痛みよりも目の前の現実が信じられず、意識がそちらに向く。
激しく燃え上がる炎が黒煙を立てながら凌牙の家を包み込んでいる。
自分の場所が音を立てて崩れていき、面影を残すことさえ許さないように絶えず火が燃え続けている。
ふと視界に揺らめく炎とは違う動きが見える。
人の影だ。
三階にあたる調理場の窓から助けを求めてか、苦しみに耐えきれずに人の手が外へとめがけて伸びている。
だが、その手は火に包まれ、黒く焦げ付いていた。
見覚えのある手だ。
大きく無骨ではあるが繊細さがそこにはあった手だ。
本来ならその手で作られた数々の品々を食べていたはずだ。
胃がひっくり返るかのように凌牙に吐き気が襲いかかり、その場に嘔吐する。
だれか生きているかもしれない。
あてのない希望が起こり、凌牙は燃え盛る炎の中に行こうと足を動かす。
だが前進することなく体をひっぱられ、その場から動くことを封じられる。
消火にあたる消防士が凌牙を引きとめたのだ。
それまでの疲労と先ほどの転倒の影響か、あっけなく凌牙は立ち止めさせられ、近場に止められた救急車両の後部へと座らせられる。
ほどなくして火は消し止められた。
茫然としていた凌牙のもとに苦虫を噛み潰したような顔をした消防士が現れ、屋敷にいたものたち全員が息絶えたことを告げる。
真昼であるというのに黒煙が空を覆い、あたりを暗闇に染めている。
病院への搬送を拒むと消火に当たったものと救急隊員は各々に車両に乗り込んでその場から立ち去っていく。
全身から力が抜け落ち、凌牙一人が残された。
日が沈んでもなおターミナルシティは眠ることがない。
重い足取りで凌牙はそこを一人歩いていた。
しばらくの間、燃え尽きた穿藤邸にいると使いのものが彼の下に現れ、指令があると伝え、南の番犬所に向かうようにと言伝した。
街に来るために乗り合わせたバイクは転倒の衝撃で破損し、自走することができない状態になっていたために凌牙は歩きでそこへと足を運ばなければならなかった。
ターミナルシティでは車での移動のほかに地下鉄と地上を走るモノレールがある。
その高架下にゲートはあった。
スラムに位置するそこに人影はなく、普段ならば雨風をしのぐホームレスがたむろっていたかもしれないが、満月に照らされる今夜に彼らが過ごすことはなかった。
夜遊びをする若者が様々な色合いで殴り書きのように描いた落書きを見つめ、凌牙はそこに向かって歩いていく。
壁にぶつかるかと思われた瞬間に四角く黒い空間が開き、凌牙を迎え入れる。
魔戒に生きるものは俗世から切り離されている。その掟は今もなお続いている。
包み込むような甘い香りが凌牙の鼻を突く。甘ったるくなく、果実や花弁のようなほのかな甘い香りだった。
ぼんやりとしたシルエットが目に入り、それが南の番犬所の神官コーマであることがわかる。
長い年月を生きながらえてきていながら自分とさして変わらない見た目であることに奇異を覚えながらも凌牙は彼女へと歩みよる。
「穿藤凌牙、このたびこちらに参らせていただきました」
コーマの視線が凌牙に向く。自分がぼろを纏っていることに若干の恥じらいを感じながらも敬意と威厳を持ち、魔戒騎士らしく彼女へと会釈する。
「お待ちしていましたよ。凌牙」
彼女はそういうと手にした赤い封筒を凌牙へと差し出す。
これを見たことが以前にあった。夜分遅くに父がそれに火をともし、宙に魔戒文字を浮かばせ、使命を受けていた。
いわばこれは指令書だ。
魔戒騎士はこれを解読し、ホラーを討伐する。
魔導火と呼ばれる魔界に存在する特殊な火を用いることでこの封筒はその本性を現すことができる。
同時にその火は化けの皮を被った魔獣ホラーの識別にも、はては戦いの際にはその炎を纏うことによって自身を強化する。
しかし凌牙にとってそれは会得していない技術であった。
魔導火は扱うには特殊な技術を要する。習得していない人間が魔導火の恩恵をあずかろうものなら一瞬にしてその身を焦がし、灰塵に喫することになる。
凌牙が指令書を手元で持て余している様子をコーマがみると、一呼吸ため息をつき、それをあずかるとその手から火を放つ。
灰は風に煽られて空へと舞うと幾何学的に文字を形成し、魔戒文字を浮かび上がらせる。
その言葉を見た途端に凌牙の表情が険しくなる。
拳を強く握りしめ、唇はめくれ、歯を強く食いしばっていることが分かる。
「そんなバカなことがあるはずがない!」
沈んだ気持ちであった凌牙に一転して怒りが込みあがる。
「踵を返してその場から逃げるように走り出す。
その場に残されたコーマがまたため息をつく。
凌牙の気持ちは痛いほどわかる。このような使命を彼がうければそのような行動をとるであろうとわかっていた。
だが、彼女はそれを渡さなければいけなかった。それが、コーマの使命だからだ。
“陰我にとらわれし、黄金騎士。ただちに断ち切るべし”
宙に浮いた魔戒文字がいまだにその使命を伝え続けている。
戸惑いと恐怖、そして絶望に顔をゆがめる魔戒騎士ほど気分がよくなるものはない。
狼を象った醜い鎧を召喚することはおろか、ソウルメタルで作られた不躾で品のない剣すらも振るうことは叶わず、ただの食材として空しくもただ食べられる気持ちはどうだろう。
この男で何人目になるであろうか。
両の腕を食い千切ったおかげで抗うすべもなく、ただ単に逃げようともがく、哀れな虫のようにその騎士は泥水に顔を浸し、悲鳴をあげることもできず、口の端から涎を垂らしながら足をばたつかせる。
どうやらそれほどまでに憑依したこの体の男は慕われていたのであろう。
そしてそれが油断と弱みを生み出し、抗う隙も奪わせた。
人間の血は何よりもうまい。特に魔戒騎士の血は。
左手の中指に取りつく裏切り者がことごとく声をあげてくるが、指ごと引き千切ってしまおうとしても邪魔をしてくる。
まあなんにしてもスパイスというものは必要なものだ。人間に魂を売り払った恥知らずの遠吠えも今宵の晩餐には付き物の歌だと思ってしまえばいい。
今もなお、録に立てずに体を無駄に動かし、必死に逃げようともがいている魔戒騎士が面白くてたまらない。
そろそろ食ってしまおうか。
英山に憑依したホラー・オイディプスの興味は次の獲物へと移っていた。
永遠に続くように思える虚空に足音がいやに響く。
煤でくすんだ頬を一筋の涙が流れ落ちるのが解る。不意に悔しさと悲しさで握り締めた拳に力が入る。
躯を覆う漆黒の襤褸はさらに擦り切れて破れ、雨に濡れてひたすらに重たい。
歩調を進めるが、己が何処に向かっているかは解らない。四方八方に気持ちが散漫していき、気分が優れることはない。あの使命の所為なのか、それとも今日だけで味あわされた絶望のせいか。心に余裕ができる隙間はない。
しかも、静寂であるという事で頭にはとりとめもない言葉のパルスが奔る。いっそグラウ竜の牙に首を撥ねられたいくらいだ。
途端に唐草を踏みしめる足音が聞こえる
鈍く意識がそちらへと向き、首を振り返らせる。ぼんやりとした眼には白い布が揺らめいているように見える。はっきりとする頃にはその影はこちらへと肉薄していた。
「魔戒騎士か」
魔戒語、常世では失われた陰の言葉だ。幼いころから触れ合っていたために理解するのに時間は必要なかった。
白い魔法衣、実際のそれよりも大きく見える躯。
慣れ親しんだ顔であるのに違和感を覚え、他人に思える。
「…父さん?」
英山の体をしたそれは凌牙を勢いよく殴りつける。
受け身を取ることもできず凌牙の顔は泥水の中へと落ち、口中は血と土の味で満たされていく。
「父さん?なるほど。そうか、この男の息子か」
オイディプスは顔を歪ませながら笑みを浮かべる。
地面から顔をあげた凌牙の顔を勢いよく蹴り飛ばし、笑い声をあげた。
「もっとうまい肉が今夜は食えそうだな!」
凌牙へと歩み寄りながら、舌なめずりをし、右手を振り上げる。
「逃げろ!凌牙」
ガルバの声に咄嗟に凌牙の体が反応する。
振り下ろされたオイディプスの手はまるで鋭いかまいたちのように大地を削り取る。
一歩遅ければ、凌牙の腕は両断されていた。
「戦え!凌牙」
鼓舞する声を凌牙の耳には責め立てる怒鳴り声にしか聞こえない。
じりじりと滲みよるオイディプスに凌牙は一歩一歩と後退することしかできず、目は涙ににじむ。
できれば会いたくはなかった。どこかの魔戒騎士に討伐されたという報告を受けるほうが自分にとってはまだマシだったかもしれない。
時に厳しく、時に優しく、魔戒騎士として、家族として心の支えであった父を殺すことなど自分にはできない。
それがホラーであったとしても、自分にとっては紛れもなく父なのだ。
踵を返し、逃げ出そうとする凌牙の外套の裾をオイディプスは掴み、放り投げる。
鈍い音と共に刺したような痛みが全身を奔り抜ける。
口の中に血があふれ、耐え切れず胃液と共に吐き出す。
意識が朦朧とする。
目の前がさらに霞む。
感覚が薄れていく。
「剣を抜かなければお前が死ぬぞ!」
魔導輪ガルバは凌牙へと絶叫する。
だが、びくとも体を動かそうとしない凌牙に異変を覚える。
何がきっかけだったのかはわからないが、意識を失ってしまったようだ。
このままでは凌牙を殺すことになってしまう。
魔戒騎士たちを食らったこのホラーに凌牙の命までを奪わせるわけにはいかない。
ガルバは全霊を使い、オイディプスの体を麻痺させる。
その場しのぎだとはわかっているし、自身の身を危険にさらしていることはわかっている。
だが、これで凌牙の意識を取り戻す時間稼ぎになればいい。
それほどまでにガルバにとってこの青年の命は大切だった。
そこには黄金騎士がいた。
神々しく眩しいその姿の細部を見ることはできなかったが、緑色の鋭い眼はしっかりとわかった。
その黄金騎士は無言であったが、自分へと近づいてくる。
どんなホラーですらも恐怖するその姿に何故か温もりを感じる。
黄金騎士は跪き、自分と視線を合わせる。
しばしの沈黙ののち、言葉を発したのは彼だった。
「守りしものになれ。そして強くなれ」
ふざけた真似をしやがって。
だが、最後の足掻きで抵抗する力を失ったようだ。
オイディプスはガルバを引きはがすと投げ捨てる。
最高のディナーの時間だ。
意識を失っているが、肉を引きちぎれば絶叫と共に目を覚ますだろう。
凌牙へと近づいていくとオイディプスは再び腕を振り上げる。
そして勢いよく凌牙へと振り下ろす。
途端、鋭い金属の音が啼く。
鮮血があたりに飛び散る。
凌牙の右腕には魔戒剣がしっかりと握られており、そして鋭い眼をオイディプスへと向けている。
オイディプスの腕は遠方へと飛び去り、そこからはどす黒い血が流れている。
ホラーの血だ。
立ち上がると同時にオイディプスを蹴り、その反動を使って、ガルバへと飛ぶ。
「ありがとう。ガルバ」
ガルバを英山と同じく左手の中指へとはめると構えを取る。
それは父と同じく、黄金騎士の構えだ。
「いくら虚栄をはったところで同じことだ!」
オイディプスは凌牙へと肉薄し、左腕をふるう。
しかし、それは空を裂き、代わりに腹を凌牙に斬られる。
「違う!今の俺は魔戒騎士だ。守りしものなんだ!」
凌牙はさらにオイディプスへと近づき、魔戒剣を振り上げ、その左腕を断つ。
絶叫をあげ、なくした両腕からどす黒い血を噴出させ、オイディプスは怒りをあらわにする。
「人間風情が調子に乗りやがって」
オイディプスの眼に陰我が浮かび上がり、その体を歪め、姿を変える。
凌牙に断ち切られた腕から新たなに刺々しく獣のそれである手が生え、英山の顔はもはや見る影もなく、前へとせり出し、涎が滴る呀が生える。
真っ黒な狼がそこにあらわれた。
四つ足を大地に着け、凌牙へと唸り声をあげると、疾走する。
地面を蹴り、跳躍するとオイディプスの猛攻を避ける。
天へと魔戒剣を突き出し、円を描き、ゲートを開く。
凌牙の体がそこをすり抜けると、そこには鈍い鋼の狼が現れていた。
ソウルメタルの鎧を身にまとった凌牙はオイディプスへと向きかう。
「でかい口をたたいた割には鎧に色も染まってもいない“鋼”とはお笑い草だ」
オイディプスはケタケタと笑うと、凌牙へと迫り、牙をむく。
体を翻し、寸でのところでそれを避けると再び剣を構える。
「鎧の召喚時間は99.9秒だぞ」
鈍い鋼の中でガルバが鋭い光を放つ。
「承知!」
刹那、凌牙はオイディプスへと疾走し、肉薄する。
いまだに笑い声をあげながら、その様子を見ていると、オイディプスは口を開く。
喉元に赤黒い光が収束しはじめる。
「楽しい余興だ。悪いが、食う前に死んでもらう」
オイディプスが炎を吐き出し、あたり一面を焼き払う。
焼け野原になったその場所がさらに黒く焦げ付いていく。
その煉獄の炎の中で凌牙はまだ走っていた。
オイディプスのその炎はソウルメタルですら溶け始めていく。
「凌牙!このままだと鎧はもとよりお前も燃え尽きちまうぞ!」
ガルバのその声にも凌牙は動じず、オイディプスへと足を止めない。
鎧の中の体に火傷ができていくのがわかる。
だが、それでも逃げるわけにはいかない。
向かっていかなければならないのだ。
なぜなら自分は守りしものだからだ。
剣を振るい、オイディプスの牙を砕く。
肩で息をする凌牙のその鎧は炎によって溶けていたが、形状が変わっていた。
丸みを帯びていた鎧は鋭さをまし、いたるところに旧魔戒語の紋様が刻まれている。
腰には黄金騎士の紋章が浮かび上がり、顔は狼を模しているどころか鋭い呀を携え、凛とした緑の眼光を放ち、それは狼そのものになっていた。
「鎧の形が変わったところで同じことだ」
オイディプスは牙を失いながらも再び、咢を開き、炎を吐こうとする。
だが、閃光の如き速さで剣を突き刺した凌牙によって、喉元を突き刺されて止められる。
凌牙は突き刺した剣を横に薙ぎ、オイディプスの体は真っ二つに引き裂かれる。
断末魔の叫びをあげながらオイディプスの体は消え失せていき、その場にかけらすらも残さない。
陰我は完全に断ち切られたのだ。
雨は止み、雲の隙間から月光が差し込まれる。
凌牙は鎧の召喚を解き、魔界へと変換する。
魔戒騎士の鎧はあくまで魔界で借りているに過ぎない。
契約された時間を超えてまで鎧を召喚することは即ち鎧に食われ、自身が魔界の存在になることを意味する。
そうならないために設定された時間が99,9秒なのだ。
独り立ち尽くす凌牙のもとにガルバが声をかける。
「凌牙、英山がお前に言葉があるようだ」
凌牙が返事をする間もなく、ガルバは英山の意思を彼へと投影する。
金色の空間がそこにはあった。
父の鎧、そして称号と同じ色が広がり、目の前には白い魔法衣を着た魔戒騎士が立っている。
「強くなった凌牙」
英山は凌牙へと近づいていく、ぼろぼろの彼をゆっくりと抱きかかえた。
それは幻想というにはあまりにリアルな温もりがあった。
「父さん」
「言いたいこと、話したいことがたくさんあるが、ガルバに与えられた時間は少なくてな。これだけは言わせてくれ」
凌牙は首を振り、英山へと向く。
「今日からお前が俺の代わりに人々を守るんだ。そして守りしものになれ」