ボンクラ日和

ボンクラ日和

サブカルチャー全般について、表現の模索と様々な文脈の継承の為の実験をする、ある意味名前の無い、均一なるマトリクスの一部。

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結構長い間長い文章を書いて、考えをまとめていくことをしなかったのでリハビリ程度にどうでもいい話を書いていこうと思います。いずれにしろ、これを読むのは僕一人しかいないだろうし、シルバー事件のマスター曰く、自分自身しかわからない言葉や表現で日々を綴る、単なるつぶやきに過ぎないんだろうなー、ってなんかそう思うといい表現とかリリックを思い出してくれるかもしれないと期待する。(ていうかブログとは本来そういう使い方ではなかったか)

 

最近メタルギアについて、もう何が面白かったのか、何に対して熱狂していたのか忘れかけている節がある。薄情なやつだ。さてなにから語るべきなのか、思い出せないという。

メタルギアのシリーズの歴史、製作秘話、小島監督の思想、みんなが語っているもしくは公式の本を読めばわかることをしたり顔でつらつらと述べる時代はとっくに終わってしまったし、一般人が語れるメタルギアとはなんぞや、とかどうですかね。軍事マニアでもないし、SF者でもない単なるファンとして語るシリーズのこと。なんかもうね、時代考証とか設定のこだわり、とかガノタじみたみみっちいSF考証を延々やっていくこと以外作品の掘り下げ方がないんじゃ、少し寂しい。

 

僕の生まれる前から人気なシリーズなので発売順にプレイしたわけじゃありませんが

実際にリアルタイムに立ち会えたのはMGSPWとMGSVのみである時点でお察しでしょう単なるライトユーザーです。何を語りうるのか。MG~MGS2まではスネークと呼ばれた男の一連のコピーとオリジナルのお話しであり、なぜか3以降のお話しにはそれまでと違った物語の読み方や道筋が存在するのではないかと思う、なぜかって、勘です。もちろんお話し自体や時代なんかみんな繋がってることは確実ですので、あくまで作品自体の性質の変化だとおもいますが参考程度で書きます。

 

MGS1からの流れを殴り書きします

MGS1は簡単にまとめてしまうと、伝説の傭兵ビッグ・ボスのクローンの一人が不完全なコピーを自称するがゆえに世界を巻き込んだテロを計画し、核廃棄処理場にて蜂起する。

この作品はとても論理的に組み上げられた精密なパズルである。映画的価値をゲームに持ち込むことで作品と呼べる段階にゲームを組み上げたすごいゲームである。

映画的とは、映画におけるディティールのことである。

映画が始まってすぐ1カットからラストカットに至るすべてに散りばめられる、予感とでもいうような説明ではない空気を持たせることを映画のディティールと呼ぶ。これが映画の骨子になるものである。

ゲームの端から端まで散りばめられた、遺伝子(GENE)というテーマ。

ゲーム内無線から得られる数々の攻略情報、ボスキャラクターの背景設定や出自、舞台設定や使用される生物兵器に至るまでわかりやすく配列されたまるで一冊の論文だ。

前作であるポリスノーツやスナッチャーから来る流れでもあり、潔癖症とでも言うぐらいのガッチリした設計になっている。そして、分かっているが、とても面白い。

 

MGS2はMGS1のメタフィクションである。テーマは摸倣子(MEME)。

2から愛国者達という組織が世界を支配し統制している、という設定が増えた。

「愛国者達」とは文化、経済、社会や規範そのものでありそれを統制し管理する存在である。

いきなりこの世界は管理社会であるとカミングアウトされるゲームである。

このお話ではもう核発射による全面戦争の危機など確信犯的カバーストーリーであり、さらにテーマとあらすじの乖離が激しくなり、多くの人たちにとって難解な作品だと誤解されてしまった。

ラスト付近のアーセナルでワームクラスターを流し込まれたAIの大佐が発狂していく様はものすごい混乱を引き起こす。ってなんか前書き長いな、あとはプレイしてくださいって感じで。

 

MGS1が精巧に作り上げられた箱庭だとすると、MGS2はその中に瓜二つに作り上げられた箱庭であり、物語がすすむにつれその箱庭を壊してプレイヤー自身の目的を見つけるゲームである。

 

MGS3はいわゆる正統派であり精巧に組み上げたストーリーやギミックだけではなく、ゲームシステム自体にその唯一の存在感を与えることがメインと言ってもいいだろう。

ここでのテーマは時代(SCENE)。今までの個々人的、社会的な遺伝子、摸倣子より大きな時代というものまでゲームに組み込み始めた。

MGS3は変化する状況それ自体になろうとしたゲームであり、箱庭のごとく作りこまれていても攻略の道筋は多種多様である。実際、実時間経過で倒せるボスも存在するわけで。

地形によって常に変動するカモフラージュシステムもこれが初出である。

これは時代というテーマに沿ったゲームデザインなのかといわれると、明らかに前2作より密接度は低下している。MGS3からはゲームで何ができるのかを模索し始めている。単なるオブジェクトとして破壊したり殺したりするのではなく、プレイヤーがその瞬間に際して如何な影響力を与えるのか。もちろん前作以前でも不殺でクリアできるわけだが、ディティールを論理的にプレイヤーに与えるのではなく、プレイの中で倫理として与えるのだ。ラストバトルが最たる演出である。冷戦という大きな時代を左右する引き金をプレイヤーは引けるのか。引くとすればどんな心境で引かせるべきなのか。その1点がMGS3の本質である。王道のゲームだ。

物語を芯から体験できるように設計された素晴らしいゲームだ。

 

MGS4は凄まじい。テーマはSENCE、意志である。

特筆するまででもない圧倒的なムービーシーンの多さと長さである。

MGS最後の作品として作られたが最後にならなくてほんとによかった。

最初にプレイしなくて良かったと本気で思った。

テーマ通り、意志を貫徹することがメインであり、どんなにボロボロになってもリキッドを追うことを止めようとしないソリッドには何度プレイしても泣ける。

自分たちが始めてしまった戦争を自分たちで幕引きする。

4の戦場は常に状況が変化し始めた。突然敵対ゲリラがきて戦闘が始まったり、月光が来て粉みじんにして去って行ったり。

ストーリー、テーマ、タクティカル・エスピオナージ・アクション、の三本柱は絶対に崩れない。

シリーズを通して遊んだ人にとっては魂の一本であり人生最良の瞬間である。

 

つかれたのでここまでにします。

 

 

 

 

『シン・ゴジラ』

<The Word>

 願わくは光を放ちたまへ  世を裁きたまふものよ 願わくは起て高ぶる者にそのうくべき報をなしたまへ  

〜新訳聖書詩篇94〜

   <Intoroduction>


うわさのしんごじ。

出るらしいですよ、映画館に、初代ゴジラの亡霊って奴が…
え、おたくも観ました?凄いですね、で、どうだいデカイのかい?…おおそうか尻尾がデカイのか。へぇ…。で、どうだった太平洋戦争で散った兵士の怨念は?スカイツリー崩落は?へ?何を言ってるか分からんだって?ははあ、からかってるつもりなのかいきみぃ…

<review>
映画のキャッチコピーっていうのは、観客を騙して丸め込む為にあるもので、決してその映画の内容やテーマを表す言葉にはなり得ない。全米が泣いたり、感動巨編したり、予想外の結末だったり、この中に犯人がいるだったり。今回は虚構vs現実。
これは嘘です。ありもしない現実など棚にあげるべきではありません。

さて、まず東京とは何なんでしょうね。
映画の中では日本の中心、経済活動の中心、国益のほぼ全て、と重要そうな場所の説明をしてくれます。しかし、今回のゴジラは何も、壊してないし、逆に壊したのは官僚諸君であってゴジラは特に目的があって東京にいるわけではないのです。

幻の都、東京。パト2で柘植が言うように、あの街は幻でしかない、唯のゴーストタウンでありみんな夢を見たまま生きている街、なのである。
都市とは妄想であり、それこそが現実の街というものを形作っているのである。例えば、シンゴジのテーマが虚構対現実なら、虚構とは都市なのだ。ゴジラから溢れ出る放射性の血液と炎こそ現実であり、ゴジラを囲う自衛隊やアメリカ空軍とは虚構なのである。虚構を守る為の軍隊である。

私のようなボンクラは何を軸に置いて映画そのものについて考えるだろうか。虚構が現実に勝利し支配することであるはずだ。辛く、厳しく、画面の外にいる我々では対処できない現実というものに妄想と虚構において勝利することだ。斯くして現実というゴジラに勝利したのだ。

いや、勝利ではなく支配下に置いたに過ぎない。動かなくさせ街のど真ん中に鎮座するゴジラ。ゴジラという生命を虚構の側に引きずり込んだのだ。海に退散させるのではなく、現実を虚構のものとして享受することで事なきをえる事。

ゴジラとは虚構である。我々の創造物であると、現実に飛翔しようとするものを跪かせる行為。我々はそれに歓喜するだろう。いつも嫌々ながら暮らしている憎き都市を破壊できる虚構を支配すること、それは希望のシンボルになるだろう。しかし、虚構が虚構を支配することになんの意味があるのだろう。それは、例えば神とか天国とか地獄とかという虚構を支配することと同じだ。果してその行為に悲しみを覚えはしないだろうか。よりちっぽけな現実にレイヤーダウンさせる事になんの意味があるのだろうか。虚構と虚構の掃討戦といえばリドスコの映画である。ブレラン、BHD、エイリアン、グラディエーターetc。何がシンゴジと違うのだろうか。都市に異物を残したまま、都市の復興の可能性を喜ぶ対災チームを見て、伊福部昭のゴジラのテーマを聞いて劇場を出た私の悲しみとは何なのか。

誰もが、ゴジラを見る眼差しを放棄しているということだろうか。ゴジラのゲロビや背面追尾レーザーを見ているのは映画の観客であり、物語の主役達はデータや被害状況と表記するのであり、一市民が見る目線はこの映画にはありません。それは観客が見れればいいのではないのか、と反証もありますが、その反応を描くことも映画には必要なのです。それが映画の一番訴えかけたい主題だったりしますから。

言ってみればこの映画はエヴァとあまり変わりのないテーマであり、20年前より変わることなく、ただ、ただ自己パロディに変わることはなく、表現の成長は最高になるも映画の骨子やテーマは成長すら見られない…テーマの変奏や反証は見られない事ならば、そういう監督なのかと諦めもつくのですが。

これは昔ながらのオタクがよくやる知識階級合戦の最上段から投げられた映画、といったところかな。私達こそオリジナルのゴジラを真に理解するものである。君達もこれを見て理解してね、という具合だ。

シン・ゴジラのシンってそういう意味だって、絶対。フェチ映画としては優れてるけど、映画としての色気や匂いはなかったです。残念。

でも序盤の会議シーンとか最高ですよ。決められた会議に口を挟むものの官僚の耳打ちでひらりとかわされる、とかまぁ帝国主義的なカットは好きですから満足です。










「GARM WARS」


【The Words】


今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神いひ給ふ

「我はアルファなり、オメガなり」 

                     --ヨハネの黙示録よりーー


【Intoroduction】


蒼き母星ガイアを回る、戦の星アンヌン。

かつて、この星を「ガルム」の8つの部族が支配していた。

ブリガ、ウルム、バセ、セタ、ボルゾイ、ゼネン、クムタク、そしてコルンバである。

部族はそれぞれの役割によって異なる姿と言語を持ち、彼らを創りし神に仕えていた。

しかし、創造主ダナンはある日アンヌンを去り、あとに残された八部族は

覇権を巡る争いを始めた。長きにわたる戦いによってアンヌンの大気は汚れ

大地は荒れ果ててしまった。


八部族のうち、今も残るのは

ブリガ、コルンバ、クムタクの三部族のみとなり

神の言葉を伝えたとされる「ドルイド」すら死に絶えた。


ブリガは圧倒的な武力を持って地上を制覇し

コルンバは圧倒的な機動力で空を支配した。

クムタクはその優れた情報技術をもってブリガに仕えることで

かろうじて生きながらえていた...


パンフレットより


荒廃し、岩と砂漠に包まれ、汚染された鈍色の大気は息をすることを

拒むかのように厚く垂れ込むアンヌン。

かつてダナンに仕えていた時代の面影はなく、ここに住まうのは

脳核の記憶を転写しながら何度も転生を繰り返す、「ガルム」と

バセットハウンドの姿をした「グラ」、

それとわずかな鳥と魚ばかり。

世界が始まりを告げるともなく終わりを迎えつつある世界の物語。

聖なるお犬様、グラの祝福を受けた一人のコルンバのガルム「カラ23」。

生きることもなく、また死ぬこともなく、ただ戦場で状況を闘うのみ

を日常としてきた彼女は、ブリガの「スケリグ58」とクムタクの「ウィド256」

死滅したドロイドの生き残り「ナシャン666」と出会い、

ドロイドの聖地ドゥアル・グルンドへの旅に向かう...


【Review】


現在のみを生きるガルムには、神話と伝承以外に歴史として語るべき

過去がなく、歴史を持たぬ者には生きるべき未来もまた存在しない。


ーーGARM WARS 白銀の審問官よりーー


この映画はファンタジーでありSFである。


SFとはジャンルの名称であるが、現在においては何もかもが

無意識なSFにまみれ、明確なSFの基準値というものは極めて判別しづらい。

よって、いくらSFファンといえどもここからここまでがSFですよーという明確な

基準を問うことは仲間打ち必須の禁句であるため、発したとたん世界が敵に

回るのは目に見えているタブーである。

よってSFとはただの「一ジャンル」であり明記すべきところではない。


では、ファンタジーとは何か。

ファンタジーも同じくジャンルのひとつではあるが、何をもってファンタジー

とすべきなのかは明確である。

ファンタジーとは「言葉」である。

なぜサイエンスでファンタジーなのか。それは科学の言葉で書かれたファンタジーであるからである。

言葉の世界そのもののことを「ファンタジー」と呼ぶ。

言葉の世界とはすなわち、物語のことである。

この「物語」の「ファンタジー」の基礎教養がなく、この映画を観た者は不運としかいいようがない。


アルファであり、オメガである。

それが物語というものだ。この世の始まりから終わりまでが、言葉の世界。

人間は常にこれを必要として生きてきた。聖書、コーラン、ギリシャ神話etcetc

われわれはどこからきて、どこにいくのか。われわれは何者なのか。

ファンタジーとは主に、なにが起因であるにしろそこを書いたもののことを言う。

もちろん現実とはまた別のものである必要がある、故に単なる逃避と現代の日本人は考えがちだ。

しかし、ヒトは物語なくしては生きては行けない、またそこに未来もないだろう。

物語のただ一行として、この現実は存在しているに過ぎない。

現実とは、ただのあらすじという一行の詩のなかでのセカイで、目を瞑り泳いでいるに過ぎない。

だから常に物語は必要とされる、どんなまがい物であろうとも。


ガルムウォーズは今までの押井作品と比べればとても分かりやすく、捻くれてもいず、

その本質にいちばん近いものになっている。

身体の中から沸き上がるような、臭い立つような、そんな押井映画の骨子。

かずかずのダレ場で感じる微睡みの瞬間にそれは立ち現れる。

スクリーンは常に自らの鏡であり、映るものまた自らの身体である。

深淵を見つめるものは、また常に深淵に覗かれているのである。


君たちは覚えているだろうか、スターウォーズを初めて見たときの感覚を。

ブレードランナーを初めて見た時の感覚を。

見たことはあるんだろうけど、全く現実とは関係ない空想の世界に1カット目から

ぶち込まれた時の感覚を。それがファンタジーの強度となりうるものです。

(それは物語の力でもあるし叙事表現の威力でもあるのですが)


さてと、前置きはさておき。

ガルムウォーズの難解さについてですが。

なぜこの映画は理解をこれほどまでに拒むのか。

それはこの映画の二重性のためではないでしょうか。

押井監督も好きですねー。(二重生活者代表)


うる星BD、天たま、攻殻、パト、アヴァロン、イノセンス、スカイクロラ、と続く二重世界

の物語はいかに成長を続けるのか。

押井自身イノセンスを若書き(若書き!)と呼ぶようにイノセンスとスカイの間には大きな

構造事態の区切りが存在する。

イノセンスまでの作品はあらんかぎり情報のディテールを敷き詰めることで映画を構築

するを主としてきたが、スカイ以降その傾向はなりを潜めたかのように変化し、観る者の

視線によって変化することが映画自体の骨子になってきている。

息苦しい理論武装のスモッグかただ蒼く深い空なのか。

状況という名の神話を論文で固めた映像を作るのか、日常的な風景を歴史で着飾るのか。

その違いはごくわずかである。

ガルムの二重性というのも、ごくわずかでありながら、その差異を見極める

ことがなければ、ただの凝ったお話にしかなりえない。

ただひとつ、日常の臭いと神話的叙事構造を区別できる視点さえあれば。

スクリーンに映るのはただ戦闘を日常として生きるパイロットや指揮官たちである。

しかし、そのバックスクリーンで留めなく流れているのは神話の物語である。

ただ、日常を生きているだけの人間たちが神話の物語の主人公として映される。

映画が進むに連れ、人間的な内部が表出していき、神話はそれを拒絶する。

創造主というものが常に理解不能な領域であるために、いくら理解を求めても

提示されるのはガルムには理解不能なテクノロジーや思想のみで、挙句の果てに

自分の胸に聞いてみろと問い返される始末である。

神話は、理解できないと断言するのだ。

ただそこにある身体を理解できないように。

日常的な身体はグラを通して、知識を深めていく。

なぜ食べているのか、なぜ子供がいないのか、なぜ夢を見るのか。

われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこに行くのか。

そんなもの既に知っているのだ、身体を獲得すればの話だが。

なぜこの映画を理解できないのか、それはわたしたちがよく知っているはずだ。

現実など虚構の下位互換でしかなく、ただ理解できる範囲の虚構の中を繰り返しているだけなのだ。

叙事として存在する現実を都合のいい現実という虚構のストーリーで埋め合わせているだけに過ぎない

のに、ただの神話的日常を是としない。

思うにこの映画は黒沢清の映画に似ている。

ただ日常の風景を情緒的に切り取っているだけなのに、バックで流れているのは

長大な理解不能な領域を含んだ物語になっていく。

断片的に日常的に人が死んで、生きて、言葉を交わしていくだけなのにそのまま世界の

始まりか、終わりに近づいていく。そして真相は理解不能な既知の性質を語るだけ。

この身体ひとつで世界が始まって、終わっていく、そんな映画に近い。

それが物語というものであり、虚淵のコピー通りこの日本が失ったものである。

始まりを忘却し、終わりを嫌い、そしてそれを再生産する。

ケルト神話では始まりは終わりであり、終わりはなく始まっていくエンドレスなものであるという

思想があるらしい。終わりを知らなければ始まりなど永遠に来ないし、来てくれることもない。

これからもこの映画は参照され、違った世界に変化していくだろう。

それが物語であれ、と真摯に願うところである。