さて今度はワルツです。

ワルツといえばショパンの時代はウィーナーワルツァーが人気を泊していたわけですが、、ショパンはシュトラウスの舞踏用ワルツを格下に見ていたようです。


この作品が書かれた1833年の二年前にもウィーン滞在をしていて社交界を賑わすシュトラウスのワルツを嫌というほど聞いたでしょう。ウィーンからのショパンの手紙にも言及されています。

《。。。これを作品と呼ぶなんて、そして躍りの伴奏をシュトラウスやランナーが指揮している!でも皆が僕のように考えているわけではない、、むしろみな喜んで笑っているのだ。だからこそワルツだけが印刷される(売れる)》


僕は舞踏的なワルツを書くのではなく、芸術的ワルツを書くのだ、と宣言しています。その手本となったのはウェーバーの《舞踏への誘い》やシューベルトのワルツのスタイルであったかもしれません。彼らのワルツの枠組みを真似てはいるが、ショパン独自のサロン仕様の芸術的ワルツへ昇華しようとした試みが、最初に出版された作品18にも顕著に出ています。


もうひとつ、ショパンが踊るためでない、芸術的ワルツにこだわった理由は、自分自身が踊れなかったからというのもあるかもしれません。コンプレックスの裏返し?


踊りのセンスがなかったといえば、ワルツ王ヨハンシュトラウス二世もワルツはからきし踊れなかったそうです。