グローバル化が進み、英語教育の改革などが
積極的に行われる現代…

「国際的に活躍するために英語を重点的に学ぶべき」
という論調が次第に強くなり、

日本文化の核である日本語を軽視する人々が
増えていますが、

実は今から150年ほど前の明治時代、
そして第2次世界大戦後にも、
同じような議論が行われていました。

英語教育に関するかつての議論と、
その裏側にあった欧米の意図…

その歴史をぜひお楽しみください。 

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斬殺された文部大臣

明治政府の初代文部大臣を務めた人物に
森有礼(1847〜1889)がいます。

彼は薩摩藩士の五男として生まれ、
若い時から漢学や洋学を学びました。

18歳の時には、薩摩藩による
第一次英国留学生としてイギリスへ留学し、
その後はアメリカに渡りました。

帰国後は、文部大臣をはじめ、
明治新政府の要職に就く他、

福澤諭吉らと共に明六社を創設したり、

一橋大学の前身となる私塾
「商法講習所」を開設したりしました。

さて、そんな彼は1889年2月、
明治憲法公布日の朝に刺殺されました。

なぜか。

理由の一つは、日本人の精神とでも呼べる
日本語や日本文化への侮蔑的な態度があったと思われます。

西欧の文化に感化された彼は、
「日本語のような乏しい言葉」では、

日本国民は「西洋の科学、文芸、宗教の貴重な財宝の
中から神髄を把握することは決してできない」と述べ、

さらに「国の憲法も日本語では維持することはできない」
「日本語は廃止した方がよい」などと断言しました。


米国教育使節団が見た日本

森有礼と同じく、日本語を廃止しようとした動きは
GHQによる占領統治下の日本でもありました。

これを展開したのは、マッカーサーが招聘した
米国教育使節団です。

米国教育使節団は、
日本に来てたった3ヶ月の滞在で、
「漢字は日本人には難しすぎる」との結論を出し、

漢字を廃止してローマ字を使いなさいと提案しました。

一番良いのは最初から英語を使うことでしたが、

まずはその第一段階として、
ローマ字から始めなさい、ということでした。

しかし、ローマ字はどうしても読みにくいということで、
次はカタカナを使いましょう、となりました。

根底にあったのは、とにかく漢字をやめろ、という発想です。


日本語離れ

結局のところ、森文相の企ても、教育使節団の提案も
日本社会で実現することはありませんでした。

しかし今、とても不思議なことが起きています。

それは、日本人自らが、日本語よりも
英語を重視し始めていることです。

マッカーサーにも出来なかったことが起きているわけです。

言葉には魂が入っております。
日本語に宿る言霊は、日本の精神そのものです。

これを永田町の先生方をはじめ、民間企業も、
教育機関も、一緒になって踏み躙ろうとしている。

教育政策を作っている人たちは、
日本の将来をどこに定めているのだろうか。

おそらく、自分たちでもわかっていないのでしょう。

日本語を失った日本人に、
本物の日本文化を継承していくことは出来ない。