Ameba 弁理士の日々

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gooから引っ越してきました。

3連休中、2泊3日で徳島に滞在し、徳島とその近くの4つのお城を訪問しました。まずは徳島城です。

2月21日(土)、空路徳島に降り立ち、連絡バスで徳島駅前に到着します。まずは駅前の観光案内所に立ち寄り、お城の情報とこの界隈でのおいしいお店の情報を仕入れました。
徳島駅前のホテルにチェックインし、再度外出して本日は徳島城を訪問します。
駅前から鉄道の線路南側に沿って東に進むと、線路を渡る①歩道橋に至ります。この歩道橋を渡って線路の北側に至ると、そこが徳島城の入口です。


案内図

城内に入ってすぐのところに、石垣で囲まれた小さな櫓跡があります。②太鼓櫓跡です。往時建てられていた太鼓櫓は、望楼型の3重4階であり、天守のような造りをした大型の櫓であったそうです。

②太鼓櫓跡

まずは④徳島城博物館に至り、スタンプをゲットします。

④徳島城博物館

⑤下乗橋は、もともとは堀に架けられた木製の太鼓橋でした。お城の御殿への正面入口にあたり、②太鼓櫓跡の石垣と、その東側の月見櫓跡の石垣の間が、大手口の枡形を形成しています。下乗橋の名前は、橋の前で籠などの乗り物から降りて渡ったことから由来しています。

⑤下乗橋


②太鼓櫓跡から見た③鷲の門
③鷲の門は、徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、造りが脇戸付の薬医門で、幕府に鷲を飼うからと申し立てて建造したことからその名があると伝えられています。
昭和20年の徳島大空襲によって消失しましたが、平成元年に復元寄贈されました。

③鷲の門


⑥堀川(北から) 右の石垣の出っ張りは屏風櫓跡?

徳島城は、北は助任川、南西を寺島川(現在のJR線路)に囲まれており、城の東側について守りを固めるため、⑥堀川が設けられました。

⑥堀川(南から)奥に⑮数寄屋橋

⑮数寄屋橋から城内に戻り、北へ進みます。バラ園を経て⑧菖蒲園に至り、ここから⑨山道をたどって城山に登ります。

⑦本丸 ⑨北からの登り

頂上の⑦本丸に近づくと、⑩北石垣が出迎えてくれます。

⑦本丸 ⑩北石垣

こうして、本丸に到達しました。

⑦本丸
徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。
本丸は標高約61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分の中ではもっとも面積が広く重要でした。
本丸の出入り口は東西の門が使われていましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「埋門」)があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。
われわれが登ってきた⑩北石垣の階段が、その脱出口なのかもしれません。ここから降りて西のテニスコート方向への道をたどれば、助任川に至り、ここから舟で脱出することもできたでしょう。

この⑦本丸へは、⑩北石垣の階段(埋門)経由で来ました。降り口としては、その⑩北石垣以外に、本丸⑪東石垣から⑫東二の丸を経由するルートと、西側の弓櫓の石垣から西二の丸を経由するルートがあります。われわれは本丸⑪東石垣から⑫東二の丸を経由するルートで降りることとしました。

⑦本丸 ⑪東石垣


⑫東二の丸跡
創建当時の天守は元和年間(1615年?1624年)に取り壊されたといわれています。まもなく、城山の中腹にある⑫東二の丸に天守代用の⑬御三階櫓が構えられたとのことです。


⑭蜂須賀家政像

《徳島城の来歴》
戦国時代、阿波の地は群雄が割拠し、阿波についてもしばしば城主が入れ替わりました。1582年には土佐国の長宗我部元親が侵攻し阿波が平定されました。
1585年、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜りました。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城しましたが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、1年半後の1586年完成しました。以後、大坂の陣の戦功等により淡路7万1千石の加増がされ、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万7千石の居城となり、明治維新を迎えました。
ここ徳島城は、蜂須賀家政が吉野川河口の渭山(いのやま)に築いた平山城です。山頂に本丸を置き、西二の丸、西三の丸と東二の丸を周囲に配しての詰めの城とし、麓には御殿を置きました。本丸にあった初代天守は元和期に取り壊され、その後、天守は東二の丸に建てられました。石垣は阿波の青石を用い、とくに本丸周囲は高石垣を築き堅固にしていました。西之丸の石垣は屈折を繰り返し、横矢がかりの工夫が目立ちます。御殿跡は旧表御殿庭園として整備されています。