雨ニモマケズ

雨にも負けず 

風にも負けず

雪にも 夏の暑さにも 

負けぬ 丈夫な体をもち

 

よくはなく 決していからず

いつも 静かに 笑っている

一日に玄米四合と 

味噌と 少しの 野菜を 食べ

 

あらゆることを

自分を勘定かんじょうに 入れずに

よく見聞きし 分かり

そして忘れず

 

野原の松の 林の かげ

小さな かやぶきの小屋にいて

 

東に 病気の 子供あれば

行って 看病かんびょう してやり

西に 疲れた 母あれば

行って その稲の束を 

 

南に 死にそうな人あれば

行って 怖がらなくてもいいと言い

北に 喧嘩けんか訴訟そしょうがあれば

つまらないから やめろと言い

 

日照りの時は 涙を 流し

寒さの夏は おろおろ歩き

みんなに 木偶坊でくのぼうと 呼ばれ

められもせず 苦にもされず

 

そういうものに 私はなりたい

 

雨にも負けず 

風にも負けず

 

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩は、岩手県花巻市に住んでいた斎藤宗次郎が実際のモデルとなった人で、彼は1877年(明治10年)に禅宗の寺の三男として生まれました。彼は小学校の教師になりますが内村鑑三の影響をうけ聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。

 

当時は、 キリスト教は「耶蘇そや教」などと呼ばれ迫害をされるような時代でした。親からは勘当され、教師の職は失い、町を歩いていれば「ヤソ」とあざけられ石を投げられました。その迫害は家族にまでおよびました。近所で火事が起きた時、全然関係がないのに嫌がらせで放水され家を壊されたこともありました。何度も家のガラスが割られたりしました。

 

更に大衆の迫害はエスカレートしていき9歳の長女にまでおよび、「ヤソの子供」とばかにされお腹を蹴られ、腹膜炎を起こしてしまい、小さな命は短い生涯を閉じることになるのです。亡くなるとき愛子ちゃんは「讃美歌を歌ってほしい」と言い、讃美歌を歌うと「神は愛なり」と書いて天に召されたそうです。

 

宗次郎はそのような失意のどん底にあっても信仰を守り、神様の愛の中にとどまり続けました。これだけのいわれのない迫害を受けながらも、逃げるのではなく彼はこの地に留まり、神様の愛を持って人々に仕える道を選ぶのです。

 

朝は3時に起きて牛乳や新聞の配達をし、迫害をする人たちのためにも祈り、福音を伝えたのでした。(10メートル歩いては神様に祈り、10メートル歩いては神様に感謝を捧げたという話もあるそうです。)

 

仕事の合間に病人を見舞い、励まし、祈りました。彼は雨の日も、風の日も、雪の寒さの中でも休むことなく働き、「でくのぼう」と呼ばれても、最後まで愛を貫き通したのです。

 

1926年に宗次郎は内村鑑三に招かれて花巻を去り東京に引っ越すことになりました。花巻の地を離れる日、誰も見送りに来てくれないと思い駅に行くと、そこには町長をはじめ街の有力者、学校の教師や生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いに至るまで身動きができないほど集まり、駅長は停車時間を延長し汽車がプラットフォームを離れるまで徐行させるという配慮をしたというのです。実はその群衆の中に若き日の宮沢賢治もいたのです。