クリップ伝道者の書は、聖書の中では異質な書です。とっても違和感がある書です。そして無心論者の方が好んで引用する書です。

 

例:フランスのヴォルテール、彼は18世紀の思想家 啓蒙主義の旗頭のような人。彼の特徴は合理主義、理性中心主義、科学的思考です。迷信的なものを排除して物事を考えるという姿勢です。そしてヴォルテールの思想はフランス革命に大きな影響を与えたと言われています。彼は神を信じていませんが「伝道者の書」から好んで引用しています。他に、カルト集団と呼ばれる人たちもこの書から引用するのが大好きです。

 

<注意>なぜ無心論者やカルト的な人たちがこの書を好み引用するのか、その理由を理解することです。「伝道者の書」が書かれた目的を理解することが大事で、文脈を抑えて一節一節を解釈していくことをしないと大きな過ちを犯します。

 

冒頭から過ちを犯します。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」

空の空。すべては空ですか?多くの人はこの言葉に惹かれていき、聖書は良いこと言ってるな・・・となるえー?あせるムム

 

#署名

(1:1)エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。

・新改訳と口語訳は「伝道者の書」としています。新共同訳は「コヘレトの言葉」と訳しています。

・ヘルブ語のコヘレト(コヘレテ)は「集めるもの」「集会を招集するもの」。そこから「講演者」「教師」あるいは「伝道者」などの意味が発生してきます。

にやりコヘレトは広い知恵ある人物を指している言葉。新共同訳は”伝道者”だと意味がズレるので、原文のままコヘレトにしたのでしょう。

 

・伝道者の書よりもっとピッタリくるタイトルがあります。「哲学者の言葉」です。ソロモンが哲学者の役割を果たして、人生を探求した結果の言葉なのです。

・「哲学者の言葉」とすると、どうして無心論者やカルト的な人たちがこの書から引用しても違和感を覚えないのかがよく分かります。つまり、この書は神様を抜きにして人生を探求したらどうなるかという結果なのです。

 

#著者

・エルサレムでの王、ダビデの子。それに該当する人は一人しかいません。ソロモンです。

・ダビデの子孫の中で、エルサレムからイスラエル全土を統治したのはソロモンだけです。

 

にやり最近になって伝統的なソロモン著作説を否定する学者が出てきている。”これはソロモンという名前を借りて別の人が書いている。”しかし、それは証拠不十分です。公平な目で見て伝統的なソロモン著作説を覆すような証拠は出ていません!

 

#執筆の目的

なぜ聖書にこの書が残されたのか。

・人間の知恵だけで人生の充足を求めることの愚かさを教えるためです。

・「神様を抜きに満足した人生を求めてもそれはむなしい」ということを教えるため。同時に、後世の者たちがソロモンの実験を繰り返すことのないようにするため。ソロモンが徹底的にやってくれたんです。彼は知恵、金、地位、美貌があった。

 

1人生の問題(1:1-3)

エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに苦労しても、それが人に何の益になろう。

・ソロモンはすべての人が考える、あるいは直面する人生の問題を提示しています。そして解決するために実験を開始します。

・人生は様々な苦難を宿し、素早く過ぎ去っていきます。気がつくと歳をとりその最後は死です。死が人生のゴールなら生きる意味や目的はどこにあるのか。神を認めないならまさに私たちの人生は空の空ですすべてが空です。これがソロオンが感じた人生の問題なのです。そして多くのクリスチャンが同じ感覚を持ち、そこから真理を探求しクリスチャンになっていると思います。クリスチャンでない人でも多くの人が同じ課題を抱えているはずです。

 

2ソロモンの実験(1:4〜12:12)

(1)科学(1:4-11)

科学あるいは自然現象を学ぶことによって考えようとした。

(2)知恵と哲学(1:12-18)

知恵と哲学を駆使して人生の意味を探求しようとした。ソロモンは知恵に恵まれていた。それでもうまくいかなかったので空の空だった。

(3)快楽(2:1-17)

ソロモンは人間が考えられる、ありとあらゆる快楽に身を委ねた。でもむなしかった。

(4)物質主義(2:12-26)

ありとあらゆる贅沢をした。考えられる限りの贅沢をした。でもむなしかった。

(5)運命論(3:1-15)

運命論を考えた。結局すべて神が決めてるんだという道を探求したが、納得できなくてむなしかった。

(6)利己主義(3:16-4:16)

利己主義で自分のために生きよう。自分だけよければいいという道を探究したけど、むなしかった。

(7)宗教(5:1-8)

儀式宗教に熱心になろうと、一生懸命に宗教的に生きようとしたけど上手くいかなかった。

(8)冨(5:9-6:12)

冨を蓄積したけど、むなしかった。

(9)道徳規範(7:1-12:12)

道徳的に生きたけど、むなしかった。

 

ショックソロモンは実験の結果、ある結論に到達しますが、それでも不十分だった

 

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伝道者の書の観察(7つの質問)

1、箴言と伝道者の書の違いは、何か。

箴言には、ソロモンの知恵が表現されている。箴言の多くがソロモンの作品です。

伝道者の書は、ソロモンの愚かさが表現されています。これは神から離れていた間のソロモンの自伝です。それゆえこの書のタイトルは伝道者の書、コヘレトの言葉ではない「哲学者の言葉」なのです。

 

2、伝道者の書の内容は、どのようにして生まれたのか。

・神を抜きにして人生の意味を探求すると、この書の内容にたどり着きます。一番問題なのは、この書の中には聖書の他の箇所の教えと矛盾する内容が出てくることです。だから常に考えなければならない。そして今も神を抜きに人生の充足を求める人はたくさんいます。しかし結論はむなしい試みです。

・この書の内容は人間の哲学的営みです。ソロモンほど知恵のある人はいなかった。ソロモンほど富のある人はいなかった。ソロモンはありとあらゆるものを用いて人生の実験をしたけど、結果むなしかった。

ヨブ紀ヨブは義人でした。神は義人であるヨブに何を教えたかというと、ヨブが罪人であることを教えた。義人だといっていても神の目から見ると罪人だといることを示した。ソロモンは知恵ある者でしたが、愚か者であることを神は示したのです。ヨブ紀伝道者の書はそう意味では相関関係があります。

 

3、伝道者の書のキーワードは、何か。

「空」。英語はvanity。伝道者の書にこの言葉が37回でてきます。

 

◎「空の空。すべては空である」という言葉が日本人の心を捕らえる理由はなにか?

般若心経に出てきます。「色即是空」という仏教の教義です。字面だけ見ると同じだと思いますが意味は全然違います。

 

空ではなく「無意味だ」という言葉だったらどうでしょうか。

般若心経色即是空「空」は、この世のすべてのものは 永劫不変 えいごうふへん の実体ではない。全ては変化していく。変わらない実体などない。ということを悟ることが仏教の教義です。

伝道者の書「空」は、神なき人生のむなしさを表現しています。神がいないならば人生はむなしいということです。

にやり概念が全然違います!

 

キーフレーズ「日の下で」

・英語は Under the sun(太陽の下で)

・「日の下で」は、伝道者の書に29回出てきます。

・ソロモンは死後の世界のことを論じているのではなく、地上の生活と人間の体験に限定されています。彼は”心の中で言った”という表現を繰り返しています。つまりこれは地上の生活であり人間が考えうる世界の話です。

 

イエス・キリストの言葉「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、なんの得がありましょ。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタ16:25)

 

4、伝道者の書に出て来る結論は、信用できるか?

読み分けが大事です。

 

聖書の教えと矛盾する結論

(2:24)人には、食べたり飲んだりし、自分の苦労に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。

バツレッド哲学的思考をした結果で、間違です。人生には多くの素晴らしい感動的なことがあります。

 

(3:19)人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。

バツレッド大間違いです。なぜこのような結論になるのか、地上の生活で人間の目だけで見ていると、”愛犬のポチが死んだ猫のタマが死んだ、おばあちゃん同じに死んだ。みんな死んで同じだ”というふうに見えるわけです。「人は何も獣にまさっていない」など完全な間違いです。 

 

(9:5)生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何の知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。

バツレッド間違えです。死んだ人には意識があります。魂は生き続けています。ソロモンは地上生活で動かない死人を見て、自分の人間的な体験だけで死人は何も分からないように見えたのです。

 

半分真理で半分嘘

(1:4)一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。

「一つの時代は去り、次の時代が来る。」までは本当で、「しかし地はいつまでも変わらない。」は嘘です。

 

(Ⅱペテ3:10)しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

・ソロモンは”地はいつまでも変わらない”と言っていますが、第2ペテロは「地は焼き尽くされる。滅びていき崩れ去り新しいものに置き換わる」と言っています。なのでソロモンは半分本当の事を言ったけど半分は嘘です。

 

聖書の真理と調和することば

(12:1)あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

イヒ12章を読んでいくと、比喩的に肉体の衰えていく様を本当に見事に表現しています。

 

!ソロモンが出している結論が正しいか間違っているかという判断は私たちの側に委ねられていますから、聖書全体を通してそれを吟味していく必要があります。

 

5、伝道者の書は、「神のことば」の一部なのか。

聖書は霊感を受けた神のことばだと信じています。

 

ソロモンが言った嘘も霊感を受けているのか?

結論から言うと、それも含めて霊感を受けている。ですから伝道者の書全体が霊感を受けた神のことばであり、聖書の中に含まれるに十分意味があるのです。

 

どうして神の霊感を受けていると言えるのか

・聖書の中にはサタンのことばも含まれています。

 

(創3:4-5)そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開れ、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

・サタンは嘘を言っています。この言葉を含めることで、サタンは嘘つきだと教えている。教えるために聖書に含まれている。

 

!伝道者の書は嘘も含んでいます。なぜ聖書の一部なのか。それは人間の哲学的営みの限界性とむなしさを教えるためです。だから書かれた意図に即して文脈を意識しながら私たちは読まなければいけないのです。そして結論として神抜きに人生を考えると空の空すべては空だ。本当にそうだということを確認することができるわけです。

 

6、ソロモンの信仰は、どういう状態にあったのか。

危ない状態だった。しかしソロモンは人生の探求を行っている間も神を信じていた。

それは神という言葉が49回も出てきます。ただし神はヘブル語でエロヒームですが、49回全部エロヒームです。

 

エロヒームの基本的意味は「創造主」という意味です。

・ソロモンは創造主の存在は知っていたし認めていた。しかしその信仰は決して救いに至る信仰ではなかった。なぜかというと「主」という言葉が出てこない。「主」はヘブル語でヤハウエです。ユダヤ人はこれを読替えてアドナイと言う。

 

ヤハウエとは「契約の神」の御名です。ソロモンは”契約を結ぶ神”と捉え”その方の約束は必ず成る”という信仰からは程遠い、ただ天地を創られた神がいるというレベルの状態で人生を論じているのです。

 

・創造主の存在は聖書を読まずとも認識できます。自然界を見ていると天地を創られた神の存在が分かります。それは一般啓示から認識できるからです。

 

「主」ヤハウエ、契約を結ぶ神という言葉、その存在は特別啓示でしか認識できません。そん特別啓示が聖書の言葉です。聖書を読まなければ、天地創造の神が私たちとどのように関わり、救ってくださるかという内容は、聖書の啓示を理解しなければ理解できません。

 

3実験の結果(12:12-14)

7、ソロモンの実験の結果は、どうであったのか。

(12:12-14)結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠されたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。

・「神を恐れよ神の命令を守れ」がソロモンの哲学的探求の結論です。その動機は、神の裁きへの恐れです。

※知恵ある者が理性的に人生を試作した結果 出てきた結論で、決して神の特別啓示に対する信仰的応答ではありません。

 

・ソロモンはエロヒームを認識した。でも救いに至る信仰を得るためには、特別啓示を通して”神が契約を結ぶ神である”という神への信頼が生まれないとダメだったのです。アブラハム契約、ダビデ契約、土地の契約。※新しい契約はまだです。

 

・ソロモンは現世のことしか論じていないので、現世における神の裁きの恐れのことを言っています。死後のさばきの恐れについてソロモンが言っているかどうかは不明です。

 

にやり私たちは聖書の啓示を通して、死後に神のさばきがある事を知っています。

「人は一度死ぬことと死んでからさばきを受けることが定まっている。」

 

ベルイエス・キリストを信じる私たちクリスチャンは、恐れから解放されています。キリストに愛されたということを知っているからです。そしてキリストを愛していることを自覚しているからです。

(Ⅰヨハ4:18)愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐る者の愛は、全きものとなっていないのです。