久しぶりに他人事に思えない映画を観たので、感想を書きます。
ややネタバレを含みます。





<あらすじ>
1990年代半ばのオーストラリア、タスマニア島。観光しか主な産業のない閉鎖的なコミュニティで、母と父と暮らす青年。
小さなころから周囲になじめず孤立し、同級生からは名前を逆さ読みした「NITRAM(ニトラム)」という蔑称で呼ばれ、バカにされてきた。
何ひとつうまくいかず、思い通りにならない人生を送る彼は、サーフボードを買うために始めた芝刈りの訪問営業の仕事で、ヘレンという女性と出会い、恋に落ちる。
しかし、ヘレンとの関係は悲劇的な結末を迎えてしまう。そのことをきっかけに、彼の孤独感や怒りは増大し、精神は大きく狂っていく。


実際にあった事件を元に作られたこの映画だが、そもそも事件の動機は明らかになっていない。動機が不明な以上、これは彼の人生を、丁寧だが淡々と映し追っていくもので、私たちはそれを見てめいめい解釈していく映画だ。
監督も極力事実に基づいて製作し、脚色も映画として成り立たせるための少量のものかな、と。(アマプラ公式あらすじの“恋に落ちる”ってところはうーん、そうだろうかと私は思ったけど)



彼は知的障害や諸々の何かを抱えていたようだが結局は「責任能力あり」として終身刑になっている。
映画の中でろくに診察をせず抗うつ薬を処方する医者と、薬を飲んでいれば安心だという母の構図、ママが飲めと言うから飲んでる、というマーティン本人が描かれている。
調べたら当時精神科が発達しておらず、ゆえに精神病への理解度も低かったと思われるが、精神医療が発達した現代でも診療体制・薬漬けの根幹は変わってないように思う。



マーティンの怒り、衝動、疎外感が私は他人事に思えなかった。私にもその特性があるから。
そして自分が何者か分からない、空虚感も孤独感も、嫌という程わかる。


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『皆 絶望的な気持ちで毎日過ごしてるんだ』
『命を絶つなら僕のはずだった、皆に無視されてる“うすのろ”だもん、“とろい”も一緒だよ』
『ママも僕を“ニトラム”って呼ぶ連中と同じさ』


『時々、僕は自分を見て分からなくなる。誰を見ているのか。なんていうか、そいつに届かない。みんなと同じになるようにそいつを変えたいけど方法が分からない。だから結局僕はここにこうしているしかない。こんなふうに。僕がここにいるのはパパみたいな弱虫じゃないってだけ』


マーティンが絞り出した心からの叫び、抱えている葛藤の言葉に、「私はあなたを産んだのよ、他とは違う」と言っていた母親は『あなたが何を言ってるか─分からない』と返す。


これにマーティンは涙を拭き、『別にいいよママ。僕も分からない』と返し部屋から出ていく。そして家族のためにお土産として買ったスノードームをオモチャのライフルで撃ち抜く。

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マーティンは自分自身が何か分からなかった。みんなと同じ『普通』になりたくてもなり方が分からない。絶望的な気持ちを抱えながらただ生きているだけ。自分は弱くないということを、こうして生きていることで証明している。
​────私にはこういう風に聞こえた。



監督のインタビューによると当時は男には男らしさが理想像とされる、好まれる時代背景があった。健康的で、サーフィンが上手くて、金髪ブロンドで、女に声をかける。それがイケてる風潮だった。
そういう『男』としての在り方へ当てはまれなかったマーティンが男らしさ・強さを突きつめた末に辿り着いたのが、銃や富だったんじゃないかと思う。


マーティンは確かに行動に対する結果を予測する能力が著しくかけていた。
でもそれは、個人が持つ特性ゆえなのか。
育った環境のせいなのか。小さい頃から社会に爪弾きにされていた人間が、理解者の居ない・欠けた環境でまともな感性を育むことは果たして可能だったのだろうか。



私は彼を擁護したいとは思ってない。
起こした事件は必ず罪として償うべきだし償うに値することを彼はした。


でももし私があの時代あの場所にタイムスリップしたなら。と考えてしまう。



皆と同じである必要はないんだよ。無理に普通という形にハマらなくていい、だって皆少しずつどこか狂ってるんだから。普通も当たり前も決めるのは人ではなくて環境だから。
だけど、あるがままのすべてを受け入れられるほど皆強くない。皆弱い。マーティンも私も皆も弱いんだよ。
だからね、マーティン……。


そう言って寄り添ってあげたい気持ちと、じゃあこの子の全てを私は受け止められるのか?という自分のキャパを考える。もし私が病院勤めのままだったら、それこそイネーブラーになっているんじゃないか。





反社会性、加害性、暴力性が育ち始めた人間を、普通という枠に押し込めようとすることなく矯正させることなく、私はヘレンと同じように彼の友達になれた?



犬と猫に懐かれて、無邪気に外庭で歌いながら笑ってたマーティン。
二本指で弾けるチョップスティックを教えて貰いながら一緒に弾いて「これからピアノが弾けるって言える」って嬉しそうに確かめあったマーティン。
銃を反対されて拗ねて出て行った晩、しおらしく「おやすみ」と「ごめんね」を言いに来たマーティン。

これらが脚色の映像だったとしても、強烈に胸に刺さり、喉の奥がつかえて忘れられない。



これは行き過ぎた考察になるかもしれないけど、チョップスティック(箸)という曲をマーティンは覚えていたから、
犯行の直前、「白人ばっかりだ、ジャップは少ないな」と言ったのかなあと。
ジャップが蔑称なのはマーティンが蔑称で呼ばれていたこともあってなんだか腑に落ちる。



好かれるようと演じなければ誰からも好かれないと悟った時、演じ続けるのか、それとも嫌われてもいいからありのままの自分を貫くのか。
じゃあ演じ続けた末に生まれた本当の自分との軋轢はどう処理するのか。
これは私がずっと抱えている問題でもあり、ありのままでは社会に適合できないマーティンの問題でもある。
私はこの答えをずっと探しながら今も生きている。



参考
・ポートアーサー事件
https://gendai.media/articles/-/93722?imp=0