中途半端なところで文章が終わってしまったのは、火葬が終わり呼ばれたためでした。
骨になったきいを見たら泣き崩れるんじゃないかと思ってはいたけれど、骨になったきいはもはや原型を留めていないから冷静にいられたというか、ある種受け入れざるを得なくなってしまった。
きいの形は亡くなって無くなって、骨になってしまった。
文章を今読み返してみると、端的にその時の思いが綴られていて、こんなことを書いたかなぁという気持ちもありつつ。
割と文章としてはあれ以上書くことは無かったんだけれども。
下の年中の子が、きいが亡くなって動かなくなった後もあまり気にする様子もなく楽しそうにしていてそれに救われる面もあったのだけれども。
火葬が終わったらきいは帰ってくるからね、なんて伝えていて、いざ帰ってきたら骨になっていると。
きい帰ってこないじゃん。骨のきいじゃない。なんて言われて。
違うきい探しに行こうって。
だから命について説明して、違うきいはもうきいではなくて、違う子なんだよ。同じ子はいないんだよって。
きいはきいだけなの。きいは死んじゃったのって説明して。
息子は怒り出しちゃって。きっと受け入れたくなくて。
夜になったら骨壺をなでながら、きいに会いたいって言いながら泣いていた。
この日1日で、死ぬっていうことが何かを理解してしまったのかなって。
翌日以降は母親が横にいてうとうとしていても守ってと起こしたり、座ってるおじさんを怖がったりと、何かを怖がることが増えてしまった。死という概念が身近になったんだと思う。
多少は必要だと思うけど、過度に恐れることは無いと思うし、難しいね。
上の子は上の子で、きいのエサを毎日与えている。前まではやらなかったのにね。
お供えしてくれている。
手紙も書いて置いている。
私は私で家に一人でいる時間が長いので、話しかけてみるだけれども昔の姿がちらついてそこにいるんじゃないかという気持ちが湧いてきて話しかけ続けるんだけれども、やっぱりそこにはいないので反応が無いから辛い感情が高まってしまう。
なので本当に申し訳ないけれど意図的に避けなければ私は耐えられないかもしれない。
あまり思いつめるのは良くないのは頭では分かっているので、理性の部分で感情を止めないといけない。
きいが亡くなり、翌日に葬儀をし、その昨日一昨日と上の子と旅行に行った。
家から離れていたのは私的には良かったと思う。残っていた妻と下の子は辛かったと思う。
きいは私たち家族から本当に愛されていたと思う。
きいも私たちを愛してくれていたと思う。
最後に見た辛そうな顔は忘れられないなぁ。
あんまり顔を見れなかったんだよなぁって。
最後のシーンを思い出すだけで涙が止まらなくなる。
全然仕事にならない。
なんか仕事のメールがドカッと来ているけど、全部未読スルー中だ。
世の中には仕事よりも大切なことがある。
大切なことはあるが、仕事も結局はやらねばならない。
なのでどこかで踏ん切りをつけなければならない。
今日はこの文章を書くことで30分はきいに思いを馳せたかなぁ。
あぁきいはかわいいなぁ。
下の子が、外にきいを探しに行こうって。
きっと次の子という意味なんだろうけど、そこまで前向きになっていないのと、そんな一瞬で次の子を飼い始めるのはきいにも悪いし。でもきいのことは大好きでも家族が前に向けるならそれも選択肢の一つなのかもと思うし。
きいは我が家の緩衝材で、良いことも悪いことも全部受け止めてくれて、誰のことも責めなくてバランサーとして大活躍でした。
あぁ本当になぁ、思っていたよりも5年も早く逝ってしまった。
今までありがとう、これからもよろしくねと伝えたい。
あぁこの気持ちを忘れたくないなぁどうにかずっと持っていたいなぁと思うとともに、自分たちもそのうち死んで誰の記憶にも記録にも残らなくなるときがくるんだなぁなんていう悲しい気持ちもあり、それでも閉じられた我が家という家族の中でだけでも彼女が生きてきたことと可愛さと賢さを伝えていかなければならないなって。
息子たちがあと5年しても覚えていてくれたら本当に嬉しいなぁって。
妻とだけの思い出になってしまうかもしれないけども。
写真よりも動画をたくさん撮った方が良いなって。
そして動画をたくさん撮ると、きっとそれを集めてAIが3D化した映像を作ってくれて思い出せる時代が来るんじゃないかなって。
それは良いような、辛いような気もするけれども、今はただきいのことを思いできることを考えたいなと思う。
今までありがとう。