「乙女椿」

今は、趣味と言えるほどの花好きでなくてもガーデナーでなくても
InstagramやTwitterで椿の花が紹介されており驚きますが
ガーデニング全盛期、ガーデニングブロガー全盛期は
日本古来の椿は古臭いと人気がありませんでした
しかし、それも、今は昔のことのようです


江戸に幕府を開いた徳川家康は、芥川小野寺を江戸に呼び寄せ、かつての御厩を作り替えた御花畠の御預に任じ、椿などを収集、栽培させました。

江戸東京博物館で展示された「江戸図屏風」を見に行きましたが、築地塀に囲まれた御花畠が描かれ、徳川三代将軍が愛した椿が多数、紫陽花、菊、百合、桜草、撫子などが描かれていました


徳川三代将軍は椿を愛し、特に二代将軍秀忠は武家深秘録に「徳川二代将軍花癖あり名花を諸国に徴し後園に植えたる中に広島椿という飛入り(斑入り)の珍花を献したる者あり」と、記載するほどの椿好きでした

三代家光も父、祖父に劣らぬ花好きで、愛玩の松の盆栽を箱枕の引き出しに入れて寝たという逸話もあり、大久保彦左衛門は家光のあまりの盆栽熱を諌めるため、盆栽の一つを地面に投げつけたと言われるほど凄まじいものでした

参勤交代で江戸在府を余儀なくされた緒大名らは、花好きの将軍の気をひくため、自藩の珍花、奇木を調べさせ競って献上し、自らも拝領屋敷に珍花奇木を植え園芸を楽しむようになりました

こうして旗本、御家人は広大な拝領屋敷で植物栽培を行い、花の流行を追って、取引に励むこともあり、特に旗本、御家人の二男、三男は無録だったため、収入を得るため園芸に取り組みました


新大久保辺りは江戸時代は大久保百人町。大久保百人町の植木づくりは、御家人の内職として知られていました。百人組の同心が勤めの余暇にツツジの栽培をはじめ、御鉄砲百人組の一つ伊賀組組屋敷は52500坪もの広大な敷地を持ち、苗木販売を行い栄え、やがてツツジの名所となり、二代広重の「三十六花撰東京大久保つつち」にも描かれました


このように大名、旗本が藩内で園芸を奨励し、園芸は武士のたしなみとなり、独自の園芸文化が生み出されました

花を愛する心は、階級制度の厳しい時代にありながら、上下関係なくただ花を愛する心で結ばれ、藩主、藩士の間で共有しました

そして藩内で誕生した特別な花は、藩の「お留花」として、門外不出の秘蔵とされ、分譲しないよう厳格に守り散逸を防ぎました

この美しい「乙女椿」はその「お留花」の一つとも言われ「お留椿」と言われたことから、風流人が「乙女椿」とした、とも言われています