鹿児島県の
甑島(こしき島)は
カノコユリの
原生地です
長崎、高知も
原生地ですが
中でも
甑島の
カノコユリは
“最も鑑賞価値が
高い”とされて
いるそうです
180年前に
来日した
スェーデンの
博物学者ツンベルクは
カノコユリを見て
『世界で最も美しい
植物の一つ』と
褒めたそうです
とくに
甑島原産種は
美しい花弁が
大きく反り返る
のが特徴で
素晴らしい芳香があり
6月から開花する
そうです
さすが鹿児島
開花が早いです(^_^)
我が家の北側の
花壇のカノコユリは
今週がピークです
*
甑島では
大昔の大飢饉や
戦後の食糧難には
カノコユリが
島の人々の
餓えを救い
明治30~昭和初期は
鑑賞用の需要が高まり
高値で輸出され
人々に貴重な
現金収入となった
そうです
現在では
主に観光用に
球根栽培がされ
自生地を保護
してるそうです
甑島の写真は
まるで
カノコユリの楽園
です
島の斜面や
灯台の周り
道端などで
美しい
カノコユリが
びっしり咲いて
います
ウソ☆
のような
景色です
一本の茎から
あの美しい
カノコユリが
20~30輪もの
花を咲かせています
*
甑島に野生の
カノコユリが増えた
理由の一つに
カノコユリの
球根を食する
猪がいないからと
言われています
そして何より
甑島では
カノコユリに
対する情熱が強く
地域興しや
活力の象徴として
町民に愛されて
いるそうです
現在は
鹿の子百合まつり
鹿の子百合見学ツアー
なども行われる
そうです
行きたいナァ
(=゜-゜‥*
カノコユリの楽園☆
*
お茶の水女子大の
地理調査報告書に
鹿の子百合の咲く島
里町における
鹿の子百合栽培の
変遷資料
という
調査報告書が
ありました
パソコン検索で
見つけました(^_^)
*
その報告書には
カノコユリに
翻弄された
島民の様子が
鹿の子百合
生産振興協議会の方
から聞き取り調査
という方法で
レポートされ
甑島における
農業の盛衰の背景と
衰退後の
鹿の子百合の現状を
考察していました
それは
とても
悲しい(=。_。)
レポートでした
昭和25~44年
海外で鑑賞用に
需要が高まり
球根が高値で
取り引きされる
ようになると
横浜や
奈良や箱根の
商社が入り
たいへん厳しい
系統選抜により
昭和39年
カノコユリの
一級品を
生み出すための
品種改良が実施され
たいへんな
努力により
商社用の
系統ユリが誕生
したそうです
それまでは
コバ山に
野生していた
カノコユリの球根を
採集していた
そうです
その当時は
毎年冬に
百合根を大きく
良質にするために
各戸で山焼きを行い
朝の2、3時の暗い中
提灯を灯し
球根掘りに出掛け
1人1日で
球根50斤~150斤
掘り起こした
そうです
(;_;)ホロリ
うちの母が
カノコユリの球根を
入手したのは
50年以上前
昭和34~5年頃
ということなので
まさに☆
その球根は
“野生の球根”
“一般百合”という
ことになります
*
商社に翻弄された
カノコユリ農家
輸入先で
球根が花弁を
つけないなどの
苦情が相次いだり
円高ドル安に
移行して
商社は撤退し
販売ルートを
閉ざされた
カノコユリ農家
離農する者が相次ぎ
田畑は放置され
山林化
昭和57年には
一般ユリ
昭和59年には
系統ユリの
出荷は終了
ピーク時には
566戸
あった農家は
2002年時点で
10戸だそうです
*
1997年
鹿の子百合生産
振興協議会が発足
観光目的でも
あったそうですが
鹿の子百合が
絶滅種と
ならないよう
遺伝資源として
未来に継承して
いこうとする
目的でもあった
そうです
協議会は
合計6人
だそうです
*
カノコユリは
連作が出来ないため
移動耕作が必要
ということで
甑島では
往古の慣例として
山焼きを実施し
土壌の養分回復を
図ってきた
そうですが
現在は人手不足で
山焼きは
実施していない
そうです
現在
栽培が困難な
カノコユリの需要は
愛好家が圧倒的に
占めるそうです
*
我が家の
カノコユリも
最後の一輪と
なりました
これで終わりです
“山焼き”の
出来ない花壇
湿気に弱い
カノコユリ
やがて
我が家から
消えてしまうかも
しれません
(=゜-゜
鹿の子百合の
シーズンが
終わります
クスン‥。