いよいよ関西も梅雨入り~
それ考えると少し気が滅入る・・・
(´・_・`)
嘆いても仕方ないので、昨日は曇り空の下だったけど、とりあえず部屋から外へ飛び出してみたよ \(^o^)/
降り立ったのは、近鉄田原本線・黒田駅。
まだレールの下には木製の枕木が敷かれ、田園風景の中を単線の線路が伸びる。
日本一の大私鉄に残る、情緒溢れるローカル線だ。
ここは、あの聖徳太子の名前を冠した『太子道』のルート上の地。
どんな発見があるのか、楽しみだ。
(⌒▽⌒)
早速、駅のすぐそばに、こんな立て看板を発見した。
『桃太郎生誕の地』!?
『桃太郎』って、絵本のために作られた昔話の世界かと思っていたんだけど、もしかして太古の史実に基づいてるの??
そう言えば、この辺りには、あの『かぐや姫伝説』所縁の地もある。
北葛城郡広陵町が、その場所だ。ここ、磯城郡川西町の隣町。
かつての歴史の表舞台にあった華やかな地に遺る伝承の数々。
こうして考えると、昔話って、太古の史実が語り継がれていくうちに、物語っぽく変形していくのかも知れない。
その方が長く、長く語り継がれていく事にはなるんだろうね。
今度きちんと取材してみよ( ^ω^ )/
さてさて、そんな地域に流れているのが、あの『飛鳥川』だ。
『飛鳥川』は、奥飛鳥の地に源流を持ち、『曽我川』とほぼ平行するように飛鳥京、藤原京を貫いて、この先にある斑鳩付近で『大和川』に合流する。
『飛鳥川』の上流方向を眺めれば、あの見慣れた飛鳥の山並みが見えている。
この眺めは、長年、おそらくは聖徳太子が、黒駒という愛馬に乗って飛鳥京と斑鳩宮を、『太子道』を通って行き来していた頃と変わってないんだと思う。
変わって行ったのは、人の心・・・
一方、下流方向は、『太子道』の終着である斑鳩の里、そして矢田丘陵越しに、霊峰『生駒山』までが見通せる。
大和盆地の中央部に当たるこの付近は、地形が平坦な事もあり、川の流れも緩やかだ。澄んだ清流の印象が強い『飛鳥川』のイメージとは異なる。
同じ川が見せる、この二面性は、歴史の表舞台で華やかに繰り広げられる権利闘争と、裏舞台に遺る遺恨、そして光と闇。
その両者の存在を教えてくれているかのようだと、僕は感じた。
この風景は、決して失われてはいけないものだ。
さて、そんな地域を訪れた僕の目的地は、ここ、『島の山古墳』だよ。
4世紀末~5世紀初に築造された巨大前方後円墳。
被葬者などは明らかになっていないけれど、周濠を持ち、大きさが200メートル級という規模を考えると、大王級の人物である事は、想像するのに難くない。
『島の山古墳』は、広陵町から川西町にかけて広がる『馬見古墳群』系、北部地域の『大塚山古墳群』に属する古墳と位置付けられている。
古代豪族『葛城氏』との関係が自然と思い浮かぶ。
被葬者が誰であれ、眼前の『島の山古墳』の姿は、優雅さと共に、今まなおとても大きな力を放っている。
単なる偶然なのか、その場所は、飛鳥へと続く『太子道』沿いの地域。
実は、『太子道』は、聖徳太子の時代になって突然出来上がった訳ではない。
確かに古代の主要道として整備されたのは、聖徳太子の時代の事かも知れない。
でも、そのずっと以前から『太子道』の基になった古道を通じて、この地域と飛鳥は、人や物資、そして文化といったものが往来し、日本の国の礎を築くベースが、早くから醸成されていた証だと、僕は思う。
つまり、あらゆるものが、太古の時代から『飛鳥』を目指してしたということだ。
この大和盆地の西側に伸びる『太子道』の基になった古道と、その反対側、東側に伸びる『山の辺の道』、この〝二筋の道〟は、大和盆地の東西二つのルートから『飛鳥』へと目指した明確な〝意志〟の存在を伝えている。
『島の山古墳』の隣には、『比売久波神社(ひめくわじんじゃ)』がある。
この神社の本殿は、春日大社の社殿の一つを移築したものだとも伝えられている。
この『島の山古墳』を中心とする川西町唐院一帯は、時代が移り変わっても重要な役割を担ってきた地域なんだろう、きっと。
古墳のすぐそばの水田では、田植えを目前に控えて、稲の苗たちが苗代で青々と元気に育っていたよ。
この営みは、ずっとずっと今の時代まで変わらず続けられている。
素敵だなと思う。
じゃ、次の訪問地に行くね。
『島の山古墳』を後にした僕は、今度は『大和』という国の名を冠した川、『大和川』を遡上し、先週お届けしていた〝The road to Asuka〟の最終目的地を訪れた。
ここが、その場所。
『欽明天皇・磯城嶋金刺宮伝承地』
欽明天皇が宮を営んだ地にして、日本に最初に仏教が公式に伝えられた場所。
この地に伝えられた仏教が、欽明天皇から蘇我氏に託され、やがて『飛鳥寺』の創建、仏教の教えを中心とした日本の国造りへと花開いていく。
この宮の『磯城嶋(しきしま)』という言葉は、国号である『日本』が使われる以前、最初の国号として使われたものらしい。
大王家を中心とした古代豪族の連合体としての緩やかな国の形から、飛鳥の地で天皇を頂点とする『日本(=大和)国』誕生前夜、まさに日本の夜明けを迎えようとする日本の原点が、ここにあったんだ。
この地を訪れ、その風を実際に体感できた事は、とても素晴らしかったな、そう思う。
この紫陽花、とても綺麗でしょ。
『磯城嶋金刺宮』に咲いていたんだ。
ピンク色から段階的に紫色へと移り変わって行くその美しいグラデーション。
まさにこの紫陽花は、この地で日本の国造りが新しい時代へと移り変わって行った姿を表しているかのようだ。
上の紫陽花とは対照的な、真っ白い紫陽花。これは、『磯城嶋金刺宮』の側を流れている『大和川』の畔に咲いていた。
この花も。
この付近を流れる『大和川』は、まだこんなに小さな流れだ。
産声を上げたばかりの日本の国の姿に、何処か似ている・・・
今回、ぶららの取材をしてみて感じた事は、広い大和盆地の各地に散らばる古代日本の痕跡は、『飛鳥』という地を通じて、飛鳥以前の過去と飛鳥以降の未来が結ばれていて、今を生きる僕たちに大切なメッセージを伝えてくれていると言う事だった。
まだまだ知らない場所、たくさんある。
これからも古代日本を紐解く旅、続けていきたいな (*^_^*)