■ 公共の場所で目を閉じるな
私が息子の通院の為に病院の待合室で長い時間待たされていた時の事である。
家内も一緒だった。
読む本も持ってこなかったし寒くて風邪気味なので、目を閉じてじっとしていた。
家に帰ってから家内がこう言った。
『待合室で目を閉じるのはみっともないからやめてちょうだい』
またまた文化の違いの問題発生か、と思ったが、
どうして「みっともない」のか分からないので質問した。
【以下の会話は基本的に英語である】
答え
「公共の場所で目を閉じたりボーッとしたりするのは、周囲に関心が無い事を示している。
ヨーロッパではそういう事をする人はいない。
老人でもめったにしない。
第3世界の人間のすること。
私たちはまわりの出来事に常にアラートでなければいけない。
何かが起こるかもしれない。
そうして誰かが助けを求めるかもしれない。
目を閉じるのは周りをシャットアウトしていることで、
自分は関心がありませんと言っているのと同じだ。」
私
「じゃ、公共の場所ではリラックスできないんだ。
(日本語で)ツカレチャウネ。」
答え
「日本人はいつも、『疲れる』という言葉を使う。
会議に出ても疲れる、
人に会っても疲れる、
電車に乗っても疲れる。
電車に乗ったらみんな目を閉じている。
西洋人にはとってもuncomfortableな景色。
学校に行っても、生徒はみーんなぼーっとしているか目を閉じてる。
私の行った日本の学校の生徒はみんなそうだった。
いったい、『疲れる』というのはどういう意味なのか?
どうしていつも疲れてるのか?
何かすると必ず『お疲れ様』と言う。
日本人はどうしてすぐに疲れるのか?」
疲れる、という言葉はtiredとは全然違う意味ではないか、と常々思っていたが、
どうやら本当に違うらしい。
(英語では『疲れてるから』というのが何かを断る理由になり、
これが理由として通用するのが文化の違いだ、
というような話を聞いたことがあるが、
私はそれは文化の違いではなくて
tiredと「疲れる」の意味が違う と捕らえるべきではないかと感じていた)
言葉の意味は別に置くとしても、
目を閉じるのは外界との交渉を切断している、というのは本当だと思う。
しかし、
それが『みっともない。大人のする事ではない』という感覚は初めて知った。
外界に対して常にアラートでなければならない、という考え方も初めて聞いた。
日本人が「外国の出来事に関心が無い」というのは目を閉じている姿と同じなのだろう。
どうしてこんなにもドイツ人は日本人と意識が違うのだろう。
日本人は待合室で目を閉じるのは当たり前の光景。
電車に乗っても目を閉じている人は少なくない。
一方、ドイツではたしかに公共の場所で目を閉じたりボーッとしたりしている人はいない。
公園のベンチに腰掛けている老人だってボーッとはしていず、たいてい何かをしている。
【新聞読んでいたり鳥にエサやってたり隣の人と喋ってたり…】
電車に乗っても目を閉じて座っている人はいないと言う。
その日以来、私は外出して目を閉じることが無くなった。
日本の冬の景色 横浜市都筑区 2012.12.20