ひとつの事が納得できると、次々と他のことか理解できる、ということがよくある。
それは鍵が同じだからだ。
外国を経験した日本人がよく言うことのなかにこういうのがある。
「見知らぬ人が駅の階段で荷物を運ぶのを手伝ってくれた。
それがとってもさりげなくできるのが日本と違う。」
「日本では駅などの階段には下りのエスカレータが無いところが多く、
ベビーカーを持ち上げて運ばなければならないことがあるが、
そういうときに誰かが手伝ってくれた事は全く無いし、
このことを人に聞いても日本で誰かが手伝ってくれたという経験をした人はいない。」
「ある国で駅の階段で車椅子の人がいたとき、
まったく知らない人どうしが目配せしただけで両側から車椅子を抱えて運ぶのを見かけた。
そういう事がごく自然にできるのは素晴らしい。」
日本では社会に出ると他人に冷たいらしい。
子供かバスで老人に席を譲ることさえ大変な難儀であり、
それをしたことを子供がわざわざ新聞に投書したりする。
小さな親切がどうしてこんなに苦行なのか。
「見知らぬ人に冷たいというのは、日本人は一億人がみんな家族と考えている
という話と矛盾するではないか」と家内は言う。
確かに現象としてはその通りだ。
日本人は他人に親切を申し出ることが非常に少ない。
されることも少ない。
このことも、恩の話と結びつけると分かりやすい。
相手に負債を負わせることが難儀なのだ。
それは、親切を受けたら必ず返さなくてはいけないと思っていることと裏表である。
自分から進んで「貸し手」になりたくないのである。
だから、何かを相手から先に頼まれてする親切の場合はまったく抵抗が無い。
このことは、日本人が他人に冷たいわけではない証明となるだろう。
単に、「自ら恩を与えるのが難儀」なだけなのだ。
同様に、なんということはない「ドアの送り開け」も外国では普通で日本では普通ではない。
ドアの送り開け、という日本語が日本人に通じるかどうか不安だが、
つまり自分がドアを通るときに次の人のためにドアを開けたまま押さえておくことである。
私も良い習慣だと思って日本でやっているが、大抵の場合、次の人は「あ、どうも」と言って
サッと私を追い越して行ってしまい、次々と「送る」状態には決してならない。
親切を「単なる一方通行」で終わって構わないものなのだ、と考える人が十分に増えるまで、
日本人が見知らぬ人に「荷物を持ってあげましょうか」と話しかける回数は増えないだろう。
【見返りを求めずに与える事は love という概念と同じである。
日本人が恩を貸借するものと考えるのは
日本には根本的に love という概念が無いからではないかとも思う】
【続く】
2011年12月 都筑区
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