新アジア主義 NO4

(2024年1月20日)

 

新アジア主義~~アジアが生み出した「空」の思想、「事的世界観」が世界を救う~~

 

驚異の思想「親鸞:歎異抄十三条」
 

※:釈迦は、死後の自分を心配する弟子の質問に答えて、そもそも死後の世界というものは、人間がどんなに熟考しても不明なので、死後の自分を心配するよりも、生きている今の自分を重視して、どのように生きるのかを考えた方が良いと、今の言葉で言えば実存主義的な視点から、弟子にアドバイスをしていた。

 

(現在では、仏教は一種の「輪廻説」の立場のように言われている。しかし、釈迦が生きていた頃のインドや中央アジアでは「輪廻説」は常識だったので、釈迦も「輪廻説」の立場だったなら、仏教は単なる常識を唱える集団ということになり、誰からも注目されずに既に消滅していたはずだ。仏教が新しい宗教=思想集団と認められたのは、当時の常識である輪廻説を採用せず、死後の世界は不明とし、生を重視する立場だったからだと思われる)

 

仏教は元々、今の言葉で言えば宗教と言うよりは、一つの思想集団だったのではないだろうか。釈迦が到達した新しい世界観を今の言葉で言えば、「関係主義」とか「非実体論」ということになり、廣松渉のスローガンで言えば、<「物的世界観」から「事的世界観」へ>となる。

 

その根拠は「此縁性」であり、これについてウイキぺディアは、釈迦が説いたとされる仏教の縁起説であり、三大仏典群の一つとされ、仏典では最も古い最初期のパーリ仏典経蔵小部の『自説経』(ウダーナ)の冒頭に記載されている↓の言葉を取り上げている。


此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。

中国人や朝鮮人、ロシア人、「南蛮人」たちがいたから、彼らとの差異により、日本人という概念も生じたように、ウイキぺディアでは、【このように、「此」に縁って「彼」が規定され、有無生滅する関係を表しているので、これを此縁性と呼ぶ。この「此」とは煩悩(あるいは、それに無自覚な無明の状態)を指しており、「彼」とは苦を指す。したがって、上記の命題は、

「「煩悩」(無明)が有れば、「苦」が有り」
「「煩悩」(無明)が無ければ、「苦」が無い」
「「煩悩」(無明)が生じれば、「苦」が生じ」
「「煩悩」(無明)が滅すれば、「苦」が滅す」
と言い換えることができる。】と解説している。

 

「親ガチャ」のような不可避的関係=「縁起」が、この世の自然物の自然科学的な生成消滅だけでなく、われわれ人類の「苦」という観念的、精神的存在の生成消滅も統制・制御している神的なものと規定するのが「関係主義」(関係原理主義)。それで、唯物論には物質を最重視する「物質主義的唯物論」(物質原理主義:マルクス派以外の唯物論者)と、関係を最重視する「関係主義的唯物論:マルクス派」の2つがある。

 

「物質主義的唯物論」では、人間の精神世界を物質の産物と見なすために、精神世界を軽視してしまうので、上部構造と下部構造とから成る構造論を唱えていたマルクスの哲学が、「物質主義的唯物論」では無かったのは確かだ。

 

しかし、残念ながら、現在のほとんどの唯物論者は、前者の物質原理主義的な唯物論者で、彼らの多くは人間の理性・知性を過大に評価する「人間主義」=「科学主義」でもある。しかし、後者は人間の理性・知性の限界を認める相対主義者なので、この点では、人間の理性・知性の限界を認め、経験(伝統)を重視する保守主義者と同じ人間観とも言える。

 

マルクスは当時、知識人の間で流行していた「ギリシャ文明」に憧れる風潮の影響を強く受けていた人物。特にマルクスは、個々人が孤立・孤独に悩む近代社会のアンチとしての「ギリシャ文明」に憧れていた。つまり、他人の家の食物を勝手に食べても咎められなかったスパルタのように、部族全体を一つの家族と見なし、濃厚な相互扶助の人間関係を維持していた社会主義的、共産主義的な「ギリシャ文明」を理想とし、その復活を意図していた人物と思われる。

 

※:悩みが無い人は釈迦の「空」の教えを学ぶ必要は無い。マルクスが「宗教はアヘン」、つまり、「宗教は心の鎮痛剤」と言ったように、宗教は人々の生における苦悩を和らげる大切な役割を果たしている社会安定装置なので、宗教は苦悩が無い人には必要が無い。しかし、何らかの理由で自分を悪人だとか凡人とかで、生きる価値が無い人間だとか思い込んで悩んでいる人には、釈迦の「空」の教えが究極的な「救い」、最高級の鎮痛剤となる。

 

釈迦の「空」の教えとは、誤解を恐れずに言えば「無責任論」(環境決定論)の教え。とは言え、あくまでも個々人が親や教師などの先行世代から教えられた社会道徳を守ろうとしても、否応なく冒してしまうような「悪」の責任は無いという教えであって、単純に「責任というものは無い」と言っているのではなく、実行可能な社会道徳は実行しなければならないのは言うまでもない。

 

たとえば、異常気象で大規模な飢餓や災害、疫病が流行した鎌倉時代、庶民を搾取して豊かな暮らしをしていた富裕層は飢餓民を救えたので「善人」とされた。一方、公家や武士、大地主に搾取されたために、飢餓民を救いたくとも自分の家族用の食料しか無い多くの庶民は、救いを求められても見殺しにするしかなかったために、生き残っても多くの庶民が地獄に落ちると心配していた。

 

そこで、親鸞は仏教の生まれながらの善人や悪人はいないという「空」説の立場から、「悪人正機説」を唱えて、庶民を搾取して富裕だったために難なく善行が出来た「善人」でさえも浄土に行けるのだから、葛藤を抱えて苦しんだ「悪人」を阿弥陀仏が見捨てるはずがない、必ず浄土に行けると説いて庶民を救った。ただし、親鸞はこの「悪人正機説」を誤解し、意図的に悪を行って浄土に行こうとする「造悪論」は否定した。

 

と言うのは、親鸞は法然の阿弥陀仏の御蔭で人々は既に救われているという「他力本願」の立場だったからだ。それで、そもそも極楽浄土という所は、修行などの何か特別に困難なことを、この世でしないと行けないというような所ではないという立場だった。

 

(ただし、ストレートに極楽浄土に行けるとまでは言ってはいない。誰でも容易に修行が可能な所には行けるから、そこで修行を行ってから極楽浄土に行くという説)

 

要するに、何物にも捉われず、自由に意志決定が可能なのは全知全能の神だけであり、自由主義の前提である神だけが持つ「自由意志」なるものは人間には無いという教え。なぜなら、仮に人間に「自由意志」があったとしても、その「自由意志」も何らかの価値基準が無いと決断・選択はできないからで、その価値基準は先行世代(親や教師)から、意識的・無意識的に継承したものだから。「朱に交われば赤くなる」と言うように人間は基本的に身体も、精神も「環境の産物」なので、学校で天皇は神と洗脳された戦前の日本人は、結婚もままならない「高級奴隷」の天皇を「生き神」だと信じてしまい、戦後、天皇は「人間宣言」を行う羽目になった。

 

つまり、人間に「自由意志」があったとしても、神ならぬ人間には、神のように全く自由に判断できるような能力は無い。自分では「自由に判断した」と確信しても、親が好きな球団を子どもも好きになるように、最も個人的なもの、最も多種多様なものとされている「趣味嗜好」さえもが、共同主観性を帯びているからだ。それで、地域毎に「ソウルフード」が生まれる。

 

また、孔子も「罪を憎んで人を憎まず」(古之聴訟者、悪其意、不悪其人:昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった:『孔叢子』刑論)と、釈迦の「空」の教えと同じ人間観を教えていたが、この釈迦や孔子の思想は人を穏健にして争いを軽減するので、人類社会の平和の維持に役立つ。

 

なぜなら、日本を代表する陶芸家の一人である「河井寬次郎」(1890年~1966年)が、自分の作品に自分のサインを入れないようになったように、「空」の思想によれば、<私はあなたで、あなたは私だからだ>。独立自存の「個人」なるものは実在しない。

 

なぜなら、人間の精神は他者(親や教師、その他全ての他者)と相互に影響を与え合い、造り合って形成されるから、身体は別々でも精神は共同主観性を帯びる。その結果、他者を助けた記憶は、やがて自分の中の他人からも感謝されることになるし、他者を傷つけた記憶は、やがて自分の中の他人からの怨嗟の言葉を聞かされて復讐される。「自己=他者、他者=自己」、「利他=利己、利己=利他」だからだ。この他者には、同時代の他者だけでなく、過去の全ての他者が含まれる。

 

また、古代中国の陰陽論も、非実体主義的=関係主義的世界観。更に、犯罪者であれ、死ねば「ホトケ」と呼び、手を合わせる日本の文明も、生まれながらの悪人はいないという非実体主義的人間観なので、当然だが、日本も東洋的文明圏の国。この東洋の非実体主義的=関係主義的世界観である「事的世界観」が、「物的世界観」にとらわれている西洋人も救う普遍的世界観であり、人間観。

 

※「無我」説の仏教(大乗仏教)と、「個人」という言葉を使わず、「個人」を「諸個人」と呼ぶマルクス思想が、同じ「関係主義」をパラダイムとしていることは、↓の元東洋大学学長竹村 牧男氏の「入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書) 新書 – 2009/4/17」では、日本を代表するマルクス哲学者である廣松渉氏の著作から引用して仏教哲学を解説していることでもわかる。

 

今後は、争い、戦争を引き起こす実体主義の欧米ではなく、儒教の「和を以て貴しとなす」(礼之用和為貴:礼はこれ和を用うるを貴しと為す: 『論語』学而12)というような争いを静める価値観をもたらす非実体主義的=関係主義的文明であるアジアが世界をリードして戦争を引き起こす資本主義から離脱し、人類を戦争の惨禍から救済するべきだろう。

 

入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書) 新書 – 2009/4/17 竹村 牧男 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%85%A5%E9%96%80-%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E6%9D%91-%E7%89%A7%E7%94%B7/dp/4062879883

 

 

親鸞:歎異抄十三条

わがこころのよくて殺さぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人を殺すこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

 

現代語訳

★:親鸞は、自分の心が善いから人を殺さないのではない、また、たった1人でも殺したくないと思っていても、日本に原爆を投下した爆撃機の乗員のように、百人・千人を殺さなければならない業縁(不可避な関係)もあると仰られた。

 

これは、私たちの日常的意識は結果から原因を推定してしまうので、善行を行った人を善人だと思ってしまう。それで、良い心を持っている善人は善行を行い、悪い心を持っている悪人は悪行を行うと考えてしまい、この人は善人だとか、あの人は悪人だとか、天才だとか、凡人などと単純な二元論で人々を識別・認知してしまう。

 

しかし、結果から原因を推定するという単純な推論では誤認が多い。そもそも、かつて「阿弥陀仏様」が全ての人々を救うと心の底から願い、また、自分自身は最後に救われれば良いと誓って下さったことの不思議な力によって、既に人々は救われている。つまり、この世には生まれながらの善人や悪人はいないように、生まれながらの貴人、賤民、天才、凡人はいない。しかし、これを知らない人が多いために、多くの人々が、自分は生まれながらの悪人や賤民、凡人だと思い込み、苦しんでいると親鸞上人は仰られた。

 

★:人間は生まれた後の様々な関係の産物。教師が教師であるのは生徒がいるからで、生徒がいない教師は教師ではないし、医者と患者とか、親子、夫婦も同じ。「教え、教えられる」という関係が、一方を教師にして、一方を生徒にするのだが、テストでは生徒が教師に授業の理解度を教えるので、生徒が教師で教師は生徒となる。

 

このように、教育では頻繁に教師と生徒の立場・役割は入れ替わっているので、教師や生徒とは「関係」であって、教師や生徒が内在的に具えている性質や本質が一方を教師にして、一方を生徒にしているのではない。また、「救い、救われる」という関係のボランティア活動も教育と同じであり、ボランティア活動では、ボランティア側も感謝されることで救われる。このように、全ての活動は頻繁に役割・立場を入れ替えることで成立している。

 

しかし、人類という生物種は一旦、一方が教師で一方が生徒と認知・規定すると、この規定が属人的に固定され、教師が教師であるのは、教師が内在的に具えている何らかの性質や本質があり、それが教師を教師にしていると錯覚してしまう。これが「物象化」であり、この「物象化」により、ある対象の性質や本質は、その対象が内在的に具えているものと誤認させる。

 

★:要するに、「物」や「人」の性質や本質は、その「物」や「人」が内在的に具えているようなものでは無く、他との関係による対他的な相対的な規定であり、山は平地・平野などとの関係で山なのであり、平地や川も同じ。商品の価格となって現れる「価値」だけでなく、「使用価値」も対他的な規定であり、全ての自然物、人工物、そして、概念や理論、教義のような精神的存在も、重層的な網のような関係の束の中で成立し、刻々と変容している。

 

全てが他との相互規定的関係で、「それ」と成る「事」的存在。この「事」的存在を、我々が持つ認知での「物象化」機能が「物」として現象させているのが、この色あり、音ありの日常的世界だが、実は、この日常的世界は、「事」的存在の集積。この「物象化」機能がベースとなって富士山を山と認知させるだけでなく、世界最古の宗教であるアミニズムを伝統的に強く継承している日本人の場合には、更に何か特別な、神聖な存在、時にはまるで神そのもののように見えてしまうことも起こすのではないか。

 

縄文杉のような大樹や仏像、経典が神聖な存在に見えるのも同じ。物の擬人化や、熱狂的なファンにはスターにオーラが見えるという錯視・錯覚も、この「事」的な「イベント」を、「物」的に認知することが起こさせているのかもしれない。

 

★:私たちが善人とか悪人として識別している人々は、あくまでも「関係」が創り出したものなので、「関係」こそが、善でも悪でもないもの、美でも醜でもないもの、聖でも俗でもないもの、つまり、「空」的存在が「物象化」により、あたかも善や悪、あるいは美や醜、聖、俗であるかのように現象・現前化させている。

 

商品も「空」的存在であり、商品の価値も市場という特殊な関係世界が生み出す半ば幻想的産物であり、商品の価値は、商品が内在的に具えているようなものではない。しかし、背後には、一定の「関係」があるので、価値というような性質や本質も、荒唐無稽な幻想ではなく、「空」的存在。

 

要するに、「私」や「我」も含めて、この世の全ての存在は「事」という「イベント」であり、「空」的存在であるのに、デカルトは「我」を究極の実体と誤認したために、これを基礎として、これを「前提」にして、個人主義的過ぎる「物的世界観」の近代思想が形成されてきた。「物→関係」ではなく、「関係→物」なので、「関係」こそが、この世界の第一次的な「存在」、つまり、「関係」こそが、この世の創造主と言えば創造主であり、「神」的存在なので、「物的世界観」から、廣松渉氏の「事的世界観」に移行すべきだ。

 

★:この親鸞の言葉は、量子力学で注目されるようになった「関係主義」的世界観は、実は仏教の根本的な世界観、パラダイムであることを示している。「物」よりも「関係」の方が、真に実在するものという実体という概念に近いと考える「関係主義」が仏教のパラダイムであり、神髄。

 

「関係主義」の対極は「実体主義」であり、「実体主義」では、この世の全ての存在は、個々に名前を付けて識別できると考える。一方、量子力学の量子には自己同一性が無いので、個々の量子に名前を付けて識別することは出来ないというのが量子力学の前提なので、量子力学の登場はパラダイムレベルの大革命だった。

 

量子力学の創始者であるニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアは多才な人で、彼には東洋哲学の知識もあった。それで、ボーアは【量子論の解き明かした粒子と波動の二重性、位置と速度の間の不確定性などの世界像を「相補性」と名付け、後半生には量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして東洋哲学、特に易経を研究していた。】(ウイキペディア)と言う。

 

また、ボーアは、【デンマーク最高の勲章であるエレファント勲章を受けた時、「紋章」に選んだのが、陰と陽、光と闇の互いが互いを生み出す様を表した東洋の意匠、太極図であったことからもうかがえる。】とウイキペディアは、ボーアの非実体主義的な、関係主義的な東洋哲学への傾倒ぶりを紹介している。

 

更に、【原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。】(ウイキペディア)と指摘していた。

 

★:このボーアの言葉で重要なのは、「観客でもあり演技者でもある我々」。これは、従来の実体主義が前提としていた「主観(観客)ー客観(演技者)」図式での認識論を否定している。従来、観劇は、一方の客席に観客である我々がいて、一方の舞台には演技をしている演技者がいる。そして、我々観客は、演技者とは無関係に劇を見ているという反映論的な図式で観劇(認識)を考えていた。

 

しかし、ボーアは、それは誤解であり、観劇では観客も劇に参加しているのであって、劇というものは観客と演技者のコラボレーションと喝破した。優れた演技者は観客の反応を見ながら演技を変えているが、量子も観測により粒子となったり、波になるからだ。また、従来のミクロ世界とマクロ世界は別とする解釈は誤りで、ミクロ世界の素粒子や原子だけでなく、マクロ世界の分子(複合粒子)でも「粒子と波動の二重性」という不思議な現象が起きているが、これが量子力学の新地平。

 

仏教とマルクス思想、そして、量子力学の登場は、実体主義的世界観を関係主義的世界観に一変させた人類史を画する大革命だった。マルクスの「資本論」が難解な理由は、マルクスは、この関係主義のパラダイムで資本を説明しているのに、読者は実体主義のパラダイムで読むから。それで、マルクスは誤解されたり、批判を浴びてきたが、カギは「物象化」という人類という生物種の宿命的認識機能にある。

 

★:日本が明治維新後、「富国強兵」を目指したのは欧米列強がアジアを侵略したから。また、今の中国が「富国強兵」を目指しているのは、欧米の列強や日本が中国を侵略したからで、全ては相互作用の産物。欧米は中国を「独裁国家」と決めつけ、憎悪するように誘導しているが、現在の中国は日本も含めた欧米列強が創り出した国。

 

孔子は国家間に対立が生じた場合、その責任は両国にあると考え、先述したように「和を以て貴しとなす」とした。また、「和」については他にも、「君子和而不同、小人同而不和」(君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず: 『論語』子路23)や、 『孟子』にも「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という言葉がある。日本も、この「和」の思想を取り入れ、「十七条憲法では、第一条と第十条、第十七条にそれぞれ協調の精神が謳われている。」(ウイキペディア)。
 

欧米は、今でも多くのウソでアジアを分裂させ、分割して支配する帝国主義的手法の離間策を講じて対立を煽っているが、アジアは騙されずに小異を捨てて大同団結しなければならないのではないだろうか。


首都直下地震、南海トラフ巨大地震、富士山大噴火という「恐怖の大連動」は過去にも起きたことがあるという。この破局的事態が起きたら、日本は友好関係を維持している台湾だけでなく、韓国や中国、そして、ロシアや北朝鮮にも救助を求めるしかないのではないか。日本は周辺国と喧嘩をしている余裕など無い災害大国。アメリカの救援船は最速でも2週間も掛かるので、日本はアメリカの支援を当てにすることは出来ない。

 

<参考>

 

現代ビジネス:2023.08.27
最悪この国は「壊滅」する…日本人がじつは知らない、首都直下地震の「怖すぎる被害」

https://gendai.media/articles/-/114173
宮地 美陽子(東京都知事政務担当特別秘書)