備忘録(2019年12月14日)
 
ダイヤモンドオンライン:2019.12.2
日本の劣化が止まらない、「所得格差」が人の心と社会を破壊する

https://diamond.jp/articles/-/221985
永田公彦:Nagata Global Partners代表パートナー、パリ第9大学非常勤講師
 
昨今日本でも、非人道的な暴力事件が目立つこともあり、人の心や社会の状態が悪くなっていると感じる人が多いといいます。確かにこうした劣化を示すデータは多くあります。その背景にあるのが格差の拡大です。格差は、人と社会の健康を蝕みます。そして今世界各地で見られているように社会の分断、暴動、革命、戦争に発展します。既に劣化の段階に入っている日本…このファクトを認識し、格差是正に向けた国民的議論が期待されます。(Nagata Global Partners代表パートナー、パリ第9大学非常勤講師 永田公彦)
 
<以下略>
 
【コメント
 
●現代の常識である実体主義的世界観では、磁石の磁性のような物の本質とか、性質(属性)とされているものは、その物(磁石)に内在的に具わっていると見なされている。つまり、全ての物の何らかの性質や本質とされているものは、その物の内部に有るものとされている。
 
それで、多くの科学者も信じている常識では、<物は素材と、その素材が具えている本質や性質の二つから構成されている>とされている。しかし、この実体主義的な物質観では、素材も何らかの物質であることは間違いないにも関わらず、どういうわけか無性質な物とされる。

すると、この世には、物の素材のような無性質な物もあるということになり、当初の<物とは素材と、その素材が具えている本質や性質の二つから成っている>という定義に反してしまい、この実体主義的な物質観は成り立たない。

●また、われわれが日常的に肉眼で知覚している物は、全て生成消滅するもの、変化してしまうものである。また、分子であるH2Oは、温度(環境)により液体(水)や気体(蒸気)、固体(氷)となるように、あらゆる物は、環境とのコラボ、相互作用の結果として生成されたものであって、分子であるH2Oの本来の姿は、液体(水)でも、気体(蒸気)でも、固体(氷)でもない。

つまり、物には「本来の姿形」なるものは無いのだが、人々は、H2Oと言えば水を思い浮かべ、中には水が本来の姿と思い込んでいる人もいるかもしれないのだが、それは温暖な地方に住む人だからで、エスキモーなら、水と言えば氷を連想するかもしれない。それで、人は鉄なら硬い固体とか、それぞれの物の本来の姿を想像し、それは、他からの影響を排除するそれ自身が保有する「力」で、自ら鉄なら固体として存在していると、つまり、<独立自存の存在>と見なしている。

●実際のこの世の全ての存在は、一瞬の休みなく生成変化し続けている過程的な存在、運動体、つまり、通時的存在である。しかし、このように、物を<独立自存の存在>と考えてしまうのは、人々が物事を時間を停止させた静止状態=共時的な位相で考えるからだ。

それで、人々は事象を、このような<独立自存の物>がまず実在し、その後に関係し合っている状態と見なしてしまう。しかし、「朱に交われば赤くなる」ように、関係することで、物の性質も本質も変わるのが現実の物であり、<独立自存の存在>は実体主義的な理論的仮構物である。

現在の多くの人々は、この誤った実体主義的世界観に基づく物質観を素直に信じているのだが、実は誤りで、仏教やマルクス思想の関係主義的な世界観や物質観には、このような矛盾が無いので、実体主義よりも関係主義の方が妥当であり、優れている。

(実体主義は全くの間違いでもない。だから、近代科学は多くの成果を挙げたのだが、関係主義(物象化論)の方が、一つ上のメタな知見である。もちろん将来の人類は、関係主義にも欠陥を見つけるかもしれないのだが、現在「踏み台」にするなら、関係主義の方が妥当である。ちなみに実体主義では「他者―私」関係で、善悪を判断するが、関係主義の仏教やマルクス思想では「他者は私であり、私は他者」なので、他者へのギフトとは私が私にプレゼントすることであって、いわゆる「善行」ではない)

●しかし、この錯誤は現在の大多数の経済学者も含めた学者もしていて、彼らは実体主義的な機械論的自然観が唯物論だと勘違いしている。それで、物だけでなく人間の頭脳も物と同様に考えるので、頭脳にも生まれながらの個性=素質というものがあり、優れた頭脳を生来的に保有する人々がいると考える。

つまり、ノーベル賞を授与されるような優れた頭脳を形成するDNAを持つ天才的な人々の社会への貢献度は、普通の人よりも遥かに大きいのだから、所得に差があるのは当然ということになり、実体主義的人間観では逆に、平等とは全て悪平等であり、格差がある社会の方が、真の平等社会ということになる。

●ところで、人類が他の動物を凌駕できた原因は、高度な言語を駆使するようになったからという言語説が優勢である。ところが、人類が発語できるようになった一因は、魚がエラ呼吸をするようになり、そのエラを動かした筋肉が人類の表情筋に進化したからで、発語(言語)は魚の成果とも言えるように、この世の通時的、共時的な神羅万象が他の神羅万象との関係態である。

また、天才とされる人の頭脳を調べても何もわからないし、天才的な頭脳を生成するDNAなど発見されてはいない。仮に、天才的な頭脳を生成するDNAが発見されても、祖先が氷河期などの苦難に耐えたて生き延びたから生まれた。DNAは生物史的、歴史的生成物であって、天才個人や、その親が生成したものではなく、菌やネズミなどの先行生物や先人の、全人類の成果でもある。それで、伝統的に新しい学説は、事実上無料で公表され、全人類の共有物にしている。

●しかし、実体主義的な人間観に基づく全ての主流派経済学、つまり、マルクスの経済思想以外の全ての近代経済学の人間観では、基本的に所得の平等とは全て悪平等ということになるので、格差がある社会、つまり、資本主義社会の方が、実は平等な社会ということになる。

したがって、マルクスが唱えた所得も、究極的には平等化される社会主義社会は、社会に大きな貢献をした優れた素質(血統)を持つ者を搾取する社会、つまり、彼ら主流派経済学者に言わせれば、格差がある社会の方が平等な社会ということになる。

●このように、主流派経済学者ば、社会主義社会は悪平等の社会で、格差がある社会の方が、真の平等な社会だと言うのだが、彼らにも、「真の平等な成果の分配率」などを産出する計算式などは無いし、そもそも、人間の労働は分業=協働なので、個々人の貢献度を計算する式などあるはずがない。彼らの根拠は「思い込み」に過ぎないからだ。

それで、多少でも真面な主流派経済学者=近代経済学者であれば、昨今の超格差化を困った事象として困惑するばかりで、彼らには原理的に、超富裕層から財産を取り上げて、貧しい人々に再配分することで貧困問題・格差問題を解決するという提案は出来ない。
 
せいぜいが、中途半端な累進課税制強化程度の提案しか出来ないし、それも貧者の「権利」ではなく、上から目線の「人道的配慮」、つまり、収奪者である富者の善行ということになり、貧者はありがたく受け取るべきものということになる。
 
★全ての教育費を社会が負担して無料にするなら、職業の種類には無関係に、基本的には平等に分配されなければならない。なぜなら、どんなに単純な労働であれ、全ての人間労働には何らかのノウハウ、技術が使われるが、そうした技術は、人類の先行世代・先人たちが開発したものか、蓄積した技術が基礎=土台となって開発されたものだからである。

★ノーベル賞学者の仕事も、人類の無数の先行世代が開発し、蓄積してきた技術が基礎=土台となって可能になったのであり、また、彼らは農民が生産した食料が無ければ研究など出来なかった。つまり、受賞者個人の成果ではないのだから、全ての教育費を社会が負担して無料にするなら、職業の種類には無関係に、労働の成果は、基本的には平等に分配されなければならない。
 
しかし、現時点では大多数の人々にとって、関係主義も「理屈」の一つでしかないので、実際の「給料」は、その時々に社会的合意を得て決めるべきで、企業の役員会などが勝手に決めて良いことではない。
 
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<おまけ>

 

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