この日の朝、主人は息子に話していました。
「デジカメを持っていくからな。受かってたらバンバン写すから、楽しみにしとくんやで。塾の合格者インタビューも任しといて。しっかり○ちゃんと塾のことを褒めるコメントしとくから」
緞帳が上がります。壇上には受験番号の羅列した用紙の貼られたボードがあり、その横に職員のかたが2名立っていらっしゃいました。静かだった講堂は、にわかに騒々しくなりました。
「あったーーーー」
「受かってた ほら、ほら」
「おおー、ようやったなー」
「あ……、ないわ……」
一瞬で、息子の受験番号 1220 がないことに気付いた主人は、何度も何度も再確認をしてみましたが、無念にもその番号を見つけることはできませんでした。
さて、塾からは示しあわせて「同一出願」するよう、依頼をいただいていました。今やほとんどの中学校が、入試に際してウェブ上で出願を受け付けています。そこで保護者が各中学校へ出願するにあたり、この日のこの時間帯に行ってほしいとの要請が事前にあったのです。
そうすれば、塾のクラスメイトの受験番号が高い確率で近くなるでしょう。ということは、試験会場でも、おなじみの面々と並んで試験を受けることができるかもしれません。
こうしてボードに羅列した数字を眺めると、息子の番号近くの番号は固まって表示されています。塾で机を並べて一緒に学んできたクラスメイトは、ひょっとしたら大概受かったのか。
「息子も、みんなと一緒にがんばってきたはずやのにな。悔しいなぁ」
なんとか気を取り直して、ボードの写真を一枚だけ撮ることにしました。それで精一杯でした。
ふと右を見ると、よく存じている塾の名物先生が、どこかのお母さんとお話しになっています。その表情は晴れ晴れとしています。間違いなく、お子さんが合格なさったのでしょう。
歓声に沸き続ける講堂でしたが、静かに出口から退出されるかたも目立ってきました。主人は手際よくデジカメをカバンにしまい、流れに従って伏し目がちに移動することにしました。
講堂を出てすぐ左に、いくつかのブースが設けられていました。ブースは受験番号ごとに区分されており、そのブースにいらっしゃる職員のかたに受験票を提示すると、長形3号封筒が手渡されるようです。数人の行列はできていましたが、順番はすぐに回ってきました。
「1220番、○くんですね。こちらをお受け取りください」
封筒を受け取れば、退出するほかありません。とりあえず校舎の玄関口まで戻ってきたところ、周りにはひとがそれほどいませんでしたので、封筒の中身を確認することにしました。
残念ながら不合格でしたが、貴君の学科成績は A ランクでした。
なお、受験者の不合格者を上位からA~Eランクで表示しています。
校門前には、入場時と同様に資料を配布されるスタッフのかたが少なからずいらっしゃいましたが、足早に通り過ぎました。さらに歩き進むと、周囲の路上には誰もいなくなりました。
そこまで来て、主人はまずわたしに電話をしてくれました。B中学の構内待機場所にいたわたしは、もちろんすぐに電話に出ました。17時8分でした。
「もしもし」
「あ……、あかんかったわ」
「えっ……」
「成績表を見る限りでは、やはりギリギリ不合格やったみたいや。Aランクやったって。不合格の場合、ランクが表示されるみたいでな」
「そうなんか……」
「塾にはこちらから報告の電話しとくわ。帰りの電車に乗るとき、駅の発車時刻を教えてくれるか。こっちの駅までクルマで迎えに行くから」
「……、わかった」
こちらの画像は、写真ACにアップロードされたものです。
塾には、受験するすべての中学校の受験番号をあらかじめ報告してあります。なので、あえて連絡を入れる必要はないのですが、しかし、けじめをつけるために、やはりきちんとこちらから不合格を報告しなければならない、主人はそう思ったそうです。
携帯に登録している塾の番号を選択しようと思ったそのとき、不意に込み上げてくるものがありました。しかし、こんなところで取り乱してどうする。深呼吸をして、電話をかけてみました。
電話に出られたスタッフのかたに不合格の旨を告げたところ、教室長先生にお電話を代わってくださいました。先生はまず、息子の不合格について深々と謝られ、明日と明後日の夕方から4時間、A中学の後期試験に向けて、特別授業を実施される旨をお話しくださいました。
A中学は、4日後の1月23日(木)に後期試験が実施されます。ただし、募集人数は今日発表が行われた試験の4分の1に限られます。時期的に終盤戦となるこの試験では、名だたる難関校の受験で悔し涙をのんだ猛者が臨んでくるため、難度が上がると伺っています。
主人はともかくこのあとにA中学後期試験の出願を行う旨、そしてご案内くださった特別授業に息子を出席させていただく旨を教室長先生にお話しして、電話を切りました。
B中学では、試験中の保護者の待機場所が校舎内に設けられていました。18時を過ぎ、いよいよ受験生が退場する時刻になりましたので、校舎外の玄関前に移動します。ほどなく子どもたちがパラパラと出てきました。そこに息子の姿もありました。
「お疲れさまやったな」
「うん。A中学の発表、どやったんやろ」
「うん……。それが、あかんかったって……」
「えっ……。そっか、行けたと思たんやけどな」
B中学の試験は、算数が難しく感じた一方で、国語と理科はまあまあとのことでした。ただ口数は少なく、閉じる唇に力が入っているようです。どことなく肩を落とし、しょんぼりと歩く姿を見るのは、ただただ辛い。ともかく、明日も試験があるし、こんな時間でお腹もすいたでしょう。
主人と合流したのは19時ごろ。家族三人でどこかで外食するつもりでしたが、お弁当を買って家で静かに食べたいとの息子のリクエストを聞き、とりあえずボリュームのあるお弁当を買って帰ることにしました。明日もあることです。いつまでも落ち込んでいるわけにはいきません。
こちらの画像は、写真ACにアップロードされたものです。
帰りのクルマの中では、不合格でもAランクなら、ひょっとしたら繰り上げ合格もあるかもしれない、といった話を互いに交わしましたが、それで気持ちが晴れることはありませんでした。
明日は、難関C中学の試験開始が8時30分、塾の受験応援はその一時間前に行われますので、わたしは4時半に起きたいところ。息子も5時過ぎには起きたほうがいいでしょう。食事を済ませてお風呂に入り、自室にて勉強している息子に、わたしはお茶を持っていきました。
部屋のドアを開けると、息子が勉強机にうつぶせになっています。机上にプリントが広がってはいますが、どうも勉強ははかどってない様子です。やっぱり気落ちしていたのか……。
「もうな、今日はもう勉強はええから、明日も早いから寝ようか。とりあえず疲れたやろ」
「うん……」
「パパが後期試験の出願をしてくれはった。木曜日の試験までは何としてもがんばっていこう」
どうしたらいいのかわからなかったわたしは、とっさに息子の背中を何度かさすりました。
こちらの画像は、写真ACにアップロードされたものです。
家族みんな疲れていたのか、22時半には、わが家は真っ暗になりました。わたしはそのときはすぐに寝たのですが、結局翌日の1時過ぎ、まだまだ眠いのに目が覚めてしまいました。
わたしはこっそり起きて、厚手のカーディガンを羽織り、PCを立ち上げて YouTube を開きました。こんな気分のときに聴くのは、映画『ひまわり』のテーマ曲です。涙があふれてきます。
この曲は6年前に、息子が幼稚園年長組の音楽発表会で、グロッケンシュピールという楽器を使って演奏したものでした。あの時も、グロッケンの練習を日々積んできたんだ。そして、今もこんなにがんばってきた。できることなら合格の喜びを味わわせてあげたかったなぁ……。