「生きている」って感じたら
それも一つの偏りとみなすべし。
主体から見たら
「生きている」かもしれないけども
もっと遠い距離から私を見たとしたら
それは
自分の住む地域の上に立つ人
地球というものに立つ人
とすれば
「生かされている」というのも同時に存在します。
わたししか意識にあがらない時には
「生きている」という面しか読み取れないかもしれないけど
「生かされている」ということに気づくと
また”いま”への受け止め方が少し変わるように思います。
じぶんだけが自分を認識している人が「生きている」と思っているのと
全体の中の一部として「生かされている」と認識するのでは
立ち振る舞いが大きく異なるように思うのです。
「生かされている」と気付いた時に
なにか個人の中にある細々とした悩みよりも
もっと大切な「したほうがいいこと」
「してあげたいと思ったこと」があるならば
それをさっさと遂行して
自分というアンテナを通して出てきたそのすべてのことは
”やりきった”ほうが
結局いいのではないでしょうか。
全部やったとしても
きっとまたなにか”思考”って出てくるんじゃないですかね。
死ぬ1秒前まで。
だって「生かされてます」もんね。
朝、起きたくておきました?
目さまそうと思って目覚ました?
自然と目、覚めませんでした?
どう考えても、そこに主体性なんてないですもんね。
不思議ですね。
