ピラティスとは・・・その2 | 千葉船橋・心も体も好きな私になるピラティス【PILATES body&mind】

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こんにちは。新京成線 高根公団駅前ピラティス ヨガ教室の高橋まゆこです。

ピラティスの歴史紹介シリーズその2です。
リンクその1はこちらから。
ピラティスとは・・・その1

◆第一次世界大戦後ドイツ時代
ピラティス氏(以下、ジョー)はドイツに帰国し、防御術を教えたり、警察官の訓練に携わったりしました。

このころ、統合医療や東洋的なカラダへのアプローチなど、ホリスティックセラピーに興味を持ち始めたようです。

また、ダンスの世界では有名な、ルドルフ・フォン・ラバン(オーストリア人だがイギリスに亡命後、ラバンセンターというダンス教育機関を設立。振付を紙に残す手法ノーテーションを発明。AMPマシュー・ボーンもラバンの卒業生)や、振付家マリー・ウィグマンも、ピラティスメソッドに出会って、自身の活動に取り入れたそうです。

当時のドイツの政治事情(ナチス台頭)を好まなかったピラティス氏は、その後アメリカに移住することを選びます。その船上で、後に妻となるクララと出会います。(クララはジョーの3番目の妻・・)

ちょっと脱線しますが、ここでクララの紹介。


↑ジョーとクララ

◆クララ・ゾイナー・ピラティス
1882-1997
ピラティスメソッドの素晴らしい指導者として活躍し、人間的にも優れていてとても優しい人だったようです。気難しいジョーとは対照的で、いいペアだったようです。

指導者としては優れていましたが、クララ自身がピラティスエクササイズをしているところは、誰も見たことがないそうです。。。そして残されている写真もそうですが、いつもナース服で指導してたそうです。

エルダーのひとり、ロン・フレッチャーはクララの弟子でした。
(「エルダー」についてはまた別記事に書きます!)

◆ニューヨークにてピラティスメソッド発展 
1926年、ジョー43歳のころ、クララとともにニューヨークに到着、スタジオを開設。同じビル内にはニューヨークシティバレエのスタジオなどがあったこともあり、ピラティスメソッドの評判は広まり、当時の顧客としてはダンサーや医者から送り込まれた患者たちのほか、セレブたち、映画スターなどのほか、ビジネスマンもいたようです。

当時のアメリカのダンス界はバレエもモダンダンスも活発になり始めたころで、かの有名なジョージ・バランシンは教え子がケガをするとジョーのスタジオへ送り込んだそうです。

怪我人に対しては、プライベートセッションをしてたようですが、それ以外は、意外なことに手とり足とり、という感じではなく、部屋にエクササイズ表のようなチャート図が貼ってあって、「これをしなさい」と、チャートの通り、サーキットのように順番に必要なことをやっていってたそうです。

興味深いですね~

セッションは一切の無駄をはぶき、とてもフォーマルに行われていたそうです。

そしてリフォーマーは5台置いてあったそうですが、それらは全部仕様が異なっていて、このクライアントに最適なリフォーマーはコレ、と指定していたそうです。

マシンはすべてハンドメイドで、それを担ったのは、ジョーの弟、フリードリッヒ(フレッド)。

(フレッドはいつNYに来たのでしょうね?私は把握しておりませんが・・・フレッドの娘、メアリー・ピラティスも有能な指導者として活躍し、2012年のPMAカンファレンスでは、なんと82歳でアドバンスも含めたすべてのピラティスエクササイズをやってみせたそうですよ!)

ジョーのスタジオを卒業していく弟子たちには、なんと、それぞれの体に合わせたマシンを持たせたそうです。

ここまでピラティスメソッド、という言い方をしてきましたが・・・

ジョーは自分もメソッドを「コントロロジー」と呼んでいました。コントロール学、という感じですかね。

著書でもコントロロジーの素晴らしさを喧伝し、コントロロジーがもっと一般に広まって活用されれば、人々はもっと健康になり幸せになる、と言っていました。

1934年 YOUR HEALTH 出版
1945年 Return to Life through Contrology 出版


今回はここまで~

晩年は、ジョーの熱意の空回り感が出てきはじめます・・・