人生の有限さと老い。 | 南行徳 1Heartボクシングクラブの不思議な日常

南行徳 1Heartボクシングクラブの不思議な日常

こちら南行徳えんぴつ公園前 格闘技研究所。プロ育成ジムではないので、ほんわかした雰囲気です。

昨年からこちら、嵐山光三郎さん、東海林さだおさん、篠原勝之さん(クマさん)ら…1970年代末から80年代初頭に“昭和軽薄体”と呼ばれるエッセイのムーブメント(?)で一世を風靡した人達が鬼籍に入られた。
リアルタイムではないが、僕も若い頃にこの人達の文章に影響を受けた一人であり、寂しい思いがする。

時の流れは残酷だ。10年などアッという間な感覚で、気がつけば、本の雑誌社の編集部でアルバイトしてた頃から三十年の月日が経っている。三十年前、鬼籍に入った方々は仕事盛りの全盛期であったろう。
(嵐山光三郎さんは当時時折「本の雑誌」に書かれていた。僕は嵐山さんの書く“文字”が大好きで、生原稿を見るのが毎回楽しみだった)

プロレス好きな僕は何でもプロレスに引き寄せて考えてしまうのだが、先日三十年前の武藤敬司の試合映像を見て、動きがあまりにもピチピチしていて感動した。
その武藤も3年前に引退して還暦を過ぎているのである。それぐらい長い年月が過ぎているのだ。
(蛇足だが、2000年代初頭にプロレスの人気がガクッと下がったのは、PRIDEやK-1の台頭が原因とよく言われるが、単純に90年代にトップだったレスラー達の動きが“落ちた”ことも大きな要因だったと思う)

ただ一番問題なのは、三十年前の1990年代半ばを、そんなに“昔”とは感じられない事な気がする。日々は急かされドンドンとスピードアップしているが、“時代”というのはまったりと停滞している…そんな不思議な感覚のまま、身体ばかりが歳を取りガタガタになっていく感じ…。
(僕が生まれたのは1973年だが、その三十年前は戦時中なのだ。同じ三十年というスパンで、この違い!)

今月のスタジオジブリの広報誌「熱風」の特集は“老いとは何か”で、巻頭の養老孟司さんのインタビューを興味深く読んだ。

システム化した“脳化社会”では、生身の自然な変化である「老い」すらノイズとして扱われることになるかもしれない…という内容で、これは効率化の名のまもとに、スマホや飲食店のタブレット注文など、老人が疎外されていく流れを見ると痛感させられる。

また、雀鬼・桜井章一さんの最後の著書だという『男の背中  雀鬼からのラストメッセージ』(竹書房)も良かった。

若い頃に甲野善紀先生の本を愛読していて、その流れから当時甲野先生と交流のあった桜井章一さんの本もよく読んでいた。
二十年ほど前に、一度だけ雀鬼ご本人をお見かけしたことがあるが、あんなに軸が通っていて脱力している人をそのあとも見たことが無い…それほどインパクトがあった。

桜井章一さんもいまや80代。2024年「牌の音 町田道場」をクローズされ、いまは麻雀から離れ“今生の別れ”のスタンスで日々過ごされているという。
見事な“身仕舞い”のダンディズムで「やはりこの人は凄い人だなあ」と思ってしまう。

テクノロジーは世の中を便利にし、現代社会はスマホひとつあれば手軽でヴァーチャルな“快適さ”の中に、どこまでもいつまでも埋もれて生きれる様になったとも言える。

だが人生は有限であり、身体も有限である。

有限だからこそ、喜びも悲しみもあるのだと思う。

生命の乗り物たる自分の身体を強くすることは、何歳になっても重要なテーマだと感じる。特に60代に差し掛かったら、一にも二にも“筋肉”だと思う。
アンチエイジングという言葉は好きじゃないが、シニア世代になったら、とにかく筋肉が“宝”になる。それは間違いないことだ。

僕は自分のジム(1Heartボクシングクラブ)という、強制的に身体を動かされる場所があるので幸せだ。とは言え53歳という年齢相応の衰えは確実にある。肥田式と肥田春充先生の本に出会っていなかったら、自分の身体がどうなっていただろう…と真剣に思う。

カール・ゴッチ曰く「トレーニングは若いうちはshould(すべき)だが、年をとったらmust(しなければならない)だ」。

有限な人生を、可能な限り身体を動かしていきたい。