誇りという自己肯定 | 南行徳 1Heartボクシングクラブの不思議な日常

南行徳 1Heartボクシングクラブの不思議な日常

こちら南行徳えんぴつ公園前 格闘技研究所。プロ育成ジムではないので、ほんわかした雰囲気です。

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最近なんとなく得心したことがあります。

プロレスやら格闘技、そして武道に興味を持ちはじめて35年近く、何故か格闘技の世界に出入りする様になってからもそろそろ20年…そのあいだずっと追求してきたことは「“強い”というのはどういう状態であるか?」「強さとは何か?」「強い人間というのはどう在るべきか?」というマーシャルアーツの大命題でした。

その問いについて試行錯誤してきた年月でしたし、それはこれからもずっと続いていくものだと思います。姿三四郎のなかに出てくる「修業とは出直しの連続である」という言葉通りの道程です。

格闘技の世界を垣間見てきて、色んなプロの選手と関わったりして感じてきたことは、邪な強さの方向に行ってしまう例が本当に多いってことです。

腕っぷしの強さは“権力”の感覚を生みます。権力感が行き過ぎると、結果イエスマンが周りに集まり、当人はわがまま放題な“お山の大将”になる。

わがままさは何も生みません。わがままの連鎖は全てを焼き付くし何も残さない。

一時期のマイク・タイソンの栄光からの転落は、全ての格闘技者にとって知るべき教訓です。そして、ああいった例は枚挙にいとまがないのです。

そこから復活して人生を歩み続けるタイソンというのは凄いですが、皆が同じ道を辿る必要は、必ずしもない。

こういう事を考えるのは、ジムで子どもを見る様になってから、より真剣になったと思います。

いまの時代は正直難しい時代です。学校にしろ家庭にしろ、子どもを取り巻く環境はとても息苦しいものになっている。特に親子関係が難しい。本当に難しい。

格闘技をやる子も増え、小さい頃から親子でスパルタ練習に励み、十代からチャンピオンになる“天才選手”も出てきています。父性なき時代といわれるなかで、父子鷹でチャンピオンを目指す人達が日本中にうじゃうじゃ居ます。メディアには取り上げやすい美談ですし、今後もこの傾向に拍車はかかるでしょう。

彼らの努力はもちろん価値があるものですが、全体的な“風潮”としては好きになれません。彼らもまた既存の流れに組み込まれないとは言えない。プロ格闘技も消費の世界であることに変わりはありません。

そうすると、子ども達にはどういう“強さ”を教えるべきか? 子どもをナビゲートする目的としての“強さ”をどこに置くべきなのか?

また、矛盾する様ですが“強さ”は教えられて身に付くものなのか?という疑問があります。

それは自らの内から芽生えるもの、自らの内に育むものといった性質なんだと感じるからです。

指導する側が出来ることはそのキッカケ作りにすぎないと思います。

では子ども達の内から芽生えさせたいもの、育んで欲しいと願うものは何か?

それは“誇り”ではないか?と最近気づきました。

自分自身に対しての誇り、自分がやっていることへの誇り。その自己肯定感(自己承認感に非ず)。

その誇りを自らの内に持っている人は格闘技に限らずどんなジャンルでも“強い人”だと感じます。

ビジネスマンでもアーティストでも職人さんでも…誇りを持って自分の仕事に取り組んでる人は、ヒトとして強いし、また魅力があります。

そしてそんな自己肯定感を持つ人は、挫折や逆境にも立ち向かっていけるのではないでしょうか?

いまの親御さんは子どもから危ないことを遠ざけるケースが多い気がします。過保護に全ての危機を取り除いて上げることで、ピンチや失敗に極端に弱い人間が出来上がっていく悪循環。

人生の様々な難題に立ち向かっていける強さ、そして邪な道に流れていかない類いの強さ…“誇りという自己肯定感”はその土台になり得るはずです。

あくまで僕個人の見解で、一つの暫定的な答えですが…僕にとっては凄く凄く大きく重要な得心でした。そして気がつかせてくれたのは、ジムの子ども達です。