9月30日。
昨日は、父の命日でした。
私はひとり父のお墓へ。
ここ最近、死について考えることが多い。
ずっと頭の中を巡る…
父の命日にお墓に行くことで、死というものに何かしらの着地点を見い出せるかも知れないと思えた。
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9年前。
空が明ける気配もみせない早朝。
まだ遠くを走っているだろう救急車のサイレンの音。
それでも、その音にハッとして目が覚めた。
救急車はどこかの近隣でとまった様子で、今思えば、私はまさかという自分の思考に距離を取りたかったのかも知れない…
ベッドの中で、また眠りにつこうとしていた。
それから間もなく、電話がなった。
その瞬間、私の予感は現実だったことを確信し、激しく動揺した。
電話をとったその後のことは、ぶつ切りの記憶しかない。
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お墓を掃除して、お線香に火を灯し、父と話す。
「おまえ、死ぬなよ」って言われた。
「大丈夫だよ、自分では死なない」って言った。
そんなことしないよって、軽く笑いながら言った。
そのあと、その言葉は本心なのか、父に心配をかけたくなくて言った言葉だったのかを自分に問いかけていた。
どっちも正解のように思う。
お墓にお供えしたBOSSのブラック缶。
父が好きだった缶コーヒー。
ボスのロゴを見ると、よく息子が「じぃじだぁ」って言っていた。
息子の記憶に残るまで、一緒にいてくれてよかった。
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その後、ちょっと寄り道がしたくなって『房総のむら』に行ってみた。
いにしえの人たちが眠る場所。
あちらこちらに、彼岸花が咲いています。
紅白。
あら、めでたい。
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芸能人の自死が続き、死に反応している自分がいました。
なぜだかわからないけど、どうしても今の私には気になる。
良い悪いにこだわらないようにしているからか、私は死について考える自分を止めようとはしなかった。
死を忌み嫌って遠ざけようとすると、生きるってことの本質は見えないと、どこかで感じていたのだと思う。
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「もう、いっか」
あるとき、不意をついて自分の口からこぼれた言葉にハッとしました。
こんな風に、毎日私を取り巻いていた世界がスッと消えることがあり得ることを実感しました。
その瞬間は、家族の存在も忘れてしまえる。
その瞬間であるなら、行動してしまえるのかも知れない。
そう思いました。
悩みなんてない。
悩みなんてないのに、「もう、いっか」と思える。
それは、頑張って生きてきたから。
「もう、いっか」は、「もう頑張らなくていっか」という意味。
そう思うと、スッと肩の荷が下りて力が抜ける。
幼い頃からずっと頑張ってきた人が、ふと何かの拍子に頑張ることをやめたとき。
生きている意味を失くしたくらいの空っぽになれる。
頑張ることが背中にびっちりと貼りついて、自分になっていたのだから。
ブログにも書いてきたように思うけど、私は頑張らないことにした。
幸いなことに、私は自分が"頑張って"生きていることに気づいたから。
そう生きることは、私のやりたくないことにも気づいた。
だいぶ、ゆるゆるに生きているけど、まだまだだよなぁと感じている。
なかなか消えるものではないみたい。
でも、そんなもんであるという受け止め方も、ある意味ゆるゆる思考であって、気に入っている。
子どもの頃に自分を自由に表現できる環境にないと、頑張らないとそこに存在できないという強迫観念のようなものが生まれるように思う。
その環境に長いこといればいただけ、その思い込みを外すのは困難になると思う。
思い込みだということ自体が自分の中に生まれないってことも多くあるだろう。
でも、誰かになにかを提供する前に、自分を本気で労ってあげてほしい。
子どもの頃に、自由を許されなかった人へそう伝えたい。
今からでも十分だから。
だから、頑張らなくていい。
少しづつ荷物を下ろすといいよ。
生きてる間に全部を下ろすことができないかも知れないけど、それはそれじゃん。
くらいに思えたら、きっと確実に軽くなり続けられるから。
下ろすのも頑張らなくていい。笑
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朝の番組で、竹内結子さんのことを取り上げていたのだけど、コメンテーターの人がこう言っていた。
「なんで死を選んだのだろうって、考えても考えてもわからないけど、考えることをやめられなくて…でも、それを考えることは生きることにより深く向き合うことになるのではないかと思っている」
私も、この方と同じように思っている。
そして、私にとっての生きることに写し変えてこのことをみている。
真相なんてわからない。
自分の想像でしかない。
この番組で、もうひとつ印象に残ったのは、竹内結子さんが何かのインタビューに答えた内容と思われる言葉。
気分転換にちょっとづつでも笑ってみる。
緊張を解くときとかもそうですけど、「今日は大変な一日になるな」って思うときに、鏡の前でニッて笑って笑えるなら「よし、今日も頑張れる!」って…
以前に、彼女のインタビューだかをみたときに、なぜか嘘をついているって印象が残ったことがある。
彼女はきっと人を騙したり、陥れたりしない人だと思う。
だから、そういう類の嘘ではなくて…
私は何に反応したのかを、はっきりと表現する術を持っていません。
三浦春馬くんも、なぜだか演技をしている彼が本当の彼っぽくて、ドラマではないテレビ番組で、なんの役でもない彼自身をみて、これは彼ではないんじゃないかと感じたことがある。
決して、彼らをどうこう言っているのではない。
むしろ、誠実であろうとしていた人たちであると思う。
人として、信頼できる資質の人たちであると思う。
だからこそ、彼らの死が私を離さなかったのだろうとも思うのです。
死が生を教えてくれる。
死が生きることを支えることもあるのだと思うのです。