先日。

 

母が手作り梅干しを持ってきた。

 

梅干しを渡したいというのと、話しがしたいという理由…

 

いや、今回は話しをしたいが優勢だな。

 

ま、大概の場合、話したいのでやって来る。

 

母の好きなアイスコーヒーを淹れた。

 

 

 

なになに…?

 

 

高校2年生の甥っ子が、専門学校の見学に行っているらしい。

 

甥っ子は、整備士になりたいと中学生の頃から言っていた。

 

描いた未来を実現すべく行動している。

 

 

「へぇー、そうなんだ」

 

と私。

 

 

「親はいくつになっても子どもを心配するもんだよ」

 

と母。

 

 

「ん?〇ちゃん(妹)、●(甥っ子)のこと心配してんの?」

 

 

「ううん」

 

 

 

・・・・・・

 

 

 

「え?アタシかぁ?」

 

 

「アンタもいろいろ心配してんじゃないの?」

 

と母。

 

 

 

あ〜、ウチの息子のことか 

 

 

 

と、やっとここで、今日の主旨を納得真顔

 

 

「そりゃ、心配がまーったくないって言ったら違うと思うけど、〇〇(息子)は大丈夫だと思っているよ」

 

 

「アンタはそうでもアタシは心配」

 

と言われた。

 

 

 

と、ここで。

 

リビングのソファーで、いつものようにゲームやyoutubeをお楽しみの息子がいるのである。

 

話しは、ずーっと耳にしてる、ハズ。

 

ウチのオカン。

 

そういうの包み隠さないタイプ。

 

ま、私もなので続けマスにやりにやりにやり

 

 

 

ふだん、ウチの母は、息子の状況に理解はある。

 

だがしかし、どうやらNHKのなにかの番組を観て不安になったらしい。

 

そんなことを知り。

 

私は、

 

「〇〇が学校に行かなくなって、私は今の学校がどうなっているのか、不登校の子がここまで多くなって文科省は何をしようとしてるのか、社会はどう変わっていくのか、どんな意識の人が何をしようとしてるのか、いろんな人の話しを聞きに講演会に行ったり、関心のあるものには足を運んでわかったことがある。」

 

と言った。

 

「それをして分かったのは、心配をしなくていいってことだったよ」

 

 

 

 

できる限りを把握して、私が感じたことは。

 

たぶん、多くの学校では、子どもたちに同じことを同じようにできるよう指導し、管理して送り出すということをしている。

 

『みんな違う』ということに対応するのを拒み、そこには手を付けたくない。

 

私は、それをすることが子どもの成長に一番大事なことだと思っているけど。

 

そして文科省の中では、日本の教育についての見解はバラバラではないかと思った。

 

かたや、ドキュメンタリー映画『みんなの学校』に共鳴するところもありながら、道徳の教科書ではお辞儀の仕方までもがマニュアルになっていたりする。

 

私は、行政や現場の学校だけではどうにもならないと感じた。

 

それならどうする?

 

息子が社会に出てしあわせに暮らすには?

 

行政や学校は難しい。

 

万が一変われるとしたとしても、その長く掛かる時間の中で、息子はあっという間に大人になる。

 

私ができることからやろう。

 

そうしたら、息子に一番近い社会。

 

家族、私自身が変わることだと思った。

 

私や家族以外にも、社会の一部では多様性を認める人や学校、団体がある。

 

そういう社会が受け入れてくれることを息子に知ってほしいと思ったし、そのことを知ってもらうために、これからも必要なことは息子に提供したい。

 

そして、生きていくのに大切なことはなんなのか。

 

これを一緒に共有したい。

 

そんな思いに駆られた。

 

それは、私自身が見つけていきたいことだった。

 

私に必要だって。

 

そう思った。

 

当初、私自身が変わっていこう!と思ってやっていたが、そんな中、変わるのではなくて自分の本心から生きていきたい自分に行きついた。

 

『変わる』だと、どこかで自分を否定している。

 

否定から始めても、結局どこまで行っても乾いているような気がした。

 

どんな自分でも、そのままの自分を受け入れて生きていきたい。

 

どうやら、自分の本心はここにあった。

 

それは、息子の生き方が影響している。

 

しがらみや、保身ではなく、自分の本心を選択している息子の生き方。

 

私も、自分なりにその生き方を始めてから、楽になったというよりはクリアになったという感じがする。

 

こうして、いつのまにか不安がなくなっていった。

 

 

 

 

こんなことを、ダーッと母に話した。

 

なんだか、母の顔が明るくなっていた。

 

「そっか」

 

って。

 

 

 

そして、母は、実は自分自身に不安だったことに気づいたよって。

 

そこが根っこで、不安が不安を呼んで、孫のことに至ったらしい。

 

もともと、ラテン系の母。

 

「なんだか気が楽になったわ~」って帰って行った。

 

 

 

人は、起きている問題の本質を見極めて、その先に見えたことに意識を集中してさえいれば不安に駆られる必要がなくなる。

 

そんなふうに自分を保てないときには、いたずらに不安に駆られるようなテレビのニュースや番組は観ない方がいいし、不安だからといって、自分から逆に不安を煽る情報を掴みに行くこともしなくていい。

 

なぜなら、私は不安を煽るということを利用している社会の一面があると思っている。

 

みんなと同じではないことで不安になる人間の心理は簡単に操作できる。

 

受け手は、無自覚に操作される。

 

私は、そこに意識を触れさせる必要はないと判断した。

 

とはいえ、そこに気が付いたからこそ、その存在があるからこそ、そこではないという自分の本心を知り、その世界から卒業しようと思えた。

 

自分の中にもあるその世界に気づかせてもらったのは、その世界が存在しているからこそ。

 

『ありがとう』

 

という気持ちでもって、その世界から私は消えようと思った。

 

 

 

そして、このような気持ちにならせてもらえた、さまざまに情報提供してくださる方々、本の著者さんやブロガーさん、実際にご縁のあった方たちに感謝しています。

 

これからも、私の心のままに。