執着っていう言葉を知らなかったわけじゃないけれど

風くんを知る前に

自分のこと、と捉えていたかなあ????

 

風くん以前の私を思い出せませんが

もう執着の塊だったように思います。

 

そしてそのことに気づいていなかった。

 

いや、むしろ良いことだと思っていたのかもしれません。

 

伝統を守るとか

家を守るとか

そんなふうに言い換えて

こだわりまくっていました。

 

 

断捨離しています。

とりあえずあとで整理しよう、

そんな引き出しを久しぶりに開けてみると

そこは私の執着の塊でした。

 

自分でもこんなものまで???と怖くなったり。

そこには怨念みたいなものさえ感じました。

 

中には

アレ処分しなきゃ、ってものが見つからず

すでに処分済みなのかな?と思ったものもあって。

 

記憶も当てになりません。

 

あの引き出しにあるはず、

その想いだけで安心していたら

処分済み、とか。

 

 

義父母のものも。

高価だった

〇〇さんに貰った

勿体無い

いつか役に立つはず

それらは結局ゴミ。

いつか、は来なくて

いざという時には邪魔になって

お金を払って捨てるゴミ。

 

発掘した義父母のお宝も

結局はゴミになりそうです。

 

例えば習い事の賞状。

とっても名誉で嬉しかったのかもしれないけど

まあ県大会レベルの入賞くらい。

 

昔ですから

額に嵌め込まれたガラスをそっと外し

紙袋に入れて小さく割り。

外箱は巨大ホッチキスみたいなので止められて

解体するにも一苦労。

分別して各々の収集日に出しました。

 

掛け軸も何本かありましたが

広げると

ちゃんと片付けられない恐れもあって

そのまま放置しています。

 

多分、箱に書いてある作者名は

検索しても出てこないし

義父母の友人かな?

 

おそらくシミも出ているでしょうね。

 

桐の箱に入った茶碗(陶器)は見てもらったほうがいいかな?

箱に何も書かれていないけれど

もしかしたら????

漆塗りは値がつかない、と以前言われました。

 

どんなにいいものでも

要は需要があるか無いかです、と。

クロコのバッグだって

ノーブランドだし五百円。

 

「お宝」でこの程度ですから

あとは推して知るべし。

 

 

執着というかその怨念に打ちのめされております。

 

捨てる時には塩と日本酒で清めるべきかしら?

 

私自身も清めるべきかしら?

清めたら何も残らないかもしれないなあ。

 

今日の風くんの何かの発表、

新しい曲で清められたい私です。