2006年3月末・・・・病院内の個室で声にならない声が響いていた



「う・・・・ウウ・・」




体中に転移した癌の痛みと母がまさに今闘っていた。

病室内には僕も含め兄妹や親戚が集まり、皆 何もできずに母の苦しみをただ見つめるだけの無力感に各々が苛まされていた。

「お母さーーーーーん頑張ってーーーーー💧」
「お母さーーーーーん 俺やで慶文やでーーーーー分かるか?💧」

僕達の声掛けにも反応せず、母は瞳を閉じたまま聞こえているのかどうか分からない状態で必死に痛みと闘っていた・・・・「ウウ・・・・」


「・・・・先生、もう一度・・・・もう一度モルヒネを打ってやって下さい」


母は極度の痛み嫌いで、特に末期癌のそれは常人では耐えられない程のもので 以前から父と痛みが酷くなったらモルヒネを・・・・と約束していたそうだ

「先程も打ちましたので・・・・その💧」と看護師が渋るが父は
「家内が望んでるんで、痛いのダメなんです家内は。痛みを・・・・とってやって・・・・下さい」


看護師さんが父の要求に応じ、この日数度目のモルヒネ投与がされた・・・・


投与が終わって10秒も経たない内に、突然父の肩が震え始め
「由紀・・・・さん・・・・ヒック・・・・ヒック・・・何も・・・・してやれんかったゴメン」と子供のような泣き声が父の背中からした。

僕達兄妹は父の後ろにいた為、背中ごしではあるが・・・・厳格なあの父が泣いている姿を見たのは生まれて初めてだったのでショックを受けたが、それ以上に


父のその涙が・・・・「奇跡は起きないんだ 現実は残酷でこれが現実なんだ」 と、これから訪れるであろう巨大な喪失感を僕達に無理矢理 理解させた

「お母さーーーーーんしっかり」
「お母さーーーーーん 死んだらアカン。イヤやーーーーー」


母はゆっくり瞳を開け、首を右に傾け
父と僕達兄妹の顔を順番に見ていき・・・・

眠るように亡くなっていった・・・・



「お母さーーーーーん」「由紀ちゃーーーーーん戻ってきてーーーーー」「由紀さーーーん」

妹や親戚が母に必死に呼びかけるが一分たっても二分たっても・・・・命が戻ることは・・・・なかった




「14時54分 ご臨終です」



親戚中の泣き声を打ち消すかのように放たれたその医者の声は、どこか事務的で現実的であり、家族の死という非日常を受け入れられない僕達とは真逆のトーンのように僕には感じられた。 


「医者からすれば 人の死など・・・・たとえそれがかけがえのない僕達家族の死であっても所詮他人事だし・・・・彼らからすれば見慣れた日常風景なのかよ クソがっ」と僕は心の中で苛立ったが



「声を掛け続けてあげて下さい。亡くなった後も暫くは周りの声が聞こえている状態だと言われています。どうぞ お母様に最期の声掛けをしてあげて下さい」


看護師さんのその言葉に、そして少し潤んだ彼女の瞳に溜飲が下がった。

毎日 (患者の)死という非日常の中にいても看護師さんにとっては死はやはり日常として処理できるものではなく 当たり前の悲しいものなのだなーと・・・・


声掛けが終わった後、僕達は一度病室から出され 病室内では看護師さん達によって母の洗体がされていた。


その病室の横で父が知り合いの葬儀屋と電話をしていた。どうやら葬儀の段取りを話し合っていたようだ。微かに聞き取れた内容は・・・・




明日が通夜・・・・明後日が告別式・・・・






母と居れるのは あと二日だけだった・・・・


26年間一緒にいたのに・・・・あと二日


なにができるのだろう


そして、母に対し なにを感じるのだろう



母が亡くなってから数時間後、病院から母の体だけが帰宅した・・・・


看護師さん達によって綺麗になった母の体・顔はまるで眠っているかのようで・・・・さっきまで戦っていた癌の痛みから解放され穏やかな表情だった

その横で父は葬儀屋さんと葬儀の打ち合わせをしている。


「もうお母さんは死んだんだ・・・奇跡なんてもんは起きないし・・・・もう二度と母と話すことはできないんだ。何故もっと母の闘病中、何故もっと話をしなかったのだろう・・・・何故もっと 今までの感謝の念を伝えなかったのだろう」

母の寝顔を見ながら、僕の中で後悔の念が輪廻した・・・・


怖かったのだ・・・・多分



普段母とあまりコミュニケーションをとらなかった僕が 闘病中の母に「(今まで)ありがとう」などと言うことは、何かこれから母が死ぬことを半ば認めてしまうかのようで・・・・とても怖かったのだ



それだけは受け入れられないし、認めたくはなかったのだ。だから母の闘病中もツンとした態度をとってしまっていた




思い返せば、母が亡くなる三日程前、僕がリビングで一人アニメ映画を観ていると・・・・足元がおぼつかない母がリビングに入ってきて僕から4m程離れたソファーに横たわり

「ハァ・・・・ハァ・・・・よっちゃん その映画面白いん?」

と僕に聞いてきた。僕はテレビの画面から視線を外すことなく

「・・・・ん・・・・うん。まーまー・・・・」とそっけなく応え母の方を一度も見ることはなかった。

それから約40分間、映画が終わるまで僕はテレビ画面をひたすら見続けていたが・・・・母は・・・・母はずっと僕を見ていた


アニメに興味ない母が何故この場にずっといるのか・・・・そしてテレビ画面じゃなく何故僕をずっと見つめているのか・・・・


顔はテレビ画面を見つつも 視界の端で母がこちらをずっと見ているのを感じ・・・・僕は泣きそうになるのを必死にこらえ 内容が入って来ない映画をひたすら観続けた



母はあの時 僕を目に焼き付けていたのだろう



自分の死が近いのを悟り、受け入れられないがどうしようもないことを悟り、そして最後に自分の子供たちを目に焼き付けて 過去のいろんな思い出を思い出していたのだろう・・・・



鈍感な僕でもそれぐらいは気づいた。いや、母のあの目が そう気づかせた。


だから、僕はテコでも母の方を見ようとはしなかった。見てしまうと、母の方を見てしまうと 母がもうじき死ぬんだということを半ば認めてしまうような気がして・・・・それがイヤで 悲しくて 受け入れられなくて・・・・

だから僕は どうでもいいアニメ映画をひたすら40分観続けた・・・・







何故あの時、母の方を見て 母ともっと会話をしなかったのだろう。

40分もあったのだ・・・・いろんなことが話せたはずだ・・・・小さい頃はすぐ鼻が詰まったと母を困らせていたし
高校受験の時は高校などいかんと言って これまた母を困らせていた。大学に受かった時は 僕以上に喜んでくれたし・・・・本当お母さんは喜怒哀楽が激しいよ




眠ったように動かない母を見つめながら僕は40分程 母との思い出を噛み締めた・・・・



200~250人はいただろうか・・・・駆け付けて下さった多くの方々を見ると 母がこれだけの多くの方に愛されていたんだなーと実感し・・・・母を少し誇らしく思った。



と同時に、やはり母が亡くなったのは、紛れもない事実で・・・・これは現実なんだ ということも・・・・



まだ肌寒い春の夜、多くの参列者と共に・・・・ 母の通夜が執り行われた。

母が亡くなったという悲しみよりも、今はこの式を無事終わらせることに集中する。父も兄妹も皆そういう心境なのだろう・・・・皆一様に普段よりも気をはり、決壊しそうな心のダムを必死に抑えてるように僕は感じた。

ただ僕は、僕だけはまだ

まだ心の中で母の死を受け入れられないでいた。
 眠ったように動かない母を見ても・・・・これだけ多くの参列者を見ても・・・・どこか どこか心の中で足掻いていて


「本当にお母さんと これでさよならなん?嘘じゃなくて?
もう二度と会えへんし、話すことも喧嘩することもマジでできへんの?・・・・そんなん・・・・ウソやろ・・・・」


まるで駄々っ子のように母の死を拒絶し、目の前で行われている式すらも仮想現実であるかのような錯覚に落ち、親族代表として参列者達に機械的に会釈を繰り返していた。



思い返せば、母が亡くなってからこの二日間・・・・ 僕は一度も泣けていなかった


母が亡くなった直後も、母の遺体が家に帰って来た夜も、棺に入った母の寝顔を見た時も・・・・泣くチャンスは幾らでもあったはずなのに



僕は泣けなかった




いや泣きたくなかった。


泣いてしまうということは・・・・母の死を認めてしまうということだから



だから僕は拒絶した・・・・全神経をつかって・・・・涙を・・・・母の死を




母の通夜の最後に、喪主である父が挨拶する予定であったが持病が悪化してフラついた為、急遽 父に代わって兄が参列者の皆さんに挨拶をすることになった。



兄を真ん中に据え、兄の隣にそれぞれ僕と妹が立ち 兄弟三人が参列者に向かって会釈した後、マイクを握り兄はアドリブで挨拶を始めた・・・・



「えー本日は お足元の悪い中 皆様母の為に参列してくださりありがとうございました。 

母が乳癌になったのは今から3年程前・・・・でしょうか。

すぐに手術をすれば良かったのですが やはり胸は女性にとって大切なものだったのか すぐ切除するのに躊躇いがあり・・・・手術を覚悟して切除した後にはもう・・・・リンパから脳やいろんな所に転移していました。

それからは抗がん剤を使った闘病の日々で・・・・副作用で髪の毛が抜け落ち・・・・食事をとるどころか ほんの少しの飲み物を飲んだだけでも戻してしまう程 母の体は段々と弱っていき・・・・・見ているだけで辛かったです。


そんな母を・・・・父が懸命に看護していたのが今も印象的です。母が病気になる前は 父と母はよくいがみあっていたというか・・・・よく喧嘩していたので。

それが母の病気を境に、父は毎日遠い母の病院まで自転車で通い

朝から晩まで母を看護して・・・・あんなに仲良く話してる二人を見たのは久しぶりというか・・・・母が病気になったおかげで逆に 母と父の絆は深くなったように感じました。

そして、僕達兄弟も 母にもっと生きてもらおうと必死に動いて・・・・家族が今まで以上に1つになったように・・・・

こ・・・・こういう結果に・・・・母は最後まで必死に戦いましたが・・・・こういう・・・・」


兄が泣いているのを・・・・僕は初めて見た。マイクを使っているせいか 震える声を必死にこらえようとする歯を食いしばる音や息使いが・・・・余計に兄の悲しみを強調させた。

それにつられ隣にいる妹も下をうつむき涙していた。


僕は・・・・僕は母の死をまだ受け入れられなかったので・・・・決壊しそうな心のダムを必死にこらえようと 視線を斜め上にそらし 必死に・・・・涙だけはこらえた。





その後、通夜も翌日の告別式も無事終わり 僕達家族は家に帰って来た・・・・一人少なくなった家に。


皆一様に この二日間の式で張ってた緊張が解け、どっと疲れがきてるようだった。


僕はこの二日間で溜まっていた郵便物を処理していたら その中に1つ 母宛の郵便物があった・・・・


先月分の母の携帯料金明細だった・・・・


「こ・・・・この明細を送ってきた人は母の死を未だ知らないんだよな。だから、こんなの送ってきて・・・・母は今いないのに・・・・母宛に無神経に送って来やがって」

僕の中で沸々と怒りが込み上げてきた。いや、怒りと悲しみ 両方だろう


死亡報告書や役所の戸籍以外では、母が亡くなってからまだ3日しか経っていないので 母の死は反映されておらず、それらの社会的書類上では まだ母は生きているのだ・・・・


それが虚しくて・・・・なんだか悲しくて・・・・


携帯明細を送ってきた人に他意はないだろうが、母の告別式直後に 母が当たり前に生きてるかのように明細を送られてきたことに僕は憤りを感じ、


その明細をビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。「・・・・何も知らないくせに このタイミングで送って来やがって・・・・」




僕は明細を捨てた後、タンスの上に置かれていた母の携帯をつぶさに見た・・・・
「明細がきてるということは、この携帯はまだ生きてるんだよな・・・・」


・・・・僕は自分の携帯を手に取り、母に電話をしてみた・・・・



プルップルッ・・・・プルップルッ・・・・・・・・




持ち主がいなくなった携帯が、僕の眼前で虚しく延々と鳴っていた・・・・・・・・





「これが現実なんだ・・・・これが事実なんだ・・・・」



もう二度と母とは繋がれないことを実感し、




ようやく僕の頬を雫がたどってくれた・・・・・・・・







お母さん・・・・サヨウナラ・・・・