母の命日 2017.1.11 | パニック障害とぼちぼち生きる

パニック障害とぼちぼち生きる

はじめまして(*´∀`*)
パニック障害になって丸10年、いよいよアラフィフに足を踏み入れた主婦です。
中学生になった娘がひとり。外出が未だ困難なため、学校行事とは今も闘いの日々です。


本日も晴天です

10年前のこの日も晴天でした。

母が煙突から天に昇っていった日も
雲ひとつない晴天でしたね〜。

まだ昨日のことのように感じる時が多々あります。

あの時から10年も経ってしまったなんて本当に実感が湧きません。


この10年の間に娘が産まれ、あっという間に8歳になって、私はパニック障害6年生。

年月は確実に流れているけれども…。



母は苦しすぎる人生を送ってきましたが、最期にその儚い夢を叶えて昇天しました。


クリスチャンになったのです。


それもたぶん残される家族に自分の死後負担がかからないように、と考えたからだと思われます。


父も脳出血という大病であてにならない我が家は、私が中心になって弟と妹とでやっていくしかないのを大変心配していたと思います。



まず、
戒名がないのでお金がかからないこと。
何回忌という法要などの縛りがないのでお金がかからないこと。
お墓に行くのは誕生日だったり、母の日だったり、私たちの気持ちで済むこと。

お墓の場所も生前に市営霊園を指定してきました!

母の死後、私はその通りに市の抽選に申し込み、無事区画をいただき、ピンク系の石に「ありがとう」と彫った小さなお墓を建てました。

母の好きだったコスモスも彫りました


ちなみに年間使用料は5000円弱です。

とにかくお金の負担をかけない、家族に面倒をかけたくない、というまったく母らしい選択でした。





我が家の家庭内はメチャメチャでした。
いつも恐怖や不安ばかりの環境でした。

小学生の時から大人になるまでずっと学校生活や自分自身の楽しかった記憶があまりなく、私の頭の中の記憶は家の中の暗い荒れた不安の記憶がほとんどです。

それは母が生きていた間ずっとでした。

母が亡くなって家族は一気にバラバラになりました。

うちは母一人の力でもっていた
脆い家族だったと実感しました。


私はそんな母が喜んでくれることが一番の喜びだったので、自分のためではなく、母のために生きてきてしまいました。


母が亡くなって、どう受け入れるか考えた時に、母の生き方を否定することでしか受け入れられませんでした。

母の生き方、考え方が間違っていたからこんなことになったのだ、と思うしかない。

どうしても優しい気持ちになれません。

ひどい娘ですね。
死んでも文句を言い続けるなんて。

どうして離婚しなかったのか。
今でもその一言に尽きますし、後悔しても思ってしまいます。


私も弟も妹も結局、精神的に今でも苦しんでいるわけで…



まだまだ何か消化しきれないものを背負っている私たち兄妹ですが

この10年という節目で少しでも良い方向へ前進できればいいなと
願うばかりです。



今日は朝から少し距離を伸ばして川まで歩いてきました。ブツブツ独り、母に文句を言いながら
{75C97B61-CFB5-4C38-8041-14283C207175}

快晴だ!
{6A68E415-E1AB-41CA-9DE1-402CAE01929A}