禅の修行の初体験者は、まず坐相を正し、呼吸を整え、

   全心が無の一字になり切るまで、雑念を消去し、

   自分の心を純粋化する作業を課されます。

 

   やってみると、ホントに情けなく思うほど、自分が雑念多発の中で

   暮らしていたことが痛感されます。

 

   ごみだらけの心を抱えておれは生きているんだなあと、

   痛嘆する機会をもちます。

 

   そのうちに、雑念消去の手段があることに気が付きます。

 

   それは臨済宗の白隠禅師が教えた、雑念が起きたら、それを覚し、

   

   「二念を継がない」ということです。

 

   やってみると、無念無想への最短距離はこれだったな、

   ということが納得できます。

 

   実はこの教えは、四百年以上も前に中国の禅僧(しゅ)(こう)という人の書いた

   「禅関(ぜんかん)(さく)(しん)」という書物の「更無二念」(更に二念なからしむべし)から来たものです。

 

   汗を流して探求してみると、やがて一切の現象無心

   別物ではないことが判明してきます。

 

   般若心経のいう「色不異空、空不異色」

   ズバリ真相をいっていたんだなあということが

   沁々(しみじみ)と体験できるようになります。

 

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   この二念を継がないという修練に

   原価は一円もかからないのですが、

   多くの人は、できあがって固まった

   意識慣習に流されて、修練を怠るのですね。

 

 

   TKC会報No.324 (20001/1発行)より抜粋

 

    

 

 

 

 

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