オリンピックを観戦していて、ふと思うことがあります。
日本ほど色んな競技を行っている国があるのだろうか?と
そんな競技の中で、見事初めてメダルを獲得された種目、その人たちに注目しました。
1)やり投げ(北口榛花選手)
中継を固唾を呑んで観戦しておりました。
彼女の最近の投擲は、最終の第6投で逆転勝利することが多かった。
ところが、予選ではいきなり62.58mを投げて一発で予選をクリアーした。
そして迎えた決勝戦。ここでも一投目で65.80mを投げた。
以降ライバルたちは、この大会目標を越えることなく終えた。
わずか2投で、史上初のオリンピック金メダルをつかみ取った。
子どものころから、そのセンスは輝いていたという。
小学生時代は、バドミントンで全国大会で団体優勝する。
中学生時代は、競泳で全国大会に出場し、
高校生では、陸上に転向してわずか2ケ月で北海道大会で優勝している。
そして2年後の2015年世界ユース大会において金メダルを獲得するのです。
以降国内では敵なしの状態になったが、専門のコーチは不在だった。
彼女の凄いところは、チェコのデイビッド・セケラックの指導方法に興味を持ち、
不慣れな英語でメールを交信して、指導を依頼した点にある。
単身チェコに渡り、世界でも難しいとされるチェコ語をマスターし、技を磨いたのでした。
溢れる笑顔の下に、身を削る努力が実ったことを物語る一コマだった。
金メダルを獲得した翌日、彼女はチェコのドマジュリツェにいた。
指導を受け、声援を受けたチェコの人たちへの感謝を忘れてはいなかった。
だが、この世界の水準はとてつもなく高い。
彼女のベスト67.38mは歴代ベスト10位にも到達しない。
抜群なセンス、努力を惜しまない向上心、そして持ち前の笑顔で記録の更新に挑戦して欲しい。
2)10m高飛び込み(玉井陸斗選手)
彼が彗星の如く登場したのは5年目の春、当時まだ中学校に入学したてだった。
12歳とは思えない、鍛えられた肢体でした。そう史上最年少で日本一に輝いたのだ。
日本の飛込競技は、1920年のアントワープ大会から始まるという。
長い間、寺内健選手(1994-2023)と坂井丞選手(2009-2024)の時代が続いた。
どちらも中国出身の馬渕崇英(蘇薇)コーチの指導を受けた選手でした。
玉井選手は3歳で水泳を始め、小学1年生で飛び込みを始める。
先の馬渕コーチと出合い、英才教育を受け、その才能を開花させた。
高飛び込みに要する競技時間は僅か2秒という。
その2秒間に指先からつま先までに全神経を集中させ、水の跳ね返りを少なくする。
最も過酷な競技といえる。
日本の飛び込み人口は僅か300人(700人という説も)。専用のプールの施設も少ない。
飛び込み王国の中国は、全8種目とも金と鉄壁を誇っている。卓球同様、壁は高い。
100年振りに獲得したメダル。これからも精進して中興して欲しいと願うばかりである。
3)馬術団体(初老ジャパン)
乗馬はオリンピック種目の中で、唯一男女の区別のない競技だ。
馬場馬術競技・クロスカントリー・障害飛越競技の3種目がタイムと評点で競われる。
かって日本の馬術は軍部が中心だった。1932年のロサンゼルス大会で金メダルを獲得した
「西竹一中尉」が有名で、硫黄島の玉砕の際も米軍は最後まで「西中佐」の投降を促した。
多くの者がロス大会の「バロン西」を知っていたからだという。
時は流れ、ロス大会から92年経ったパリ大会で、初老ジャパンと称する高齢の4人組(大岩義明・戸本一真・北島隆三・田中利幸)が銅メダルを獲得した。イギリスに滞在して、練習(訓練)と大会をこなした。
この莫大な費用は個人では賄いきれず、現在は日本中央競馬会と日本乗馬普及会及などから、約8億円の支援があるという。平均年齢41歳のメンバーが、家族を日本に残して精進した結果だった。馬術ひと筋の大岩選手は『ついこの間まで大学生だと思っていたが、いつの間にか初老と呼ばれるような年になってしまった。ここまで続けられたことがよかった』
と言い
『国民の皆さんに(年齢を重ねても)諦めずに一歩一歩前進することができると、競技を通じてお伝えすることができたんじゃないかと思う』
と結んだ。馬術は人馬ともにと言われる。絶体絶命の中で、4人のチームワークが勝利へと導いたと思いたい。
初めての分野で活躍した選手は多い。
・ブレイキン(湯浅亜美選手)
・スポーツクライミング(安楽宇斗選手)
・近代5種(佐藤大衆選手)
それらの選手の積み重ねた精進に敬意を表すると共に、今後の活躍を期待するのです。