宏池会の系譜/魑魅魍魎の世界 | をだまきの晴耕雨読

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ブログを始めて10年が過ぎました。
開始時の標題(自転車巡礼)と、内容が一致しなくなってきました。
生き方も標題もリフレッシュして、再開いたします。

安倍後継を巡り、自民党内の権力争いがTVでリアルに報道されるようになった。

 

連日トップニュースだった「新型コロナウイルス」の話題は押しやられ、政局の季節になった。

 

今回の道化者は「岸田文雄」政調会長だろう。

 

 

安倍総理からの禅譲を期待して、2度の総裁選の機会を見送って、”次は俺”とほくそ笑んでいた。

 

政界がそんなに単純なものでないことを、今回も見事に証明したことになった。

 

彼は自民党の中で、最も歴史と伝統があり、保守本流である「宏池会」の領袖なのに。

 

「宏池会」は「池田隼人」が「吉田茂」に薫陶を受け、立ち上げた派閥だった。

 

 

出身者は官僚が多く、政策には明るいが、政局には弱く「お公家集団」と揶揄されてきた。

 

伝統的に財務官僚が多く、経済優先のハト派集団とみられている。

 

 

池田の急死を受けて派閥を継いだのも、彼の同僚で会った「前尾茂三郎」だった。

 

 

彼は頑固なところがあったが、優柔不断なところもあって、派内クーデターにて引きずり降ろされる。

 

その理由は、「佐藤総理」に対抗する立場にありながら、立候補を見送ったことにあった。

(佐藤は立候補を見送れば、優遇すると約束したが、選挙が済むと約束を反故にした)

 

政界一の読書家で、当時の金額で400~500万円/月を書籍購入にあて、蔵書は4万冊に及ぶ。

 

そして、「椎名悦三郎」「灘尾弘吉」交流を深め、政界の三賢人と呼ばれた。

 

 

若手のクーデターを裏で指揮したと言われるのが「大平正芳」であった。

 

 

「あ~う~」と歯切れは良くないが、一度発せられる言葉は整然としていて、添削の必要がない。

 

それほど、熟慮した言葉を発する政治家だった。

 

彼も財務官僚で、総理への道は「田中角栄」の援護射撃が必要だった。

 

今でも理想の政治家として名声が高い。彼も経験なクリスチャンである。

 

彼が提唱した政策は、先日発売の「岸田ビジョン」に「デジタル田園都市構想」として息づいている。

 

 

消費税を巡る総選挙の最中に急死した「大平」の後を継いだのは「鈴木善幸」だった。

 

 

初めての党人政治家だった。

 

総務会長を3度も務め、宏池会が苦手とする政局担当だった。

 

彼は最初の総選挙には「社会党」から立候補したという人物で、総理になる勉強も意思もなかった。

 

再選に立候補しなく、「中曽根康弘」に譲る形で退任した。

 

 

彼の後を継いだのは、縁戚関係にあった「宮澤喜一」だった。

 

 

彼こそが、池田の派閥の正当な継承者であろう。

 

あのサンフランシスコ講和会議に、「全権随員」として吉田首相のお伴をした経歴をもつ。

 

政界を代表する知性として、時に「中曽根康弘」と比較された。

 

保守本流の意識が強く、平和憲法にこだわった。

 

英字新聞を読み、初対面の記者や関係者に出身大学を訊くという、鼻もちのならなさはあったが。

 

 

竹下派の内部分裂を受けて、内閣不信任案が成立したとき、後は「河野洋平」に託された。

 

 

父「河野一郎」は衆議院議長も務めた政界の実力者で、典型的な二世議員だった。

 

金権政治を嫌う潔癖さから、「新自由クラブ」を結成し、時代のブームをつくった。

 

村山後継では「橋本龍太郎」に漁夫の利を奪われ、総理になれなかった初めての総裁となった。

 

失意のうちに「宏池会」を去り、最初の分裂が始まったのです。

 

 

その事件のシナリオを描いたのが「加藤紘一」と言われた

 

 

彼も大蔵省出身の財務官僚で、典型的な二世議員でした。

 

優秀で世界に明るく、早くから「プリンス」として順調な経歴を重ねた。

 

「小渕総理」が急逝したときに、密室で選ばれたと評判の悪かった「森総理」

 

『彼には解散はさせない』と、野党の不信任案に賛成をほのめかした。

 

「加藤の乱」でした。そのとき『あんたは大将だから』と止めたのが「谷垣 禎一」だった。

 

 

彼も二世議員ながら、東大を卒業した後、司法試験に合格した秀才である。

 

人の良さは無類のところがあり、「麻生総理」が大敗し、野党になったときに総裁に押された。

 

そして政権与党に復帰する際の総裁選挙では、立候補もできなかったのでした。

 

推薦人にならず立候補の邪魔をしたのが、河野が出た宏池会を引き継いだ「古賀誠」だった。

 

 

彼は戦争で父親を亡くし苦労して育った。

 

恵まれた家庭で育ち、優秀な頭脳を持った人たちの多い「宏池会」の中では異質だった。

 

河野が去り、加藤が去った「宏池会」を守り続けた戦略家でもある。

 

「國松善次」元滋賀県知事の叙勲祝賀会での挨拶は、さすがと思わせるものでした。

 

 

失意の河野の後を継いだのが「麻生太郎」だった。

 

 

ご存知「吉田茂」の孫にして、セメント王「麻生太賀吉」の息子として、サラブレッドである。

 

実妹は皇族の「寛仁親王妃信子」で華麗な閨閥を誇る

 

1976年モントリオールオリンピッククレー射撃(クレー、スキート競技)にも出場している。

 

敬虔なキリスト教(カトリック)であり、洗礼名は「フランシスコ」という。

 

現在も派閥の領袖であり、「河野太郎」も派内にいる。

 

 

そして古賀の跡目を継いだ、「岸田文雄」

 

「宮澤喜一」とは縁戚関係になる。

 

今回だけは、絶対に立候補すると息巻いている。

 

安倍から禅譲を期待したが、昨日見事に裏切られた。

 

政界ではこんなことを真に受けて、ポチのように待っていた岸田が幼稚だと笑われている。

 

かって「大野伴睦」は、「岸信介」から密約書まで交わしながら、土壇場で裏切られた。

 

 

そして今回の「安倍晋三」は、その岸の孫にあたる。

 

そんなことも知ってか知らずか、「岸田」は笑い者になったのである。

 

政治は綺麗ごとでは済まされない権力闘争である。

 

だから「大平」は2人の息子を政治家にはしなかった。

 

政治家は最低の職業であると、彼は語っていた。

 

お人よしを絵にかいたような「岸田文雄」、今回はあくまでも選挙管理内閣である。

 

真の勝負は、来年9月の自民党総裁選挙なのである。

 

それまでに力を蓄えて、3つに分裂している「宏池会」を再集結して「大宏池会」にして欲しい。

 

そうしたら、麻生派56名、岸田派47名、谷垣派17名、110名になり「清和会」を凌駕する。

 

陰謀や裏切りが横行する政界において、真摯で穏健な、保守中道の政治を取戻して欲しい。