喜びも悲しみも幾年月/航行の安全を願って | をだまきの晴耕雨読

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ブログを始めて10年が過ぎました。
開始時の標題(自転車巡礼)と、内容が一致しなくなってきました。
生き方も標題もリフレッシュして、再開いたします。

名作を観ました。主題歌は知っていましたが、

これまで「高峰秀子」さんが出演した作品は「24の瞳」「カルメン故郷へ帰る」しか観ておりませんでした。

 

この映画は、昭和31年(1956)に雑誌に掲載された(福島「塩谷崎灯台」長「田中績(いさお)」さんのお奥様(きよ)の手記を元に、昭和32年(1957)に「木下恵介」監督が脚本を執筆したものでした。

 

物語は昭和7年(1932)東京湾の入り口、三浦半島にある「観音埼灯台」に若い夫婦が夫婦が赴任するところから始まります。2人は新婚で、結婚式をあげたその日に赴任した、本当に新婚さんでした。

 

 

大勢の先輩方と、そのご家族から歓迎を受けます。

おりしも第一次上海事変が勃発した年でした。

 

 

有沢四郎(佐田啓二)は父親の死後、見合いを行い直ぐに結婚式をあげてその日に赴任という、

慌ただしい日を過ごした。もちろん妻のきよ子(高峰秀子)と二人になるのは初めてでした。

『しっかりやろう!仲良くしよう!約束しよう!死ぬまで別れないって』

『えぇどんなことがあっても』

 

 

昭和8年(1933)雪深い北海道の「石狩灯台」に赴任します。

 

 

出産を迎え、産院に行き遅れた妻は、寄宿舎で生むことになります。出産に立ち会うことになった夫に、予て勉強していた婦人雑誌を示し『あなた2月号読んどいて』と言うのです(妊娠と出産というタイトル)

 

 

雪の中、産婆は間に合わず自力で出産するのです。そうして長女「雪野」に続き、

長男「光太郎」も誕生するのです。今度は大事をとってふる里で出産したのです。

 

 

リンゴが名産と言っていますから信州でしょうか?山々が美しいですね(長男の宮参り)

 

 

昭和12年(1933)東京都「伊豆大島灯台」

 

 

そしてこの年日中戦争が勃発するのです。

 

 

この年は慌ただしく、任期半ばで大分県豊後水道にある「水ノ子島灯台」

 

 

更に、長崎県五島列島の「女島灯台」へ 

 

 

絶海の孤島には灯台守の家族もいてません。子ども達は遊び相手にも恵ません。

夫婦喧嘩をしても、連絡船は10日に一度、その間に仲直りをしてします。

歌詞の3番が流れます ♪離れ小島に 南の風が 吹けば春来る 花の香り頼り ・・・・ ♪

 

 

子どものことを思って家族は対岸の「玉之浦」へ引っ越すのでした。

 

 

そこで「きよ子」は、若い職員から恋のキューピット役を頼まれるのでした。「野津(田村高廣)」は,灯台長の娘「真砂子(伊藤弘子)」と相愛の仲でしたが、台長も娘も灯台守との結婚は望んではいませんでしたその理由は、辺地への転勤が多いからでしょう。

  昭和13年(1948) 国家総動員法

  昭和14年(1949) 第二次世界大戦始まる

  昭和15年(1950) 仏、独に降伏する

  世界がどんどんきな臭くなって行きます

 

『きよ子転勤だ』『今度はどこですか?』『日本の真ん中だ』『わーうれし』

 

昭和16年(1941) 新潟県佐渡島「弾崎灯台」

 

 

この年の12月8日、日本は帝国英米に戦線を布告します。

戦局は厳しくなり、出兵する若者が増えます。

 

 

若い職員が地元の若者と喧嘩をします。『兵役逃れ』と罵られたからでした。

 

 

次席になっていた「有沢」は、灯台守の厳しい職務を理解して貰おうと出兵激励会に乗り込みますが。

 

船舶の航行の安全を駆歩するためには、時化であろうがランプを交換しなければなりません。

 

 

昭和20年(1945) 静岡県「御前埼灯台」

 

敵機襲来に備え、灯台は樹木でカムフラージュしています

 

それでも「金華山灯台」「尾矢崎灯台」「犬吠崎灯台」「綾里崎灯台」では痛ましい殉職者が多く出て残されたのは人海戦術だけです。竹槍で効果があるのだろうか?

 

 

長崎県五島列島の「女島灯台」で一緒だった「野津」と再会します。

台長の死をきっかけに、なんと「真砂子」と結婚していたのです。

 

 

灯台の灯りが消えてしまったのに「きよ子」は嬉しそうです。

昼間言い合いをしたときに「四郎」から『バカ』と初めて言われたのです。

結婚してから、『バカと言わないように努めてきた』と言われ『バカでいいわ』

二人の心が通い合った瞬間でもありました。

 

 

昭和20年(1945) 終戦 疎開に来て仲良くなった「名取進吾(中谷昇)」ともお別れです

 

 

昭和25年(1950) 三重県志摩「安乗崎灯台」

 

 

この年初めて「灯台記念日」が制定されます。

明治元年(1958)に「観音崎灯台」に初めて灯りが灯されたのが11月1日でした。

勤続30年表彰の台長に代わり挨拶をすることになった「四郎」

決して暗記力は優れたものではなさそうで

 

 

幹部は夫婦で並ぶのですね

 

 

ときどき挨拶に詰まる「四郎」。それを心配そうに見守る「きよ子」

 

 

「雪野」は高校3年生。疎開で仲良しになった、「名取家」から、住居を提供するという申し出が。

『大学は東京へ』。「四郎」の心痛が始まります。しかし母は味方でした。

 

 

昭和29年(1954) 香川県「男木島灯台」

 

 

悪い知らせが届きます。大学受験に失敗した「光太郎」が、不良と喧嘩して挿されたというのです。

いまわの「危篤」の電話を受けても、仕事を理由に会いに行かない「四郎」。

 

 

駆けつけたが間に合わず。「四郎」の言葉が印象的です。

『社会の動きに無関心で、船舶の航行の安全だけを願っていた』

 

 

昭和30年(1955) 静岡県「御前埼灯台」  四郎は初めて灯台長として赴任

 

娘の「雪野」を訪ねたところ、「名取」から思わぬ申し出を受ける。「進吾」との縁談だった。

またしても躊躇する「四郎」。「進吾」の商社勤めが心配だったのです。

今回も背中を押したのは「きよ子」でした。

 

 

教会での結婚式(ハイカラです)。思わず涙ぐむ「四郎」と「きよ子」

 

 

カイロへ向かう「雪野」夫婦の船を待っている。

同じように客船から双眼鏡で両親を探す「雪野」夫婦。

 

 

台長の特権として「霧笛」を鳴らして知らせる。

「進吾」も船長に頼んで霧笛を鳴らしてもらう。

 

 

最期の場面。年は不明。 北海道小樽市祝津「日和山灯台」

 

 

すっかり老けた夫婦が励まし合いながら丘を登っています。荷物が重そうです。

 

 

戦争の情報はありますが、あくまでも灯台守の生活が中心で、地味な内容の映画です。

しかし、ナゼか心を打たれたのです。

 

画像は紹介しませんでしたが、2番目の「石狩灯台」で病床の妻と若い灯台員の会話

『世間の人たちだって、あたし達のこと忘れてるわよ。沖を通る船だって、あたし達の苦労、知ってくれるかしら

『誰も知っててくれなくったって、いいじゃないか。俺の苦労はお前が知ってる。お前の苦労は俺が知ってるよ』

やがて妻は息をひきとる

『この灯台の光が、沖の沖の方まで輝いて見えるんだ。俺もお前も、この光を守るために生きて来たんだ

この映画の「主題(監督が映画を通じて伝えたかったこと)」を総て表しているようでした。

 

映画は最初の方は「四郎(佐田啓二)」さんが輝いていました。ハンサムです。

後半は役柄なのか、「きよ子(高峰秀子)」さんの存在感が際立ってきます。

 

2人とも老け役が見事です。メーキャップもさることながら、所作が素晴らしいのです。

その前に「宮崎駿」の番組を観ていて、細かな動きにこだわっていることを勉強しただけに余計でした。

 

思えば、「高峰秀子」さんは、どんな役でもこなしてしまう役者でした。

「シャキシャキした明るい人」「奥ゆかしく耐える人」「理知的な人」どんな役でも自然な演技力で

1つの役(イメージ)しかできない役者との違いを、見せつけられました。

 

全国に750基の有人灯台があると言っていましたが、赴任した灯台のある風景の美しかったこと。黙々と従事されている方々を慰めるような風景でした。いま全国に3,340基ある灯台は総てが無人灯台になっています。過酷な生活だったからなのでしょう。

この映画は、そうした方々への「hommage」になっていると思いました。

 

ブログ内の写真は本編からカットし、使用させていただきました