久しぶりのオフの日、整骨院で矯正して頂いたあと、寝そべって「四国遍路の寺(五来重)」という本を読んでおりました。
五来先生は山岳宗教の権威で、修験道に詳しい。
お遍路とは関係ありませんが、連想して修験道とお供をする者を考えました。
修験道と言えば「役行者(役小角)」です。今から1381年前に生まれ、17歳の時に奈良元興寺において「孔雀明王」の呪法を学びました。
葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山にて「金剛蔵王権現」を感とし、修験道の基礎を築きました。
その役行者の左右に付き添っているのは「前鬼」「後鬼」と呼ばれる従者です。
(写真は滋賀県の石馬寺宝物館の役行者と前鬼・後鬼像)
「前鬼」「後鬼」と呼ばれる者は、生駒山に住み、人に災いを為していました。役行者は彼らを不動明王の秘法にて捕縛しました。2人は改心して小角に従うようになったという(写真は行者堂です)。
従えていたと言われる鬼は夫婦で、赤鬼の前鬼を善童鬼、青鬼の後鬼を妙童鬼と呼ばれ、それぞれ義覚(義学)、義玄(義賢)の名前があります。
夫婦の5人の子どもは、「五鬼」または「五坊」とよばれ、「真義」「義継」「義上」「義達」「義元」の名がついていますが、行者の五大弟子の「義覚」「義玄」「義真」「寿玄」「玄芳」と同一視されています。
彼らは、下北山村に修験行者の為の宿坊を開き、「行者坊」「森本坊」「中之坊」「小仲坊」「不動坊」を屋号としました。
後の「五鬼継(ごきつぐ)」「五鬼熊(ごきぐま)」「五鬼上(ごきじょう)」「五鬼助(ごきじょ)」「五鬼童(ごきどう)」5家の祖となったのです。
明治初年の廃仏毀釈や、明治5年(1872)の修験道禁止令によって修験道が衰退すると、「五鬼熊」「五鬼上」「五鬼童」の3家が廃業し、その後「五鬼継」家も廃業しました(写真は「五鬼助」家)。
現在は小仲坊の「五鬼助」家が宿坊を開き、伝統を守っています(ご当主は61代目という)。
役行者に遅れること140年後の宝亀5年(774)に「弘法大師/空海」が生まれます。
彼も若いころは山岳修行を盛んに行ったと、自伝とも言える「三教指帰」に書いているという。
四国の「大瀧岳」「室戸岬」などで、超記憶術を得るために「求聞持法(虚空増菩薩の真言を1日1万回100日間唱える)」を会得したという。
虚空蔵菩薩のご真言は「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」でこれを1万回唱えるとなると1回5秒でも14時間近くかかってしまいます。
室戸岬には、その修行をしたという「神明窟」と「御厨人堂」と呼ばれる洞窟が並んでいます。
弘法大師/空海がそのような修行ができたのは、身のまわりのお世話をした者がいたに違いありません。彼らは空海と一緒に高野山に登ったとされており、名前も残っていません。
同時代の層で、東大寺二月堂のお水取りを始めた「実忠和尚(じっちゅうかしょう)」にも、お世話をする二名の者がいたとされています。
さらに時代は下って、天長8年(831)生まれの「相応和尚(そうおうかしょう)」は、比叡山回峰行を始めた人として有名で、天台宗第3代座主となった人です。
生身の不動明王を感得したいと願い、修行場を求めましたが、地主神の「志古淵明神」がいて叶いませんでした。
その時、眷属の「浄鬼・浄満」の2名の童子によって、三之滝を得ることができ、念願の不動明王を会得したという。
この「相応和尚」の体験を忠実に守っているのが、千日回峰行であり、葛川明王院の夏安居(なつあんご)なのです。
回峰行や夏安居に関しては、いまでも浄鬼・浄満のご子孫の方が先頭にたって執り行っています。
「浄鬼」は「常喜」と読み替えられ、現在では「葛野」家がそれにあたり
「浄満」は「常満」と読み替えられ、現在では「宮垣」家がそれにあたります。
1000年を越える間、明王院の前に住み続け、ひたすら回峰行者の手助けをされているのです。
写真は、「相応和尚」が三之滝で生身の不動明王を会得した場面を再現しているといわれる「太鼓乗り」
これら行者の側には、必ず生活のお世話をする者がいたに違いありません。
五来先生はそう言っています。
彼らが帰依する「不動明王」の脇士には、「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」と「制吒迦童子(せいたかどうじ)」がいます。
前鬼・後鬼も、浄鬼・浄満も、あの2童子の生まれ変わりに違いないのでしょう。
その子孫は、兄弟・縁者が協力して伝統をつないでいるという(養子縁組みなどのご努力も)。
薬師三尊などの脇士は仏(日光・月光)なのですが、役行者の場合も「鬼」と名付けられてはいますが、尊い存在であると思うのです。